2018年2月9,16日

2月9日・金曜日。晴れ。

2月16日・金曜日。晴れ。前回の補足として。

 

筆者の区画された都市という印象は、わが勝手な思い込みではない。たとえば中世都市の発祥は、こうである。農業生産力の発展を背景に、河川等の交通の適地に余剰生産物の交換の場・市場が立ち(パリやベルリンはいずれも川の中州から浮き上がった街である)、はじめ定期市であったものが恒常化され、自然界やら外敵の襲来から身を守るために住民みずから、周囲を石垣で囲んで城塞化(Burg)し、やがて都市へと発展する(これを城塞都市と言う。ドイツには、ハンブルク、フライブルクのようにブルク・Burgのつく都市が多いが、それはその名残である)。彼らは城壁内に住まう人であるからブルジョア、或いはブユルガーと呼ばれ、市民の原義となった。彼ら住民は農村から食料の供給をうけ、たいして農村からの産物を加工し、あるいは農器具を生産する他農民の生活必需品を供給し、こうして都市と農村は有機的に結ばれ合うことになる。このような両者の関係を経済学の中に見ようとすれば、フランソワ・ケネー(1694-1774)の『経済表』(1758)が最良であろう(1)。

ここでは、農業部門によって生産されたその年の生産物が、地主階級の手にする地代(貨幣)の支出を介して地主及び商工部門へと配分され、逆に商工部門の年生産物が同様にして地主と農業部門へと配分される。こうして農・商工部門の両者が必要とする原料・製品を相互に手にすることで次年度の生産の条件が整えられる。これを再生産構造と言うが、ケネーは社会経済体が年々維持される仕組みを簡単な線と数字によって鮮やかに示した。あの口の悪いマルクスがこれを激賞し、自身の再生論のアイデアとしたばかりか、その後の経済学にとっても大きな発想源となったのである。

さらに蛇足を付せば、元々外科医であった彼は、その学術的素養と経歴から肉体と同様、社会体にも血液循環(ハーベイ『血液循環の原理』・岩波文庫1936)に類する規則的な循環があるはずであり、貨幣こそ体内に酸素と栄養を行き渡らせる血液と同類の機能を見た。貨幣に媒介されて、生活必需品が社会の隅々にまで届けられるからである。それゆえに、貨幣は財貨の交換手段として重要不可欠である。しかし、貨幣は富そのものである、と彼は見ていない。この貨幣観は当時の金・地金=富とする重商主義の考え方に対する痛烈な批判であり、それはアダム・スミスの基本的な貨幣観ともなった。筆者がこんな事を言うのは、カネこそ全てとする現代の世界的な風潮(だから私もそれに多少なりとも染まっているのだが)に対する異論を提示したいからである。

そしてもう一つ。今につながる散髪屋の赤・青・白のサインポールはケネーの発案によるらしく、その意味はそれぞれ動脈・静脈・包帯を表し、ここは外科的治療の場所であると表示する看板であった。治療に当たり、体毛、頭髪を除去する必要があったはずであるが、時代と共にその作業が理髪業として特化していったのである。勿論、理髪業は洋の東西を問はずそれ以前からの職業であるは言うまでもないが、現代のそれが白衣を着用し、簡易な衛生対策を講ずるのは衛生法規上の規定と共に、そうした経緯も絡んでのことではないか(もう一点あげれば、彼はパノプチィコンと呼ばれる独特の刑務所施設の考案者としても知られる)。

脱線が過ぎた。元に戻ろう。ドイツ中世都市がドイツ史に果たした政治的、経済的意義やさらに文化史的功績は、たとえばフランクフルト・アン・マインに育ったゲーテを挙げるまでも無く、それとして語るに相応しい魅力に富んだ物語であり、またそこは最良の自律的な個人主義の揺籃の場として考えてみたいものがある。しかしそれはここでの場ではない。ただ、以上との関連で言うべきことは、ドイツとてもはや城壁で区画された都市なるものは在り様はずも無いにせよ、しかしそれでもあのフライブルクの市中心部はアルテ・シュタット(旧市街)として市電、バス他公共の車以外は原則乗り入れ禁止であり、市民生活の大事な憩いの場としてあるという一事である(本日はこれまで)。

 

(1)ケネーを挙げた序に、D,リカード(1772-1823)、フォン・チュ-ネン(1783-1850)についても触れておこう。前者は証券仲買人として財を成し、後にスミス『国富論』にふれて経済学に打ち込み、古典派経済学最大の理論家として名を残す。後者はゲッチンゲン大学中退後、農業経営者として科学的農法の開発と実践に取り組む傍ら、やがてイギリス古典派経済学の研究から独自の理論体系を打ち立てた。つまり、両者はいずれも経済学とは畑違いの学究であった。ケネーやスミス、或いは他の多くの人々もそうであったが、経済学とはそうした人たちが、眼前の経済問題の解決のために実践的に取り組み、そうした苦闘の中から学として生みだした学問であり、決して象牙の塔の内から誕生した学問ではない。

さて、リカード、チューネンがここで言及されるのは、地代の発生を「差額地代論」として捉え、それが都市と農村の関係を良く示しているからである。彼らは都市を中心に置き、周辺に農耕地が広がる、そんなモデルを考える(特にチューネンは明瞭である)。仮に土地の肥沃度が均一であったとしよう。その場合でも、都市から遠方にある土地の農産物(ここでは穀物)は、運搬費を考えれば、距離に応じて割高になる。その意味で、その土地は都市近郊地に比べて費用が掛かるゆえに、劣等地と言われる。

そして、都市の農産物価格は供給される最劣等地の生産費で決まるから、それ以外の優等地の農産物は、都市からの距離に応じてより低い費用で生産されるために、それだけ各農地の利潤分はそれに応じて増えるはずである。しかし、自由市場においては、資本利潤率は均一になるはずで、超過利潤は成立しない、とされる。その超過分は土地の地代分として地主の所得になるが、しかしその地代は農地の優等度に応じて異なるから、これを称して差額地代というのである。

少々、理屈ぽくなったが、以上からも当時の経済学者にとって、都市と農村とは相互的な関係であり、しかも農村に囲まれる都市像があったという点は、お読み頂けるであろう。


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