• 11月14日・月曜日。曇り。本日、鳥取市から帰来し、早稲田に。

    2の伝統的支配とは、古来から引き続き存在するもの、事柄を大事にしたいとの思い、そうした尊崇の心、信念、心情に基づいて成立する支配関係である。例えば支配者の家系が古えに繋がり、それは先祖代々のことであり、それゆえ彼の命令は尊く、それには服するべきである、と被治者がみなし、これを受容するような関係がそうである。こう見れば、2は、ただ歴史や伝統が大事な歴史オタクや復古主義者のことかと誤解されかねないが、実はそうではない。ここでの問題は、被治者が統治者の支配・命令をいかなる意味で是認し、それを正当化しているかという支配の構造だからである。

    上では、昔から「在る」もの、事への被治者の尊崇の思いと言った。それは「伝統主義的」、と呼ばれる人々の行動様式であり、伝統的支配はこの行動様式を基礎に成り立つ。そしてそれは、単に政治の領域に留まらず、気づけば、現代の我々がとる行動様式そのものでもありうる。例えば、こうだ。最早、その由来、縁起は不明となってしまったが、しかしただそれが「在る」というだけで尊重される儀式、それまでの規則や慣習がその意味を問われる事なく惰性として適用されたり、前例踏襲主義的な組織運営や対応などである。

    こうした心術(心組み、心の持ち方、と言ったほどの意味)は組織、機構、体制の安定化に役立つばかりか、重要な要素であろうが、これに無反省に寄りかかれば、大勢順応主義に陥り、福沢が「封建は親の仇にござる」と呪詛したように、既得権益の擁護に堕するであろう。なお、カリスマ的支配から伝統的支配への移行、転移の問題も挙げれば興味深いが、ただでさえ混乱してきたわが叙述が、益々怪しげになるので、割愛しよう(旅の疲れか、頭がボーっとしている。と、尤もらしい理由をつけて、今日はこれまで)。

  • 11月4日・金曜日。快晴。

    こんな風に、ホッブスを解釈し、ヴェーバーと結びつけることが出来るのか、またこれを保障する先行研究、論文のありやナシやについては、私は何も知らない。こんな無責任が許されるのも、「手紙」ゆえの気軽さである。だから、以上は、わが妄想・妄言でしかないかも知れないと思う反面、もしかしたら画期的なホッブス論である可能性がまるで無いとも限るまい。とすれば、読者はいち早くそうした卓見に触れえた喜びにタップリと浸るがよろしい。と、厳かに申し上げておく。

    では、ヴェーバーの支配の正当性とは何か。彼はこれを三つの類型に分けて説明する。思うに、彼は事柄を類型化して考えるのが好き、というか得意であった。これによって、入り組んだ複雑な社会・歴史事象が整理されると共にその特徴が浮き彫りになって、そこからその事象の因果的な理解、解明が進むのである。だが、この事情を理解するには、かれの著書を一二お読み頂くほかは無く、多忙な読者には無理な要望ゆえ、この話はこれまでとする。

    さて、先の三つとは、1、カリスマ的支配、2、伝統的支配、3、依法的(合法的)支配である。何やら馴染みのない言葉で申し訳ないが、以下簡単に説明しよう。1のカリスマとは、かつて「カリスマ美容師」なる言葉を聞いて驚かされたが、そこには満更間違ってもいない意味が込められていた。つまり、並の美容師には及びもつかない技の所有者と言うほどのことか。もと、「神の恩寵」に由来し、特に旧約の予言者たちに授けられた予言的超能力をさし、そこからさらに奇跡や常人をはるかにこえた能力を発揮する人々を意味するにいたる。ヴェーバーはこの言葉を宗教的指導者から政治的分野に拡大援用した。そして、この支配の眼目、中心点は、彼とその従者たちとの関係が指導者のそれまでの成果の偉大さに心服し、ただその命ずるままに従う関係にある、ということだ。そこでは、理屈や説明は必要ない。イエスと十二使徒はそんな関係にあったろう。

