• 2月9日・金曜日。晴れ。

    2月16日・金曜日。晴れ。前回の補足として。

     

    筆者の区画された都市という印象は、わが勝手な思い込みではない。たとえば中世都市の発祥は、こうである。農業生産力の発展を背景に、河川等の交通の適地に余剰生産物の交換の場・市場が立ち(パリやベルリンはいずれも川の中州から浮き上がった街である)、はじめ定期市であったものが恒常化され、自然界やら外敵の襲来から身を守るために住民みずから、周囲を石垣で囲んで城塞化(Burg)し、やがて都市へと発展する(これを城塞都市と言う。ドイツには、ハンブルク、フライブルクのようにブルク・Burgのつく都市が多いが、それはその名残である)。彼らは城壁内に住まう人であるからブルジョア、或いはブユルガーと呼ばれ、市民の原義となった。彼ら住民は農村から食料の供給をうけ、たいして農村からの産物を加工し、あるいは農器具を生産する他農民の生活必需品を供給し、こうして都市と農村は有機的に結ばれ合うことになる。このような両者の関係を経済学の中に見ようとすれば、フランソワ・ケネー(1694-1774)の『経済表』(1758)が最良であろう(1)。

    ここでは、農業部門によって生産されたその年の生産物が、地主階級の手にする地代(貨幣)の支出を介して地主及び商工部門へと配分され、逆に商工部門の年生産物が同様にして地主と農業部門へと配分される。こうして農・商工部門の両者が必要とする原料・製品を相互に手にすることで次年度の生産の条件が整えられる。これを再生産構造と言うが、ケネーは社会経済体が年々維持される仕組みを簡単な線と数字によって鮮やかに示した。あの口の悪いマルクスがこれを激賞し、自身の再生論のアイデアとしたばかりか、その後の経済学にとっても大きな発想源となったのである。

    さらに蛇足を付せば、元々外科医であった彼は、その学術的素養と経歴から肉体と同様、社会体にも血液循環(ハーベイ『血液循環の原理』・岩波文庫1936)に類する規則的な循環があるはずであり、貨幣こそ体内に酸素と栄養を行き渡らせる血液と同類の機能を見た。貨幣に媒介されて、生活必需品が社会の隅々にまで届けられるからである。それゆえに、貨幣は財貨の交換手段として重要不可欠である。しかし、貨幣は富そのものである、と彼は見ていない。この貨幣観は当時の金・地金=富とする重商主義の考え方に対する痛烈な批判であり、それはアダム・スミスの基本的な貨幣観ともなった。筆者がこんな事を言うのは、カネこそ全てとする現代の世界的な風潮(だから私もそれに多少なりとも染まっているのだが)に対する異論を提示したいからである。

    そしてもう一つ。今につながる散髪屋の赤・青・白のサインポールはケネーの発案によるらしく、その意味はそれぞれ動脈・静脈・包帯を表し、ここは外科的治療の場所であると表示する看板であった。治療に当たり、体毛、頭髪を除去する必要があったはずであるが、時代と共にその作業が理髪業として特化していったのである。勿論、理髪業は洋の東西を問はずそれ以前からの職業であるは言うまでもないが、現代のそれが白衣を着用し、簡易な衛生対策を講ずるのは衛生法規上の規定と共に、そうした経緯も絡んでのことではないか(もう一点あげれば、彼はパノプチィコンと呼ばれる独特の刑務所施設の考案者としても知られる)。

    脱線が過ぎた。元に戻ろう。ドイツ中世都市がドイツ史に果たした政治的、経済的意義やさらに文化史的功績は、たとえばフランクフルト・アン・マインに育ったゲーテを挙げるまでも無く、それとして語るに相応しい魅力に富んだ物語であり、またそこは最良の自律的な個人主義の揺籃の場として考えてみたいものがある。しかしそれはここでの場ではない。ただ、以上との関連で言うべきことは、ドイツとてもはや城壁で区画された都市なるものは在り様はずも無いにせよ、しかしそれでもあのフライブルクの市中心部はアルテ・シュタット(旧市街)として市電、バス他公共の車以外は原則乗り入れ禁止であり、市民生活の大事な憩いの場としてあるという一事である(本日はこれまで)。

