• 1月26日・金曜日。晴れ。日陰の雪、いよいよ氷付き、寒気いまだ緩まず。

    論に先立ち、まず感謝を述べさせていただく。筆者は前回、以下の論議では読者の積極的な参加を願い、異論その他文献、資料等お気付きの点があれば、是非ご指摘あれ、そのようにしてここでの主題を我々の共同の問題として考える場としたい、と述べたが、早速I氏より『人工知能と経済の未来』を教えられ(即購入)、日経新聞のここでの主題に関わりそうな幾つかの切り抜き及びコピーを頂戴した。その内容から、氏には「たたむ」社会の方向性がすでにして胚胎し始めているのではないか、との手応えを覚えた次第である。ただ読者にはこれほどの労を取られる必要はなく、例えば新聞社名・掲載日・見出しあるいは書名等をinfo@ccrt.co.jpまたは本ブログのコメント欄に記載して頂ければ、それで十分である。

    ここで前回の文章を少し補足しておこう。社会を「たたむ」事に思い至った理由についてである。私事に及ぶことながら、筆者は現在、埼玉県春日部市に在住し既に38年、それ以前は志木市で7年を暮らした。都合45年の埼玉県民である。にも関わらず、我が本籍地は東京都文京区小日向である。役所への様々な届出の度に、春日町の文京区役所に出向かなければならぬ不便をかこつ。だから親父が存命のころ、本籍地を移そうかと思う、とフト漏らしたところ、イヤ、止めとけ、と一言。その意味は問わずとも分かった。むしろソンナ返事を予想して、そう言ったのかも知れない。深川生まれの深川育ちの職人であり、母親は生まれも育ちも人形町である。「ヤダねー、お前のとこは日光のふもとなんだろう」、これが大事な長男に言う母親の言葉か?

    我が同僚に前日本人口学会会長・安蔵伸治(現明治大学付属高等学校・中学校校長)がいる。彼は大恩ある私にコウ言い放った。「先生は、今や人生の大半以上が埼玉県人なのですから、江戸っ子、と言うのは、もう無理なんじゃないですか!」。思わず、反撃してやった。「ヴァかメー、オレは昼間はどこにいると思ってるんだ、御茶ノ水だー」。かく言う安蔵は墨田区八広の在であり、そこで「川向うは江戸っ子じゃネー」とは、我が悪口である。

    土地へのこだわりは理屈ではない。埒もないソンナ拘りが、何の得も無ければ、むしろ負担になるのも承知で捨てきれないでいることは、どなたも同じであろう。ただ筆者がこのような一席を披露したのは、今日に至るまで、筆者は人中で暮らし、それ以外は知らない生活であった。それだけに、春日部はもとより、伊勢崎線沿線の急行停車駅ですら昼も夜もスカスカした街の佇まいには一層の寂寥感を覚え、田園ならいざ知らず、街の造りとしてこれで良いのか、との思いに捉われたからである。そして、その視線が地方都市のシャッター街に向かう時、この感懐は一入のものとなる。

    このような思いが凝ったのであろうか、それが以下で考えようとする「社会のたたみ方」の出発点になったという訳である(以下次回)。

  • 2018年1月11日・木曜日。晴れ。やっと仕事始め。五年目の仕切りとしては、誠に悠長、と言うよりシマリのないことで、こんなことで本年を乗り切れるものやら、甚だ心許ない限りながら、先ずは本年もよろしくお願いしますと、ご挨拶させていただく。

    今日から、「社会のたたみ方」なる主題で、論文のようなものを書いてみようとは、昨年末に予告し、その意気込みは賀状にも記したことであり、今更止めましたとは、チト言いにくい。とは言え、次なる駄句を添えて、それとなく逃げ道を用意したのではあるが…。

    寒風に鉄の駿馬ははや駑馬に  みつを。

    私には、自転車を矢のように疾駆させたかつての面影はもはや失せ、今や駑馬のごとし。よって、こんな大それた試みはいつ放棄しても責任は取りません。そんな心算で、以下お付き合いのほどを。これだけのことを申し上げ、仕度を整え、覚悟を固めて、いざ舞台に。

    社会のたたみ方

    (1)はじめに

    これからの進め方

    手元には、すでに出来上がった原稿があるという訳ではない。これまで読んだ文献、資料をもとに考えを纏めつつ、それを文章化し、その過程で新たに浮上して来た問題について検討し、本文に接合する。そんなやり方で論を進めていこうと思う。その方向がどこに向かい、どれ程の深みを持ち、最後にいかなる形になるか、私自身にも皆目分からない。

    そしてこれは私にとって初めての試みであり、恐らく無責任の誹りは免れ難いが、しかしこれだけは言える。以下の思索、文章は、私と読者とが共に考え、苦闘し、練り上げようとするものである。とすれば、もはや私一人がではなく、読者と筆者が共々に一体となり、一つの思考が形作られる過程を見届けることになる。であれば、以下において異論や抜け落ちた論点、あるいは別の着想、その他ふれるべき論文等があれば、是非ご指摘頂き、また議論にも参加されたい。

