• 12月12日・月曜日。晴れ。本日、母の命日。一年前のことである。この二三日の快晴により、わが家のソーラーパネルの稼働力高し。

    これまでご大層な議論を重ねてきたが、それは何のためであったか。読者はもうお忘れであろう。ズーターの話を。彼がナゼあのような惨い仕打ちを受けなければならなかったか。これを、私なりに解いてみたいという思いからであった。歴史学的に、社会科学的に?

    その答えは、いまや簡単である。まず、法の支配が破られていた。裁判所は言っていたではないか。ズーターの主張は正しく、彼の権利は回復されなければならない。彼の土地は彼のものに、そして発生した損害は金銭的な補償を、と。この判決に怒り狂った住民たちは大挙して彼の所領を襲撃、略奪するも、国家はこれを放置し、その後の彼の訴えを完全に黙殺したのであった。つまり、ここでは合衆国は法治国家としての体をなしていなかったのである。だが、国家とは本来そんなものなのかもしれない。圧倒的な利害の前には、個人(とくに権力無き個人)は抹殺されてしまうのであろう。

    ズーターはまたカリスマの所有者ではなかった。彼に心酔し、彼のために命を投げ出し、彼に従う人びと、組織は皆無であった。それが証拠に、金が出た、と知られるや否や彼の部下、奉公人の誰もが、その仕事を放り出し、主人の命令を無視するばかりか、それまで多少の恩義を蒙った主人に対してまるで知らない赤の他人のごとくの振る舞いであった。そして、彼には彼を敬わせる歴史的な伝統、それに由来する高貴さというものも絶えて無かった。十年に満たないヨーロッパからの流れ者には、従者たちが自然に敬意を払えるような高貴さを期待するなど、所詮無理な話であった。

    いずれの面からみても、彼は自身を守る手立てを欠いていたのである。彼の不幸は一個人として負える数千、数万倍の富を一挙に手にし得たところにあったのかもしれない。しかしそれは彼の罪、落ち度であったのだろうか。ヨーロッパでの彼の生活には如何わしい点も無かったわけではないが、アメリカ合衆国での彼は懸命に働き、工夫と努力を重ねてその地位を自ら築いたのである。その彼が栄光の末の地獄を味わった。これを運命の残酷と言わず何と言おう。運命は彼を、二度にわたって絶頂の喜びをチラツカセながら突如奈落に突き落とした。ヴェーバーはあるところで言っていた。「悪魔は老獪である」と。こんな悪魔に魅入られた者こそ哀れである。さらにこの話は、あのギリシャ悲劇に繋がる物語りを思わせないであろうか(この話は、今回をもって本当の終わり)。

  • 12月5日・月曜日。晴れのち曇り。気づけば師走。明日、寒波襲来との由。

    本日は老眼鏡を忘れ、前回の文章を読むも、磨りガラスの向こうを見るようで、ボーっとかすんであまり良く理解できない(自分の文章が分からないというのもヘンな話だ)。加えて、先週休んだため、話の接ぎ穂を忘れてしまった。だから、ドウ続けてよいのか戸惑っている。だが、これで止める訳にはいかない。

    ともあれ、依法的支配とは定められた法への信頼を基になりたつ政治体制であり、その社会である。だからそれは、多様な権限、権力の行使(特に行政府のそれ)は法によって規制、拘束されるという法治主義の原則にたつ社会である。そして、その法は憲法を頂点に下位の法律とその権限が定められ、しかもそれらは互いに関連する無矛盾の合理的な法体系として整備される。さらに、これを基礎として、その権限、権力を「精密な機械のごとく」(ヴェーバー)行使する官僚機構が聳え立つ。

    しかもここでの法の特徴は形式主義的である。形式的要件が整えばその内容は問われない。たとえば生活保護の申請の場合はどうか。彼は必要な書類を提出し、役所はその書類の形式要件を審査して、適法であれば承認する。その場合、申請者が殊更に脱法行為を働かなくとも、法に定められた範囲の所得、資産しかなく、実際はともかく、書類上、とても真っ当な生活ができないと証明されれば、保護は受けられるはずである。他方で、真に生活苦に喘ぐ貧困者が拒否される事例も出てくるのである。ここに、役所の形式主義という非難、怨嗟の尽きない理由がある。

    だが、情実や実質主義を排し、形式主義をとった事で、行政、即ち役所の効率性、生産性は格段に上がった。申請された案件が何であれ、門地門閥、社会的貧富の差も無く形式平等的に審査され、決裁されるからである。法を枉げて解釈し、ある人を優遇して、それが発覚すれば、司法の裁きを受けなければならない。今、韓国で起こっていることはそれである。

