• 10月30日・月曜日。晴れ。本日は10/16日付けの文章の続きである。

    前2回の論題は、要約すれば、こうなるか。殺虫剤の普及により、一時、環境衛生境の整わない地域、特にアフリカのような熱帯地方においても、蚊の発生、生息域が縮小し、マラリア、デング熱他の伝染病の蔓延が抑制されつつあった。かくて、人類の勝利が垣間見られたのである。しかし、近年、その潮目は変わり、人類と蚊との戦いは逆転の兆しを見せはじめている。これには、地球温暖化も影響しているという。それ以前には生存しえない寒冷な地域への蚊の進出、生息が可能になってきたからだ。その結果、これまでは一例の発症もなかったマラリアの感染が、合衆国で報告されているように、人類は、地域を超えた、世界的なレベルでの疫病蔓延に向き合わなければならい状況に陥ったのである。
    こうなった最大の原因は、記事によれば、どうやら進化過程にある蚊が、殺虫剤に対する耐性をより早く獲得できるかららしい。人類は蚊の進化のスピードに応じて、殺虫剤の効果を高める対策を取ることはとても出来ない。よって、このレースでは、人類の勝ち目はほとんどないということになる。
    その理由は、実にハッキリしている。殺虫剤の開発には膨大な費用と時間を要する。しかも、その毒性をただ強めれば良い、という分けにはいかない。生物界の環境を破壊するばかりか、人間自身が斃れてしまう。まずは安全性が確保され、同時に蚊に対して有効でなければならない。それらのバランスの取れた薬剤が完成したころには、すでに蚊は別のステージに変わってしまう。これが記事の大まかな要約である。
    かつて、蚊トンボのごとき、という言葉があった。何ら恐れるに足らない、つまらぬ相手だと、ののしる意味で使われていたような気がする。しかし、その最も弱小で、簡単にひねり潰せる相手にすら、我われは今や、最大の恐怖を覚えざるをえなくなった時代にあるらしい。これは、何とも皮肉ではないか。広大な知的世界を誇り、原子力や太陽系を超えて飛び出られるほどの技術力を持ちながら、地上の微小な世界に翻弄される始末である。とすれば筆者は言いたい。我われの知識や技術には、どこまで進んでも不完全と欠陥があるということであり、知識や技術が進めば、やがて一切合切の面倒、困難は解決されのだ、などと思い上がらないことだ。そのことを深く自覚し、何に対しても謙虚でなければ、いずれ我われは自分たちが仕出かした所業に押しつぶされ、結局は身を亡ぼすのではなかろうか。そして、温暖化は、紛れもなくその兆候の一つであるに違いない(この項、終わり)。

  • 10月23日・月。晴れ。蚊が媒介する疫病の世界的な蔓延の問題を取り上げているさ中、本日、朝日朝刊で「スズメバチ被害多発 温暖化影響?」、「巣が巨大化し働き蜂増 駆除中死亡も」の記事を読む。ここでは千葉県館山市、岐阜県高山市、大分県九重町の3例が挙げられているが、こうした深刻な被害は列島中で生じていることではないか。温暖化によって、熱暑のような特異な気象現象とは別に、人類は生物界からの多様で困難な挑戦にも晒されているのである。
    10月27日・金曜日。晴れ。本日は前回の続きのつもりが、以下のようになった。

    過日、ひょんなことから16,500歩を歩いた。荒川車庫から町屋を経て、隅田川沿いを下り、千住大橋を渡って北千住に至る道のりである。暖かな午後の日差しの中、桜トラムの車輛を右に見ながら、繁華街から取り残された静かな家並みに沿った道行は、結構楽しかった。町屋では、目当ての喫茶店が貸切のため、変哲のない珈琲館に入る。
    その後がいけなった。何の気紛れか、気づけば隅田川に出ていた。陽も落ちた隅田の川面を渡るそよ風と共に、川向こうのはるか彼方に瞬く千住の灯に誘われたのだろう。昔から、当方、チラつくネオンに弱いという習性もある。だが、ここではそればかりでも無くなった。ここまで来たら、もう戻れないからだ。南千住界隈の大マンション群の影絵をしり目に、ただ大橋を目指す他はなくなった。かつて鴎外が馬車で渡った橋だ。もちろん現在の橋ではない。
    千住市場の入り口では、芭蕉の句碑を読む。奥の細道に入るにあたり詠んだという、有名な「魚の目に泪」である。いよいよ千住の宿に入る。土曜の夕刻、これまでの静寂を破る雑踏であった。疲労は募る。丸井のレストラン街に上り、中村屋のカレーセットを取る。何かこの所、カレーばかりとなるが、別にイチロー氏にあやかり、あるいはカネがないと言うわけでもないのだが、どうもこうなる。
    春日部にたどり着いた後の帰途を、どうしたか記憶にない。バスに乗ったか、歩いたか。しかも、よく日はかなり疲労が残ったはずだが、携帯の記録によれば13,500歩を歩いている。別段、シニアオリンピックのような何かに出ようなどの、大それた意欲も計画もないのだが、齢傘寿を過ぎ、オレは一体何をしているのだろうと、しきりに想う。

