• 12月10日・金曜日。晴れ。

    昨日、民間の日本人2名が宇宙に飛び出した。搭乗費は〆て数十億円とも百億とも聞く。宇宙関連の技術開発に資するであろう。やがては宇宙産業の道も開かれる。ならばこれは壮挙なのであろう。だが、こんな文章もある。「はしかのワクチン 3000円で120人分 栄養治療食 5,000円で150食分 マラリアの治療 10,000円で24人分 コレラ対策キット 30,000円で12人分」(『国境なき医師団の活動』より)。そして、本日の朝日新聞朝刊にこんな川柳を読んだ。

    宇宙から見下ろされてる飢餓の村 浜田竜哉

    この句に寄せた選者の評は「貧富の差の非情」とある。こうした巨大な落差にただ茫然とするが、政治はこれをどうすくい上げるのか。

     

    12月13日・月曜日。晴れ。岸田総理の政治姿勢が見えてきているようだが、どうであろう。当初、新資本主義のもと分配の是正を強調し、安倍・菅政権の成長戦略を否定したが、批判や抵抗に合えば、あっさり前言をひるがえし、経済成長主義に転換して前政権との区別がなくなった。今は、石原氏の件やら、給付金騒ぎにもたつき、どうもふらついている。

    「ブレまくり」これは今後も「ブレません」 みつお

     

    承前。では、世界の砂の消費量とは、一体、どれ位か。記事は言う。砂・砂利・その他の資材を含めた毎年の総消費量は500億トンであり、これは地球赤道上にぐるりと、高さ、厚さ共に27mの壁を建設するのに十分の量であるらしい。これがどれほどの事か、筆者には想像もつかないが、毎年ともなれば、今後が不安になってくる。

    その用途も単に建築資材にとどまらない。世界中の滑走路、東シナ海、シンガポール、ドバイ等の埋め立てや人造島の建設ほか、窓・コンピューター・モバイル等のガラス、さらにはシリコンチップの原料でもあり、これらが欠損すれば、世界は経済のみならず、社会の存立自体危うくされる。最近の半導体の不足が、世界の製造業を停滞させ、一銀行の、あるいは交通機関のコンピューターの不具合が大混乱を呼び起こすような、精密に連結、構築された現代社会の弱さを思えば、これらについての説明はほぼ必要あるまい。とすれば、砂は「近代社会の基礎」物資であると言うのは、よく分かる。しかし、指摘されなければ、気にもされずに放置された素材であった。これはまた、一昔前の無駄使いを表した、「湯水のように使う」の言葉に見る、「湯水」の場合と同様である。

    上で砂の消費量を示したが、正確にはその総量は、誰にも分かっていないらしい。だが、今世紀になって、その使用量は急増し、これまでの3倍という。たしかに、地球上で拡大する砂漠化を見ると、供給の不足は信じがたいが、それでも需要に及ばない。そこには、こんな事情があるようだ。砂はどこでも同じではない。砂漠の砂は風に摩耗し、丸みを帯びてつるつるになる。それは建築資材には向かない。角ばって、互いにかみ合う素材でないといけない。「それらは川や海底、沿岸、石切り場で造られ、そこから取得される」。つまり、砂の供給源は、飲用・生活用水、工業用水と同様に、限定されているのである(以下次回)。

  • 12月8日・水曜日。雨。本日は真冬並みの寒さとあったが、当然である。二十四節気で言えば大雪の頃である。温暖化の最中にあって、人はみな冬の厳しさを忘れ、ふやけつつある。

     

    承前。以上はすべて人間の便利、利得のための乱開発の結果であり、それが行きすぎたことが、現在の資源の枯渇や環境問題を生み、もはや取返しのつかないところまで来てしまった。以下ではその資源問題を、「砂」(すな)を例に取り上げ、それがいかに深刻であるかを紹介し、人間はここでも、経済成長の限界を突きつけられていることを指摘してみたいのである。

    だが、なぜ「砂」なのか。これは先ず、人々が日常生活において、普段、直接関わることが少なく、しかも身辺のどこを見ても土砂としてあふれ返っているようにも見えることから、特段、問題になるような事ではないように思われる対象だからである。

    しかしそうではない。砂は建築・土木事業の「骨材」として必須の素材であり、それゆえにその消費量たるや、最大の「水」に次ぐ量であるという。現在の建築事業の止まるところを知らぬ巨大さと継続性のためである。それゆえ、その無限とも言うべき需要を満たすために、国内のあらゆる河川は無残に抉られ、山が消滅したことは、本欄でもすでに見たとおりである(2019,11/26以下を参照されたい)。