     

    (1)ケネーを挙げた序に、D,リカード(1772-1823)、フォン・チュ-ネン(1783-1850)についても触れておこう。前者は証券仲買人として財を成し、後にスミス『国富論』にふれて経済学に打ち込み、古典派経済学最大の理論家として名を残す。後者はゲッチンゲン大学中退後、農業経営者として科学的農法の開発と実践に取り組む傍ら、やがてイギリス古典派経済学の研究から独自の理論体系を打ち立てた。つまり、両者はいずれも経済学とは畑違いの学究であった。ケネーやスミス、或いは他の多くの人々もそうであったが、経済学とはそうした人たちが、眼前の経済問題の解決のために実践的に取り組み、そうした苦闘の中から学として生みだした学問であり、決して象牙の塔の内から誕生した学問ではない。

    さて、リカード、チューネンがここで言及されるのは、地代の発生を「差額地代論」として捉え、それが都市と農村の関係を良く示しているからである。彼らは都市を中心に置き、周辺に農耕地が広がる、そんなモデルを考える(特にチューネンは明瞭である)。仮に土地の肥沃度が均一であったとしよう。その場合でも、都市から遠方にある土地の農産物(ここでは穀物)は、運搬費を考えれば、距離に応じて割高になる。その意味で、その土地は都市近郊地に比べて費用が掛かるゆえに、劣等地と言われる。

    そして、都市の農産物価格は供給される最劣等地の生産費で決まるから、それ以外の優等地の農産物は、都市からの距離に応じてより低い費用で生産されるために、それだけ各農地の利潤分はそれに応じて増えるはずである。しかし、自由市場においては、資本利潤率は均一になるはずで、超過利潤は成立しない、とされる。その超過分は土地の地代分として地主の所得になるが、しかしその地代は農地の優等度に応じて異なるから、これを称して差額地代というのである。

    少々、理屈ぽくなったが、以上からも当時の経済学者にとって、都市と農村とは相互的な関係であり、しかも農村に囲まれる都市像があったという点は、お読み頂けるであろう。

  • 2月6日・火曜日。晴天なるも、寒気は厳しい。

    私鉄沿線のこうした郊外都市のイメージは、私見ではそれに止まらない。試みに東海道新幹線を西に向かえば、累々としたコンクリートの建造物群が小田原くらいまで続く。タワーから見降ろす大東京圏の俯瞰図は何とも言いようのない、ただコンクリートをブチマケタとしか見えない奇観であり、それは確かに巨大ではあるが、とても大自然の景観にふれた荘厳さは微塵もない。そこにあるのは、小さきものが次々に繋がり、いつしか大集積となってしまった卑小さである。まさに野放図に広がったスプロール現象の極みを見るばかりである。

    筆者はかつて、一年半ほど、ドイツの大学都市・フライブルクに家族共々生活したことがあった。それまで家族サービスなど目もくれなかったが、その間はさすがに、その周辺都市をアチコチ回ったものである。そこで気付かされることがあった。列車が停車駅に近づくにつれ、ポツポツ家が見え始め、教会の尖塔をはじめ都市を感じさせる建造物が迫ってくる。大都市であるほどその規模の壮大さが感じられる。駅を離れるにつれ、先とは逆回しとなった映像のように建築物は消え去り、何時しか列車は牧草地やら大森林を分け入り、あるいは渓谷を疾駆しているのである。つまりここでは、都市は区画され、周囲は手入れの届いた田園地帯、さらには手つかずの大自然が囲繞するという、そんな印象を抱かされるのである(本日はこれまで)。