  • 10月20日・金曜日。晴れ。あと10日もすれば霜月の声を聞く。それでもこの暑さは、一体なんだ。バスや電車はクーラーがかかり、半そでの乗客も多い。それらを変とも思わず、当然のように受け入れている我われの感性も、どこかおかしくなってきているに違いない。

    承前。前回の記事は「蚊は再び勝利しつつある」と題し、小見出しには「(蚊の)急速な進化は死を駆り立て、ウィルスを新たな次元へと引き連れる」とある。以下は、人類の健康にとって地球上で最も危険な生物、すなわち「蚊」に対する全面戦争を敢行している、ケニアの研究者集団についての報告である。彼らはヴィクトリア湖の数百マイルの湖岸線を対象に、昼夜を問わず、新生児、タクシードライバー、ヤギやその番人等から血液を採取し、蚊の媒介する寄生虫の特定に取り組んでいる。そうして得た知見は、人類に対する蚊の勝利を予見しているかのような不気味さである。
    1970年代以来使用されてきた殺虫剤は、子供の睡眠を守るなどそれなりの効力を果たしてきたが、その後は、進化した蚊は耐性を得たのか、ことに2015年にはその死滅は「歴史的に減少して、マラリアの発症、死亡例が上昇してきた」と言うのである。
    これには温暖化という気候変動を抜きには考えれない。かつては熱帯地域の疫病であったデング熱が、今やフランスや合衆国においても発症したようである。さらには、昨年の夏にはテキサス、フロリダ、メリーランドの諸州で、この20年間で初めて、9件のマラリアの感染が報告されたとある。
    これとの関連で、朝日新聞(10/9・月)の「酷暑避けた蚊10月に活発化」のタイトルの下、「35度以上だと休息 秋に復活?」するとの小見出しの付された記事が興味深い。ここでは、秋口になって、かえって活発になる蚊の生態と共に、普通、10月には休眠する蚊の卵が孵化し、あるいはその生息域が、ヒトスジシマカの場合、1950年頃の北限が栃木県であったものが、2016年には青森県まで延伸したとある。それどころか、その生息域はさらに北上し、ヒトスジシマカが「いつ北海道に定着してもおかしくない」というに至っては、蚊のグローバルな拡散と共に、疫病の蔓延を人類は覚悟しなければならないのかもしれない。

  • 10月11日・水曜日。晴れ。
    10月13日・金曜日。晴れ。
    10月16日・月曜日。晴れ。過日、将棋界では藤井八冠の誕生を見、かつて筆者もその世界のほんの周辺にあった者として(現在は、そこから完全に身を引き、愛棋家の一人である)、何か一言あるべきであろうが、今はそんな気の利いた言葉も思いつかない。ただ、達せられた偉業には、誰しも目もくらむほどであることは間違いない。ひとは、これ程の高みに達せられるものなのかと、改めて畏怖する。
    本日は前回の文章、特に末尾を改めた。

    温暖化が地球全域に与えている、容赦ない様々な惨害については、ここでも折に触れて報告し、人類は一刻も早く団結し、これを押しとどめる有効な対策を地球規模で実施すべきことを訴えてきた。しかもそれは、本音を言えば、そうした対策はもはや時期を失し、何をしようと無駄ではないのか、という不安に絡みつかれての訴えであった。筆者からすれば、事態はそれほど切羽詰まったものであるにも拘らず、世界の指導者はそんな危機には目もくれず、自国の利益、覇権の追求に狂奔し、そのためには通常兵器を超えて、いざとなれば大量破壊兵器や核兵器の使用も辞さずと言っているのである。ではここで、改めて尋ねたい。地球上の生命体の全てを危うくさせる熱暑、砂漠化、氷河の崩壊、凶暴な台風、海面上昇、地球規模の山林火災等を日々眼前にして、国家的覇権、経済利益に何の意味があるのだろうか。
    しかも、温暖化対策の切り札の一つとして、目下、世界は自動車のEV化に躍起となっているが、そのため半導体はじめ畜電池その他の生産に必須とされるレアメタル等原材料を求めて、地球のあちこちは広大かつ地中深く抉られ、特にアフリカでの乱開発の規模をみれば、目もくらむばかりである。それは同時に、環境破壊と共に、温暖化をさらに急進させることになるはずだ。かりに走る車のCO2は削減出来ても、それ以前のこうした問題を考慮する必要はないのだろうか。
    だが、大地を掘り起こし、石油、鉄鉱石などを採掘すれば、地中に眠るCO2や細菌、ウイルス類を解き放つことは、すでによく知られた事実である(例えばマクニール『疫病と世界史』(上・下)中公文庫)。その延長上で、現在、人類は病原菌にからむ新たな脅威に晒されかねないようである。デング熱、チクングンヤ熱、致死的な熱病の発生であり、再来である。従来、これらはいずれも、アフリカ、アジアで見られる、蚊が媒介するウィウルス感染症として知られていたが、問題は、以前には認知されていなかった地域でもその発症が報告されるようになったことである。
    たしかに人類は蚊との闘争において、殺虫剤その他の改良策により、この百年ほど明らかに優位にあったと言う。しかし「この数年、その進歩は停滞的になってきた。それどころか、それは反転してきたのである」と言われるに至っては、なにか底知れぬ恐怖を覚えざるを得ない(ニューヨークタイムズ(10/4・水)より)(以下次回)。