    ここで、もう一点付言しておきたい。権力の行使は何であれ、法律の裏付けがある。また、なければならない。逆に、法に書かれていれば、その限りその行使は最大限可能である。また、その法に触法する行為は全て違法であり、処罰の対象になる。「悪法も法なり」とは、これを言うのであろう。戦前、戦中に治安維持法で検挙、拘束された思想犯、政治犯が獄中、惨い拷問、獄死にあったが、それもまた適法として問われなかった意味を想起すべきであろう。同様に、戦争指導者たちは、法的には何ら犯罪者にあらず、と擁護されたが、それは彼らが国内法の一条も違反していないからであった。これを一歩すすめれば、法の作り方によって、社会の仕組み、構造は一変するという怖さがある。昨日まで禁止されていた事が、今日は許される。例えば売春、賭博がそうだ。つまり、権力を持つ立法府の意図によって、国家はどうにでも造り替えられるのである。さらに、法の適用は貧者や弱者のためになされるのではない。法解釈上で正しい、その意味で正義であると認められる者の側に立って執行されるのである。能力のある弁護士を雇える金持ちや強者が、しばしば救済される理由である(本日はこれまで)。

  • 11月24日・木曜日。雪のち霙。この初雪は記録的な早さとか?

    ヴェーバーはこの伝統的支配とカリスマ的支配の人々の行動の違いを、昔から「—と言われている」に対して、「私は—と言う」というイエスの言葉を巧みに引きながら、鮮やかに示した。昔からこう言われ、そう決められてきたからそれに従うという姿勢は、先にも言ったが安定的な社会を造るが、同時にそこでは様々な矛盾、軋轢を胚胎させることになる。それは人間社会では免れえないことである。そうした社会の沈滞、堕落を一挙に解体、清算するのが、「俺は—と言う。こうする」と言って、それを実践するカリスマの出現である。

    旧約聖書に現れる数々の予言者たちは、常人からは狂人としか思えぬ出立と言葉をもって安逸にふけるユダヤの民を叱咤し、悔い改めを迫った。同じことはペテロ(巌の意味)のうえに築かれたカソリック教会の安定とそれゆえの腐敗がルッター、カルヴァンを生んで、革新がはかられた。西欧史のダイナミズムを、ヴェーバーはこのようにカリスマ的支配と伝統的支配の対立、相克の歴史として捉えたとも言われるのである。こうした図式は社会や歴史の流れを見るのに、なかなか便利で、ナポレオンやヒトラーの出現、またこの度のトランプの選出も、この枠組みからみられなくもない。ただ、注意して貰いたいのは、これで全て歴史が分かったなどと思わないでほしい。これでは、歴史や社会は偉大なカリスマの所産ということになりかねず、歴史は傑出した人物伝で事足りるであろう。だが、そうはいかない。一人の人間のやれることなどたかが知れたものだからだ。

    では、3の依法的(合法的)支配はどうか。まず依法的の言葉だが、これは広辞苑、日本国語大辞典に収載されていない。にも拘らず私がこの用語にこだわるのは、この語が訳語として取られているという事実と、確かにこれはヴェーバーの真意を言い当てているように思うからである。

    これは、法として認められた規則に対する信頼、それへの依拠(だから依法的とも言う)を基礎に、支配、服従の関係が成立する支配のありかたである。ここには述べなければならない、しかし私の能力に余る法の発生や成立過程、それにまつわる法の表現形態、つまり成文法(大陸法)、不文法(英米法)の相違やら難しい問題がいくらでもある(実は、ヴェーバーは法学出身の学者であり法制史、法社会学の専門家でもあったから、そんな分野にも精通していたのである)。が、それらはゼーンブ無いことにして、ごく乱暴に言えば、人の行動は法に依拠して処理されるということである。

    政治家や役人による行政上の権力行使は、法に定められた手続き、範囲内であれば違法ではない。適法であり、それゆえ処罰の対象にもならない。だから、前都知事、舛添要一氏が、政治資金の使用について違法性は無いと、しきりに強弁したのである。元東大法学部助教授の彼としては、その使用方について、法的に問題がなかったばかりか、前任者、石原氏に比べても問題にならない、つまり慣習的に言って、適法であると確信したに違いない。しかし、氏の場合、法以前の習俗や人倫、道徳に反するものとして、社会の指弾を浴び、都知事の職をはぎ取られたのである。そして、事の適法性の判断は、司法の決裁による。また、現存の法では対応できない事案が頻発し、政治問題化したときには新法が求められるが、それは立法府の任務となる。これが、三権分立の教科書的説明である(まだ少々説明を要するが、今日はこれまで)。