  • 2月1日・木曜日。曇りのち雨。夕刻より雪の予報あり。

    都市と農村

    今、伊勢崎線沿線の市街地のことを言ったが、事情は程度の差はあれ、似たり寄ったりではなかろうか。駅周辺はそれなりの賑わい、と言えば聞こえはいいが、どこでも似たようなバスターミナルと商店街が雑然とし、市街地整備をした街では幅の広い分不相応の道路が駅前から走り、朝夕のラッシュアワー以外にはかえって寒々しい景観を呈する。このような道路は車の走行を最優先したまさに自動車専用路であるが、それだけに、これは車が走り去ってしまえば、何も残らないただの空間としてしか在り様がないものとなる。そこでは、子供や大人が立ち混ざり、お喋りをし、お茶を飲み、買い物を楽しみながら、生活空間として親しむという、ヨーロッパの諸都市では今でもみられる道の機能は奪われてしまった(1)。その背後にある都市設計(?)は、恐らく駅周辺なるものは住まいから駅に着いたら、サッサと乗りついて勤めに行きなさい、と言ったたぐいの効率優先的なものなのであろう。

    そして、この道路に沿って車を走らせれば(もっとも私は運転できないのだが)、何処までも市街地のような景観が続き、と言って街としての纏まりはなく、空き地のような、田畑のような、要するにスカスカとした空間と、不揃いな民家やマンションが混在したまま、いつの間にか隣接の市区へと紛れ込む。あるいは、突如、開けた田園か原野に至り、そこでも統一された田園風景が望まれるわけではなく、廃材や資材置き場の近辺に数軒の民家が寄り添うという具合である。私はこの数十年と言うもの、このような都市景観をあちこちで目にしてきたような気がする(以下次回、本日積雪の恐れがあり、これまで)。

    (1)街路の多様な意味について、こんな事例はどうか。「中世の街路は、つまり職業生活の本拠であると同時に、おしゃべり、会話、見世物、遊びなどの本拠でもあった」。「こうした中世の街路は、今日のアラブの街路と同様に、個人生活の親密性に対立してはいない。それは個人生活の外への延長なのであり、仕事と社交の身近な区域なのである。…この個人生活は家の中と同じくらいかあるいはもっと多く、街路で送られてもいたようではあるが」(フィリップ・アリエス・杉山光信、恵美子訳『子供の誕生―アンシャンレジーム期の子供と家族生活』みすず書房・2001、320頁)。

  • 1月26日・金曜日。晴れ。日陰の雪、いよいよ氷付き、寒気いまだ緩まず。

    論に先立ち、まず感謝を述べさせていただく。筆者は前回、以下の論議では読者の積極的な参加を願い、異論その他文献、資料等お気付きの点があれば、是非ご指摘あれ、そのようにしてここでの主題を我々の共同の問題として考える場としたい、と述べたが、早速I氏より『人工知能と経済の未来』を教えられ(即購入)、日経新聞のここでの主題に関わりそうな幾つかの切り抜き及びコピーを頂戴した。その内容から、氏には「たたむ」社会の方向性がすでにして胚胎し始めているのではないか、との手応えを覚えた次第である。ただ読者にはこれほどの労を取られる必要はなく、例えば新聞社名・掲載日・見出しあるいは書名等をinfo@ccrt.co.jpまたは本ブログのコメント欄に記載して頂ければ、それで十分である。

    ここで前回の文章を少し補足しておこう。社会を「たたむ」事に思い至った理由についてである。私事に及ぶことながら、筆者は現在、埼玉県春日部市に在住し既に38年、それ以前は志木市で7年を暮らした。都合45年の埼玉県民である。にも関わらず、我が本籍地は東京都文京区小日向である。役所への様々な届出の度に、春日町の文京区役所に出向かなければならぬ不便をかこつ。だから親父が存命のころ、本籍地を移そうかと思う、とフト漏らしたところ、イヤ、止めとけ、と一言。その意味は問わずとも分かった。むしろソンナ返事を予想して、そう言ったのかも知れない。深川生まれの深川育ちの職人であり、母親は生まれも育ちも人形町である。「ヤダねー、お前のとこは日光のふもとなんだろう」、これが大事な長男に言う母親の言葉か?