    こうは言っても、「社会のたたみ方」ということで何を言おうとするのか、この点について一言しておかなければ、あまりに漠然としすぎて、議論に入り様もない。そこで、ここではとりあえずの考え方だけでも示しておきたい。「とりあえず」とは、論の進むに従い、この論題の意味がより明瞭になる事を期待したいからである。

    先ず、ここで言う「社会」とは地域社会、地方社会を言い、また大都会の中のストンと抜け落ちた地区を含みたい。「たたみ方」とは、そうした社会、地域を無理なく接合し、コンパクト化して、その活性化を図り、そこに住み、暮らす住民が喜びと生きがいの持てる町造りを目指す、そのような一つの政策提言であろうとするものである。

    ここでの発想の基底には、経済発展をベースにして人口増を目指すという成長主義からの決別がある。わが国の現状は、そうした楽観をもはや許さない。そんな時代はもはや去った。それは様々なデータから明らかであろうと考えるからだ。これがここでの時代認識である。以下の論議は、そうした現状および時代の認識を、既に刊行されている幾つかの文献を通して確認することから始めたい。そうした作業を重ねることで、本論文の骨格が組み上がるはずであり、その時点で一応の目次も提示されるであろう(以上の文章は開示されるが、後に大幅に改められることを許されたい。以後も同じ)。

  • 12月15日・金曜日。曇り。いよいよ押しつまる。今年の漢字は「北」であったが、私には「乱」が相応しい。さて、諸氏は…?

    言語とは、われわれ人間にとって何であろうとお考えか?ふつうそれは、「コミュニケーション」のための一手段、だが最も重大な手段だと思われないだろうか。言語は、モッパラそのためのモノだと。かく言う私は、そう思ってきた。しかし、それはどうも違うらしい。たとえば服は、本来、寒暖を防ぐ用具として発達しながら、しかし他方で自己主張やセンスの発露他、多様な手段として役立つのと同様に、コミュニケーションのための言語機能とは、そういう何か派生的なものであるらしい。だから、こうなる。「言語はコミュニケーション・システムとして進化したのではない…初期の言語はもっと…現実世界の構築、思考の道具として進化した」(87頁)との研究成果に基づき、著者は「統計的に言うと、言語が圧倒的に使われるのは内的 ― つまり思考のためだ」と言い切る(86頁)。そして、人間言語の構造、すなわち意味論、統辞論、形態論、音韻論(申し訳ないが、これらを解説する余裕、と言うより能力はない)において、「人間言語の中核的性質は、動物の意思伝達システムとはまったく違い、生物世界ではほとんど唯一無二のモノのようだ」(87頁)。

    言語が伝達手段というよりも思考の手段だ、という指摘は極めて重要である。われわれは言葉を介してしか思考できず、言葉を奪われたとき思考は成り立たない(この場合、発話は重要ではない。手話も同一の意味を持つとは、著者の繰り返すところである)。すでにジョージ・オーウェルは「1984」において、スターリンを模した独裁者が「ニュースピークス」なる新言語を国民に強制し、思考の単純化と愚民化を推進するという、独裁政治の暗黒を描いたが、この時オーウェルは言語の重要性を十分知っていたのであろう。

    では、このような唯一無二の言語体系の発達はいかにして可能であったか。言語の進化を扱おうとする本書の目的はここにある。結論的に言えば、それはアフリカの原野において、われわれ現生人類であるホモ・サピエンスが登場した時代に遡る6万年前の事であった。ネアンデルタール人から現生人類に至る長大な進化の過程でその脳内に生じた「突然変異」の結果であった。ここに著者はダーウィンの進化論と切り結ぶ。彼は人も知るように、突然変異を否定し、漸進的変異の累積により生物進化を捉えていたからである。

    著者は古生物学の進化過程を追いながら、特に人間の脳の進化を追究し、ネアンデルタール人の脳容積とホモ・サピエンスの容積は遜色ないものの、しかし後者の脳内における特異性、すなわち、脳内の言語を司る部位の「繊維束」の「環」が閉じられたことに着目するのである(205-214頁)。前者ではその環が開いたままであったと言う。

    以上、自分でも何を言っているのか分らぬままに、こんな一文を草してきたが、本を読むとは、書かれた全てを分からなければ読んだ甲斐がないというものでも無かろう。負け惜しみを言う訳ではないが、これまでの我が研究体験から言って、著者自身が自己撞着に陥り、ご自分でも何を言っているか分からぬ歴史上の第一級の思想書は幾らでもある。とすれば、凡人たるわれわれが興味のある本に出会い、分からぬままに分かるところを読み取り、ご自分の糧にする、そんな気楽さで本に付き合ったらいかがか。こんな思いであえて暴挙、いな恥を晒した次第である。

    以上をもって今年の書き納めとしたい。一年間、お付き合い頂き感謝申し上げ、来年もよろしく。皆様、よいお年をお迎えあれ。

  • 12月8日・金曜日。曇り。過日、ラグビー早明戦を秩父宮にて観戦す。昨年の雪辱を果たす快勝であった。かつて、明大ラグビー部の部長を三年間務めた身としては、久しぶりの快哉を叫ぶ。絵画館前の銀杏の黄葉、盛りを過ぎるも見事であった。