  • 10月4日・水曜日。雨。
    10月6日・金曜日。晴れ。昨日は一転、寒いほどであった。そして、本日はやや暑い。皆様、呉れぐれも体調管理に気をつけられよ。とは、当方こそ自戒すべき事なのだが…。本日は前回の文章を整えたつもりである。

    昨日(10/3)、12時半より、筆者の母校・独協学園の同窓会が原宿の南国酒家で開かれた。会場には独協傘寿会とある。つまり、今年八十歳を迎えた同一学年の独協卒業生が、一堂に会して旧交を温めたという次第だ。ざっと見渡して、5~60名ほどの会合である。この学年は、当時7組まであったらしく、一組50名として、350名ほどになる勘定だが、それから見れば、参加率は中々のものではないか。首都圏を超えた遠方よりの参加者もあり、本会がそれだけ心待ちにされていたことが分かる。企画、実行の労を取られた主催者、幹事には心よりお礼を申し上げたい。有り難うございました。
    本会は10年前、同一会場でたしか古希会(?)として開かれたが、筆者は出席と返信しながら、当日は止むなく欠席してしまった。閉会に当たり、主催者の、前回はもう少し盛会であり、参会者に若さがあった、との言葉が妙に心に残った。それはそうだ、本日この場に出席した皆のこれまでの星霜が、さらに10年、積み重ねられたのだから、と。そして主催者から、会としてはこれを最後とし、今後は各自で交流を持ってほしいとの言葉が添えられ、一本締めで締めれられた。
    会は15時半までの3時間であったが、終了後は、皆三々五々帰っていく姿が面白かった。まだ陽も高く、中秋とは言え、まだ青々とした葉を留めている大きな欅並木に覆われた表参道の賑わいの中(昨日の参道はインバウンドの影響か、人出はかなりのものであった)、どうしたわけか何事もない様子で帰宅についていくではないか。かつては二次会、三次会と続き、帰宅は決まって深夜に及んだはずである。そこそこのカネと暇もありながら、身体が付いていかぬ。誰もがそれを知っているので、互いに誘いもしない。あの連中が静かになった姿を見て、かすかな哀愁を覚えたものである。
    対する当方は、人混みの中、坂を下り、また昇って表参道駅まで歩くと、歩道に面した瀟洒なレストランが目に入る。早速、案内を乞い、そのテラスに陣取ると、おもむろに珈琲一杯とやった。こうして、樹々の間を行き来する車や人々の賑わいを眺め、読みさしの本を読んでは、2時間ほどを過す。〆て千円。店内では、ディナータイムの準備が始まり、あのまま居続けたら、もっと酷い目にあっただろう。
    その後、銀座線で浅草に回り、久しぶりに洋食のヨシカミに向かう。評判のステーキなどではない。そんな重いものはとても行けない。サラダ、スープセット、半ライスのカレーをとる。あまり上客でないのは承知の上だが、それでも馴染みでもあり、よく知るコックさんからは、暖かく迎えられたのは、嬉しかった。
    春日部着は22時半をこえていただろう。当日は、私にとっては殊のほか早起きであった(10時)。その上12時間の東京行はさすがに堪えた。普段であれば、歩くところを、欲も得もない、バスに乗る。携帯の歩行数をみれば、ほぼ9千歩。新聞、テレビをと思う間もなく、床についたのは、23時チョイ過ぎか。柄にもない早寝のゆえであったか、深夜に眠りが途切れ、小一時間ほどニューヨークタイムズと格闘していたら、朦朧となって寝落ちしていたようである。