    そして、これはわが国だけの問題ではなく、今や世界レベルで言えることらしい。「信じがたいことながら、世界から砂が無くなる」(ジャパンタイムズ・‘21、5/5・水より)(以下次回)。

  • 12月3日・金曜日。晴れ。温暖な日よりである。

     

    一口に資源の枯渇といっても、その対象は果てしがない。科学の発展が、これまでは見向きもされなかった多様な素材を、一気に貴重な資源として浮上させた。原子力機器、電子機器の製造に必須のものとされるレアメタル類はその典型だろう。だが、そこではこれに従事する労働者たちの劣悪な労働環境が、彼らの命を危うくするほどの問題がある。さらには、希少素材は直ちに掘りつくされ、石油の場合と同様、次第に掘削地域を広げ、地球深くに侵攻し、こうしてわれらの大地に甚大なダメージを与えることになるのは必然である。事実、関連技術の巨大化と列強諸国間の競争がそれらを埋蔵するアフリカ等の途上国を急襲し、広大な大地を乱掘する映像は、見るも痛ましいものがある(上の文書を記した夕刻、たまたまニューヨークタイムズ・12/3付の記事「コンゴ国コバルトをめぐるライバル間の監視 リーダーシップを求める闘争、電気自動車用鉱山の改革、危うし」を読み、まさに我が思うところが示された)。

    以上と同様、筆者にとって特に気になるのは、東南アジアほかの熱帯雨林に特有な、生物の多様性ともかかわる、膨大かつ多様な菌類に対する権益問題である。これまで熱帯雨林が人類の侵入から守られ、あるバランスの中で生態系を維持してきたのは、こうした菌類、特に人間に対しては各種病原菌の存在であったと、マクニールの名著『疫病と世界史』から教えられた。それが、20世紀に入って急激にして広大な乱伐に見舞われ、日々、その多様性を失っている。人類はこうして自らの存在条件を危うくしているのである。

    しかも、これら菌類は単に疾病の原因であるばかりか、未来の薬品の素材となる可能性が益々明らかになるにつけ、それらが先進国政府をバックにした巨大製薬会社によって、次第に蚕食されかねない状況もあるという。つまりこれは、先進国が開発援助や薬品製品化のための膨大な研究・開発費を理由にして、菌類はじめとする多様な生物・遺伝資源に対する途上国自身の所有権を召し上げようとする危険性の問題である(以下次回)。

  • 11月29日・月曜日。晴れ。前回から数えて20日間の休載である。別段、筆者に体調問題があった分けではなく、ただあれこれ諸事雑多に取り紛れた結果であった。もう一つは、新社屋への移転という環境の変化も、仕事に乗れない遠因であったのかもしれない。

    12月1日・水曜日。荒天後の晴れ。はや師走。

     

    筆者がここ2年余り取り組んできた「社会のたたみ方」と題する論題は、しばしば言ってきたように、疲弊した地域社会の蘇生をどう図るかという問題であった。その際、それは大都市圏に依存せず、各地域は隣接地域と連合する形で、独立した地域経済圏を形成する、そうした姿を模索してきたつもりである。

    そうでなければならない理由はいくつもあるが、大都市に依存した地域社会は、結局、ヒト、モノ、金を都市に吸引され、疲弊する結果にならざるをえず、その経緯を、わが社会はこの100年、まざまざと見せつけられてきたからである。少なくとも、筆者はそう見る。歴代の政府、それを支える政・官・財および学界は、そうした大都市中心主義的な政策こそ、工業、商業、各種サービス業を促進し、こうして国全体の発展を効率的にもたらすとの思考があったのであろうか。大都会の成長が地方を潤すとの、一種のトリクルダウンの考え方である。だがその結果は、逆であったことは、今やだれの目にも明らかであろう。それゆえ、ここではやみ雲な「経済成長主義」からの離脱を主張したいのである。

    成長の限界を予兆させる要因は、いくらでもある。グローバルで見れば、地球温暖化は待ったなしであり、世界人口もいよいよ限界点に達しつつあるとの議論もある(これらはすでに本欄で見てきたとおりである)。ブラジルにみる熱帯雨林の破壊は世界の一例にすぎない、広大な環境破壊がある。水の天体ともいわれる地球上の飲料・生活用水の不足は、もはや深刻であり、戦争の危機をはらむと言われる。事実、かの中村哲氏の殺害は、当該地域に緑をもたらした水路の建設が、他地域にとっては水量の減少を来すとの不安に絡んだことであった、と報道された(朝日新聞・朝刊11/29。月)。