    本書の冒頭は実に魅力的だ。「人は泣きながら生まれてくる。その泣き声は言語のめばえを知らせるものだ。ドイツの乳児はドイツ語の抑揚で泣く。フランスの乳児はフランス語の抑揚で泣く。これはどうやら胎内で獲得するもののようなのだ。生後ほぼ一年以内に、子供は母語の音声システムを身につけるようになる。そしてさらに何年かが過ぎると、そばにいる人と会話をしている。どんな人間言語でも獲得するという、ヒトという種が持つこのすばらしい能力―“言語機能―は、ずっと以前から重大な生物学的問題を投げかけている。たとえば、言語の本質とは何か。どのような働きを持つのか。どのように進化したのか」。

    人間はマッサラな、白紙のような状態で生まれ(ロック「タブラ・ラサ」)、その後の経験から多様な観念を獲得し、ひいては人格形成に至るという主張があるが、事はそれほど単純なものではなく、乳児はすでに多くのモノを背負って誕生するらしい。とすれば、妊婦の置かれた状態は乳児にとってすこぶる重大であろうが、これは本書とは関係のない別の問題である。本書は上で挙げられた主題の「三つ目の問題、つまり言語の進化」をとくに生物学的進化の視点から扱おうとするのである。

    まず、断っておかねばならない。以下は我が勝手な要約で、本書の正確・忠実なそれではなく(そんなことは全く不可能だ)、興味の向きには是非本書をご一読あれ、と申し上げておく。マッ、これは今に始まった事ではない、とは諸氏の既に周知のところであるから、当方としては安心しているのだが…。

    人間以外にも、かなり精度の高い言語的な伝達能力を持つ動物は、蟻や蜂の例を挙げるまでも無く幾らでもいる。ある種の類人猿は―チンパンジー―人間に類する言語能力さえあると考えられてもいるようだが、にも拘らず人間の場合そうした事例から質的・量的に隔絶したマッタク別個の言語体系を確立しており、そのような言語がどのようにして獲得されたのか、その構造がどうあり、よって言語は、人間にとっていかなる意味を持つのかが、次第に明らかにされるのである(以下次回)。

  • 師走・朔日・金曜日。曇り。早いものだ。これ以外の言葉は思いつかない。

    ノッケから恐縮ながら、次の文章をお読み頂こう。「最近ではコミンズとゲントナー、そしてエンゲッサー他が、この学習能力は単なる順序付け以上のものであることを示唆している。コミンズとゲントナーは、ムクドリが人間の音声システムを思わせる抽象的なカテゴリー形成能力を示すと報告している。そしてエンゲッサーらは、音素対立を持つ鳥の種を一つ――クリボウシオウストラリアマルハシ――発見したと主張している。種に固有の能力があることを指摘したのがコーエンだった。…」(22頁)。

    これはチョムスキー、バーウィック共著の『チョムスキー言語学講義』(渡会圭子訳・ちくま学芸文庫)からの一文である。オビには「人類進化にとって、なぜ言語が問題なのか?その本質を問う格好の入門講義。」とあり、これに引かれて手に取った。この分野のわが基礎知識たるや誠にリッパなもので、英・独語の在るか無しやのか細い文法と、はるか昔に習った日本語の文法的知識(❓)のその残滓くらいのモノでしかない。これを唯一つの財産として、多少の興味があると言うだけで、本書に挑んだという訳である。

    いくら「格好の入門講義」と歌われていても、これではとても歯が立つまいと予想の通りの仕儀ではあったが、しかし考えてみれば、これまでの我が研究生活なるものもこれに類したことで、了解不能な書物の数々をともあれ最後まで取っ付いて諦めないという訓練が功を奏したか、この度もまたとにかく最後の頁までたどり着いた。本文217頁に四日を要す。

    まず、本書中に出てくる研究者や膨大な文献、その成果の意味等々について、私はマッタク知らない。であれば、冒頭の文章が分かろうはずも無く、そして、この手の文が延々と続くのである。だが訳文は、私の直感では、名訳である。分野は多岐にわたり、素材の難易度は半端ではない。これをよくぞ完訳されたと、訳者の能力と努力とに敬服する。しかし解説は無く、訳注も本文中の簡単な補足を除いて一切ない、ただいきなり本文が出てくるという素っ気なさには、正直マイッタ。しかし、読了して思うに、解説、訳注を付そうとすれば、精度にもよるが、本書は優に二、三倍の分量にならざるを得なかったであろう。

    本書は以上の通りであるが、それにも関わらず、私のような全くの門外漢であっても理解できる。勿論、多様な問題領域や細部における論議、その意義いかんなぞ分かるはずも無いが、著者が説いてやまない、またこれだけは解れと主張する論点はそれなりに理解できるのである。それが本書の力であり、訳者はその事を十分承知していたから、余分とするところを省くことが出来たのであろう(以下次回)。