2021年11月8,10日

11月8日・月曜日。晴れ。先週は別件の仕事のため、本欄は休載とした。

9月の総歩数・273,542歩、平均歩数・9,118歩、最高・13,440歩、最低・3,384歩であった。10月は総歩数・272,910歩、平均歩数・8,804歩、最高・13,148歩、最低・3,021歩であり、平均9千歩を割り込み、少々残念である。

11月10日・水曜日。晴れ。

 

総選挙の結果がでた。各種の報道によれば、国民は概ね自民の大勝を歓迎しているようである。立憲を中心とする野党の統治能力に信が置けないということが、主たる理由である。たしかに、筆者にも、この指摘に頷く点が多々ある。財源の裏打ちのない助成金交付や消費税の引き下げなどは、長期的展望を欠いたポピュリズムの匂いを嗅いだ。何より、安全保障政策の問題については、大きな不安を覚える。これだけ中国の脅威を見せつけられている昨今、日米安保条約の解消を主張する共産との共闘は、最後までしっくりこなかった。共産とは閣外協力で臨むという、立憲の主張は国民の間にどこまで浸透したのであろうか。単なる数合わせに過ぎないとの与党側からの批判や攻撃は、その限り功を奏した。

しかし、「一強五弱」とも言われる政治状況が、健全であるとも思えない。それが我が国の政治状況に何をもたらしたかを、先に中島京子氏が一言のもとに示された(「衆院選に思う」・朝日新聞11/2より)。「この選挙は、長く続く自公政権への評価を行うものでもあったはずだ。行政文書の破棄や改ざん、黒塗りによる開示拒否など、民主主義がないがしろにされるのを見てきた。なにより、政権与党は臨時国会の召集を求められても応じなかったのだ。選挙だけではない、この国では、政治そのものが大切にされていないと感じる」。つまり、数々の不都合な事実の隠蔽であり、何をしても何とかなるという、政権与党の驕りである。

その結果、国民生活はどうなったか。「人が生まれてきた以上誰でも持っている、生きる権利」がおろそかにされたのである。それを具体的に言えば、こうなる。「日に2万人もの新規感染者」を出すようなコロナ禍のさなか、オリンピック開催が巨額な費用をかけて強行される一方で、「職を失い、家を失った人がおおぜいいた。入院できず、たらいまわしにされて亡くなった方もあった。救われる命が救われない恐怖に、多くの人が震えた」そうした状況に、少なからぬ人々が放置されたのである。

この度の選挙はそうした現状に対する国民の判断をしめす機会でもあった。そして、その結果が示された。これを中島氏は「暗澹たる気持ち」で受け止められたが、それでも非政府組織や非営利団体の選挙期間中の活動によって、各政党についてのさまざまな情報が有権者たちに届けられたことに、「民主主義の破壊」を阻止するための希望を見出だされ、こう結ぶ。「悲観している余裕はない。私たちは、自分たちの基本的な権利をもっと大切にしなければならないし、そのための努力を、今日、この日から始めなければならない」と。

同時に、筆者は思う。野党勢力、特に立憲民主党は与党の失敗をあげつらい、また単なる数合わせに走るのではなく、党としての独立した政策を持たなければならない。中長期の国家像を提示し、それにいたる短期的な政策を策定することである。そのためには、地域住民の生活を注視し、そこから上がる懇請の声をすくい上げ、政策的に実行する政治が求められる。だがそれには、各地の地方議会で多数派を占めるという、息の長い、地道な政治活動を展開しなければならない。

言うは易し、行うは難しである。だが、野党は今や、連合とか傘下の組合票を当てにする政党ではなく、国民政党への脱皮が求められているのではないか。派遣労働者、非組合員から商店・農業・中小企業他、広大な中間層の心を捉えるそうした政党への飛躍である。その根底には、外交と安全保障についての、与党を含めた国民的な幅広い合意がなければならないだろう。それは目指すべき国家像をどう造るかという問題にも直結するはずである。

以上は、この国の政治体制が、中道右派と中道左派からなる二大政党制への移行を意味することになろうか。最後に、こうした与野党の接近した政治体制では、現在見られるような、国民の声や目をまるで無視したような、政治遊戯や政治運営だけは阻止されると期待したいがどうであろうか。


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