    以上とは別だが、列強国間の地政学的上の熾烈なせめぎ会いと戦争への恐怖が、地球全体を覆い、逃れようのない不安をかもす。ここには、第二次世界大戦時の火力とは比較にならない、核兵器他の壊滅的で絶対的な破壊力の凶暴さが、「経済成長」どころか、われらの地球の存続すら脅かす政治状況があるからだ。現に、ロシアのプーチンは、ウクライナへの侵攻を本気で画策しているとは、先日のジャパンタイムズの報道に見た。米中の角逐がこれに重なる。そして、深刻な資源問題がこれにつづく(以下次回)。

  • 11月8日・月曜日。晴れ。先週は別件の仕事のため、本欄は休載とした。

    9月の総歩数・273,542歩、平均歩数・9,118歩、最高・13,440歩、最低・3,384歩であった。10月は総歩数・272,910歩、平均歩数・8,804歩、最高・13,148歩、最低・3,021歩であり、平均9千歩を割り込み、少々残念である。

    11月10日・水曜日。晴れ。

     

    総選挙の結果がでた。各種の報道によれば、国民は概ね自民の大勝を歓迎しているようである。立憲を中心とする野党の統治能力に信が置けないということが、主たる理由である。たしかに、筆者にも、この指摘に頷く点が多々ある。財源の裏打ちのない助成金交付や消費税の引き下げなどは、長期的展望を欠いたポピュリズムの匂いを嗅いだ。何より、安全保障政策の問題については、大きな不安を覚える。これだけ中国の脅威を見せつけられている昨今、日米安保条約の解消を主張する共産との共闘は、最後までしっくりこなかった。共産とは閣外協力で臨むという、立憲の主張は国民の間にどこまで浸透したのであろうか。単なる数合わせに過ぎないとの与党側からの批判や攻撃は、その限り功を奏した。

    しかし、「一強五弱」とも言われる政治状況が、健全であるとも思えない。それが我が国の政治状況に何をもたらしたかを、先に中島京子氏が一言のもとに示された(「衆院選に思う」・朝日新聞11/2より)。「この選挙は、長く続く自公政権への評価を行うものでもあったはずだ。行政文書の破棄や改ざん、黒塗りによる開示拒否など、民主主義がないがしろにされるのを見てきた。なにより、政権与党は臨時国会の召集を求められても応じなかったのだ。選挙だけではない、この国では、政治そのものが大切にされていないと感じる」。つまり、数々の不都合な事実の隠蔽であり、何をしても何とかなるという、政権与党の驕りである。

    その結果、国民生活はどうなったか。「人が生まれてきた以上誰でも持っている、生きる権利」がおろそかにされたのである。それを具体的に言えば、こうなる。「日に2万人もの新規感染者」を出すようなコロナ禍のさなか、オリンピック開催が巨額な費用をかけて強行される一方で、「職を失い、家を失った人がおおぜいいた。入院できず、たらいまわしにされて亡くなった方もあった。救われる命が救われない恐怖に、多くの人が震えた」そうした状況に、少なからぬ人々が放置されたのである。

    この度の選挙はそうした現状に対する国民の判断をしめす機会でもあった。そして、その結果が示された。これを中島氏は「暗澹たる気持ち」で受け止められたが、それでも非政府組織や非営利団体の選挙期間中の活動によって、各政党についてのさまざまな情報が有権者たちに届けられたことに、「民主主義の破壊」を阻止するための希望を見出だされ、こう結ぶ。「悲観している余裕はない。私たちは、自分たちの基本的な権利をもっと大切にしなければならないし、そのための努力を、今日、この日から始めなければならない」と。

    同時に、筆者は思う。野党勢力、特に立憲民主党は与党の失敗をあげつらい、また単なる数合わせに走るのではなく、党としての独立した政策を持たなければならない。中長期の国家像を提示し、それにいたる短期的な政策を策定することである。そのためには、地域住民の生活を注視し、そこから上がる懇請の声をすくい上げ、政策的に実行する政治が求められる。だがそれには、各地の地方議会で多数派を占めるという、息の長い、地道な政治活動を展開しなければならない。

    言うは易し、行うは難しである。だが、野党は今や、連合とか傘下の組合票を当てにする政党ではなく、国民政党への脱皮が求められているのではないか。派遣労働者、非組合員から商店・農業・中小企業他、広大な中間層の心を捉えるそうした政党への飛躍である。その根底には、外交と安全保障についての、与党を含めた国民的な幅広い合意がなければならないだろう。それは目指すべき国家像をどう造るかという問題にも直結するはずである。

    以上は、この国の政治体制が、中道右派と中道左派からなる二大政党制への移行を意味することになろうか。最後に、こうした与野党の接近した政治体制では、現在見られるような、国民の声や目をまるで無視したような、政治遊戯や政治運営だけは阻止されると期待したいがどうであろうか。