    それゆえ、カリスマ的支配が成立するのは、その能力が持続される限りでしかない。神からの恩寵というその能力の特殊性から、相続など問題にもならない。またそこでは、基本的に規則や組織に類するものも必要ない。ただ、師に対する圧倒的な心服、帰依によって事が運ばれる。それゆえそれは、最強ではあるが永続性を欠いた、その限り脆弱な関係である(今日はここまで。以下次回)。

  • 11月2日・水曜日。曇天。晩秋から初冬の感あり。ほんの二月前のあの灼熱は何処に。

    ここでホッブス理論の難点を論ずるつもりはないが(と言ったって、そんな素養はまるで無いのダ)、以下との関係で一点だけ上げておきたい。彼によれば、社会成立以前、すなわち原始未開(スミスも同じ言葉を使う)において、人間は孤立し、かつ互いに闘争する生活を送っていた。そうした状態では、人は結局生きては行けず、それは「生きよ」と命ずる自然法に反する事でもあり、かくて前回述べた契約関係が成立する。統治はここに始まる。

    ここでホッブスの想定する人間とは、独立した人格権を有する、自身の運命は自ら決しうる理性的な人間である。だがこれは、ホッブスの人間観、あるいは人間像を原始未開の人間もそうであろうとみなしたに過ぎない、一種の想像である。そして、このような人間の自由な判断に基づく契約によって、国家は成立することになる。だが、考古学的にみれば、そもそも社会成立以前の孤立分離した人間生活というものは存在しなかったようであり、人は最初から家族を基本に、ある群居のなかで暮らしていた。ましてや、独立人格による自由な契約に基づいて成立した国家社会など、古代ギリシアの都市国家に萌芽的に見る外は、近代以前には一度もない。だから、ホッブスの主張は一つの擬制(虚構)の上に構成された理屈である。

    これだけを見れば、彼は根も葉も無い、ただの空想を述べたにすぎないことになる。にも拘らず、そこには国家成立の根拠が確固として据えられている、と言わなければならない。というのは、彼の国家論では、統治(この意味を、私は支配=被支配の関係と解する)は被治者・被支配者の側からの、その統治の明確な是認や承認を前提に成立しているからである。確かに歴史的に見て、治者と被治者が同等の立場から相方納得ずくで、統治が成立した事例は稀でしかなかった。侵略、占領の場合には、この関係は明確である。そこでは治者が一方的、暴力的に被治者を弾圧、抑制するからである。

    そうした時代状況の中で、支配=被支配は被治者の側からの統治の是認、すなわち、「私は、貴方が私を支配することを認め、かつお願いします」という関係の内に成立する、とホッブスが見たのは画期的ではなかったか。治者が被治者を圧倒的な暴力の下で、一方的に抑圧した支配は可能だが、それが永続的、安定的に維持されることは難しい。そのためには、先にも言ったが、圧倒的な強力(暴力装置)と監視機構の整備が不可欠である。そうではない、平和で安定した統治が成立するためには、統治される者の権力への是認は最も重要な条件であろう。それを「支配の正当性」と言って、理論化したのが、マクッス・ヴェーバーであった(今日はこれまで)。

  • 10月28日・金曜日。雨。

    他者を自分の意志のもとに置く、すなわち「支配」するとは、どんな人間関係を言うのであろう。こんな難しい問題に私が答えられるわけもないが、ほんの参考までに言ってみよう。一つは愛(アガペー)であり、いま一つは暴力である。ここでは、前者は棚上げにし、後者の問題のみを考えたい。

    東洋思想は知らず、西洋でこの事を根源的に考えたのは、ホッブスではなかったか。彼はピューリタン革命(1642-60)の動乱の時代に思索した政治思想家だけに、暴力のさ中にある人間の性を知りぬいていた。ヒトは生きんがために、非道も人道もない、なしうる全てのことを為すのだ。それを当然のことと見做して、愧じ入る必要もない。諸々の規範が消滅して、原初の自然状態に返って仕舞えば、人間とは、結局、そういう存在だと、彼はみたのであろう。ここで支配するのは、相手より強いか弱いか、つまり暴力の原理である。