    我が同僚に前日本人口学会会長・安蔵伸治(現明治大学付属高等学校・中学校校長)がいる。彼は大恩ある私にコウ言い放った。「先生は、今や人生の大半以上が埼玉県人なのですから、江戸っ子、と言うのは、もう無理なんじゃないですか!」。思わず、反撃してやった。「ヴァかメー、オレは昼間はどこにいると思ってるんだ、御茶ノ水だー」。かく言う安蔵は墨田区八広の在であり、そこで「川向うは江戸っ子じゃネー」とは、我が悪口である。

    土地へのこだわりは理屈ではない。埒もないソンナ拘りが、何の得も無ければ、むしろ負担になるのも承知で捨てきれないでいることは、どなたも同じであろう。ただ筆者がこのような一席を披露したのは、今日に至るまで、筆者は人中で暮らし、それ以外は知らない生活であった。それだけに、春日部はもとより、伊勢崎線沿線の急行停車駅ですら昼も夜もスカスカした街の佇まいには一層の寂寥感を覚え、田園ならいざ知らず、街の造りとしてこれで良いのか、との思いに捉われたからである。そして、その視線が地方都市のシャッター街に向かう時、この感懐は一入のものとなる。

    このような思いが凝ったのであろうか、それが以下で考えようとする「社会のたたみ方」の出発点になったという訳である(以下次回)。

  • 2018年1月11日・木曜日。晴れ。やっと仕事始め。五年目の仕切りとしては、誠に悠長、と言うよりシマリのないことで、こんなことで本年を乗り切れるものやら、甚だ心許ない限りながら、先ずは本年もよろしくお願いしますと、ご挨拶させていただく。

    今日から、「社会のたたみ方」なる主題で、論文のようなものを書いてみようとは、昨年末に予告し、その意気込みは賀状にも記したことであり、今更止めましたとは、チト言いにくい。とは言え、次なる駄句を添えて、それとなく逃げ道を用意したのではあるが…。

    寒風に鉄の駿馬ははや駑馬に  みつを。

    私には、自転車を矢のように疾駆させたかつての面影はもはや失せ、今や駑馬のごとし。よって、こんな大それた試みはいつ放棄しても責任は取りません。そんな心算で、以下お付き合いのほどを。これだけのことを申し上げ、仕度を整え、覚悟を固めて、いざ舞台に。

    社会のたたみ方

    (1)はじめに

    これからの進め方

    手元には、すでに出来上がった原稿があるという訳ではない。これまで読んだ文献、資料をもとに考えを纏めつつ、それを文章化し、その過程で新たに浮上して来た問題について検討し、本文に接合する。そんなやり方で論を進めていこうと思う。その方向がどこに向かい、どれ程の深みを持ち、最後にいかなる形になるか、私自身にも皆目分からない。

    そしてこれは私にとって初めての試みであり、恐らく無責任の誹りは免れ難いが、しかしこれだけは言える。以下の思索、文章は、私と読者とが共に考え、苦闘し、練り上げようとするものである。とすれば、もはや私一人がではなく、読者と筆者が共々に一体となり、一つの思考が形作られる過程を見届けることになる。であれば、以下において異論や抜け落ちた論点、あるいは別の着想、その他ふれるべき論文等があれば、是非ご指摘頂き、また議論にも参加されたい。

    こうは言っても、「社会のたたみ方」ということで何を言おうとするのか、この点について一言しておかなければ、あまりに漠然としすぎて、議論に入り様もない。そこで、ここではとりあえずの考え方だけでも示しておきたい。「とりあえず」とは、論の進むに従い、この論題の意味がより明瞭になる事を期待したいからである。

    先ず、ここで言う「社会」とは地域社会、地方社会を言い、また大都会の中のストンと抜け落ちた地区を含みたい。「たたみ方」とは、そうした社会、地域を無理なく接合し、コンパクト化して、その活性化を図り、そこに住み、暮らす住民が喜びと生きがいの持てる町造りを目指す、そのような一つの政策提言であろうとするものである。

    ここでの発想の基底には、経済発展をベースにして人口増を目指すという成長主義からの決別がある。わが国の現状は、そうした楽観をもはや許さない。そんな時代はもはや去った。それは様々なデータから明らかであろうと考えるからだ。これがここでの時代認識である。以下の論議は、そうした現状および時代の認識を、既に刊行されている幾つかの文献を通して確認することから始めたい。そうした作業を重ねることで、本論文の骨格が組み上がるはずであり、その時点で一応の目次も提示されるであろう(以上の文章は開示されるが、後に大幅に改められることを許されたい。以後も同じ)。