  • 11月14日・月曜日。曇り。本日、鳥取市から帰来し、早稲田に。

    2の伝統的支配とは、古来から引き続き存在するもの、事柄を大事にしたいとの思い、そうした尊崇の心、信念、心情に基づいて成立する支配関係である。例えば支配者の家系が古えに繋がり、それは先祖代々のことであり、それゆえ彼の命令は尊く、それには服するべきである、と被治者がみなし、これを受容するような関係がそうである。こう見れば、2は、ただ歴史や伝統が大事な歴史オタクや復古主義者のことかと誤解されかねないが、実はそうではない。ここでの問題は、被治者が統治者の支配・命令をいかなる意味で是認し、それを正当化しているかという支配の構造だからである。

    上では、昔から「在る」もの、事への被治者の尊崇の思いと言った。それは「伝統主義的」、と呼ばれる人々の行動様式であり、伝統的支配はこの行動様式を基礎に成り立つ。そしてそれは、単に政治の領域に留まらず、気づけば、現代の我々がとる行動様式そのものでもありうる。例えば、こうだ。最早、その由来、縁起は不明となってしまったが、しかしただそれが「在る」というだけで尊重される儀式、それまでの規則や慣習がその意味を問われる事なく惰性として適用されたり、前例踏襲主義的な組織運営や対応などである。

    こうした心術(心組み、心の持ち方、と言ったほどの意味)は組織、機構、体制の安定化に役立つばかりか、重要な要素であろうが、これに無反省に寄りかかれば、大勢順応主義に陥り、福沢が「封建は親の仇にござる」と呪詛したように、既得権益の擁護に堕するであろう。なお、カリスマ的支配から伝統的支配への移行、転移の問題も挙げれば興味深いが、ただでさえ混乱してきたわが叙述が、益々怪しげになるので、割愛しよう(旅の疲れか、頭がボーっとしている。と、尤もらしい理由をつけて、今日はこれまで)。

  • 11月4日・金曜日。快晴。

    こんな風に、ホッブスを解釈し、ヴェーバーと結びつけることが出来るのか、またこれを保障する先行研究、論文のありやナシやについては、私は何も知らない。こんな無責任が許されるのも、「手紙」ゆえの気軽さである。だから、以上は、わが妄想・妄言でしかないかも知れないと思う反面、もしかしたら画期的なホッブス論である可能性がまるで無いとも限るまい。とすれば、読者はいち早くそうした卓見に触れえた喜びにタップリと浸るがよろしい。と、厳かに申し上げておく。

    では、ヴェーバーの支配の正当性とは何か。彼はこれを三つの類型に分けて説明する。思うに、彼は事柄を類型化して考えるのが好き、というか得意であった。これによって、入り組んだ複雑な社会・歴史事象が整理されると共にその特徴が浮き彫りになって、そこからその事象の因果的な理解、解明が進むのである。だが、この事情を理解するには、かれの著書を一二お読み頂くほかは無く、多忙な読者には無理な要望ゆえ、この話はこれまでとする。

    さて、先の三つとは、1、カリスマ的支配、2、伝統的支配、3、依法的(合法的)支配である。何やら馴染みのない言葉で申し訳ないが、以下簡単に説明しよう。1のカリスマとは、かつて「カリスマ美容師」なる言葉を聞いて驚かされたが、そこには満更間違ってもいない意味が込められていた。つまり、並の美容師には及びもつかない技の所有者と言うほどのことか。もと、「神の恩寵」に由来し、特に旧約の予言者たちに授けられた予言的超能力をさし、そこからさらに奇跡や常人をはるかにこえた能力を発揮する人々を意味するにいたる。ヴェーバーはこの言葉を宗教的指導者から政治的分野に拡大援用した。そして、この支配の眼目、中心点は、彼とその従者たちとの関係が指導者のそれまでの成果の偉大さに心服し、ただその命ずるままに従う関係にある、ということだ。そこでは、理屈や説明は必要ない。イエスと十二使徒はそんな関係にあったろう。

    それゆえ、カリスマ的支配が成立するのは、その能力が持続される限りでしかない。神からの恩寵というその能力の特殊性から、相続など問題にもならない。またそこでは、基本的に規則や組織に類するものも必要ない。ただ、師に対する圧倒的な心服、帰依によって事が運ばれる。それゆえそれは、最強ではあるが永続性を欠いた、その限り脆弱な関係である(今日はここまで。以下次回)。