    しかし、人間が相互に争うとは、どういう事か。彼ら両者の力がほぼ均衡しているという意味である。考えてもみよ。自分と相手の腕力が一対千ほどの差異があって、なお相手の理不尽に怒り心頭、飛び掛かる人間はそうそういるものではない。そういう人の事を、世間知に長けた大人は「バカ」と呼ぶのである。「尊王攘夷」に駆られた長州藩が馬関戦争(1864)を仕出かし、英米仏蘭から手ひどい懲罰を受け、一転、開国に転じた例を思え。この伝で言えば、先の日米開戦は何であったのか、呆然とするばかりである。

    ホッブスによれば、人間の能力は均等である。そこに差異が生ずるのは、彼の付く職業によってである。こうした彼の人間観はアダム・スミスに受け継がれた。ともあれ、彼がそう考えたとすれば、彼の社会から闘争が止むことはない。これでは、ヒトは生きていくことは出来ない。生きんがために、彼の為しうる一切を為すという、彼の権利・権能の行使の結果が、自らの生命を失うという、何たる皮肉。ここに想到することで、人々は己の権利・権能を放棄し、これらを彼らの選ぶ人間に信託するが、それは彼が社会の平安と人々の生命・財産の保全を保証するからである。支配者と被支配者の存する社会の成立を、ホッブスは概ねこんな風に説明するのである。

    その後の社会契約説の基礎ともなった彼の理論は、批判されるべき点は、もちろん多いが、現在社会の問題を考えるに際し、非常に有益だと私は思う。ここでは、君主の王権は神から直接彼に授けられた、故に人は彼の支配に服すべし、とする王権神授説にたいし、ホッブスは神を持ち出さずに、人間の理性に基づき、人民相互の納得尽で支配・被支配の社会関係、その体制が成立したことを論証した点で、彼は近代政治理論の嚆矢であった点を評価したい(シュンペーターがそう言ったと思う)。

    ズーターから随分離れてしまった。だが、そうでもない(乞う、次回)。

  • 10月24日・月曜日。久方ぶりの快晴。

    前回の話に一二付言したい事を思い出した。それは、私の勝手な推論であり、ツヴァイクがそう書いている訳ではないが、そう考えればやはり怖い話と思うからだ。

    さて、今やズーターの部下達の誰もが自分の仕事、義務を放り出し、勝手に金の採掘に没頭し始めた。彼らは別段、ズーターに反感、恨みがあった訳ではない。むしろ、恩義すら感じていたかも知れない。ただ、自分も金を掘れば、イッパシノ金持ちになれると思った、それだけのことからである。そうして、最早、ズーターの言うことは、耳に入らなくなった。こうして、昨日まであった指揮命令系統は跡形もなく消え去った。何の争いもなく、霜が朝日に解けるように至極当然、自然に生じたかのようであった。

    ズーターは驚いたことだろう。昨日まであれほど忠実であり、親身であった部下たちが、昨日と同じ姿と顔付きをしながら、しかし今日は彼に対して、まるで他人を見るような目つきで、相手にもならずに土を掘り続けているからだ。何か震災や戦争のような境遇の激変によって、事態は変わった。そうした挙句の混乱と人々の変容であれば、彼もそれを覚悟し、受け入れることも出来たであろう。そうした事は何も無く、ここを掘れば金が手に入る、ただその事実を知っただけの事で、しかもその土地は彼らのものでも無いにも拘らず、事態は一挙に暗転したという事実である。

    これを、一体何に例えたら良いだろうか。通貨(紙幣)、これか。昨日まで、誰もが何でも手に入れることの出来たカネが、今日は通用しないとなったらどうだろう。特に紙幣であれば、それは単なる一片の紙屑に過ぎないという話である。爪に火を灯す、という言葉があるが、そんなにまでして貯めたカネが、一夜にして単なる紙に化すとは。そんな事態に逢着したとき、ヒトは一体ドンナ顔をするのだろう。

    ともあれ、ズーターの最初の思いは、恐怖というより、何か不思議な感覚ではなかったか。それから得体の知れない不気味さと恐怖に包まれたのではないか。それにしても、恐ろしきは、人の心の捉え難さであり、儚さである。それにも拘わらず、人が人に事を命じ、それが間違いなく執行される、とは如何なる仕組みに拠るものなのであろう(今日はここまで)(前回の文章大分訂正した)。