• 8月25日・水曜日。晴れ時に曇り。

    8月27日・金曜日。晴れ。炎暑が続く。

    9月1日・水曜日。雨。炎暑から一転、肌冷えの日となった。なお、8/30・(月)および本日の二日をかけて、前回の文章に手を入れ、文意をよりハッキリさせた。それだけ長文となり、だが趣旨は前回と同一であるから、別に再読される必要はない。

     

    これまでの政府、都庁のコロナ対策は、まさに以下の川柳、これである。

    全力で神風だけを待っている  金 昌則(朝日川柳・8/18)

    だが、頼みの神風が吹かなかったその結果、国民は「自宅療養」という体の良い「入院拒否」、「入院謝絶」に追い込まれた。詰まるところ、これは命の選別である。そうはさせない、と総理は言明していた。この自宅療養は、真に危険な患者のために病床を確保するためと言いながら、実際は中・軽症とみられる患者も、自宅療養中に急変し、死亡するケースも出てきた。ここに、救える命が見殺しにされる現状を、国民は目の当たりにし、同時に明日は我が身と、震撼させられているのである。

    そも「自宅療養」とは、本来、症状の安定した患者が病院から退院して、自宅で静養する意味ではないのか。こう中島岳志氏は言う。であれば、政府の使う用語は、まるでアベコベだ。悪くすれば、入院どころか、医師の診断も無いまま、病者は自宅に放置されかねないからである。このように、最近の政治、特に安倍・菅政権は「一貫して言葉を破壊し」、意味不明なものに変えてしまった(朝日新聞・朝刊・「迫られる「自宅療養」」8/24)。恐らく。この事が、政治の発する言葉を、国民がまともに信じなくなった大きな要因の一つではないだろうか。

    五輪開催について、コロナ感染とは無縁である、と総理も、都知事も言い放って来たことも、その一例であろう。この言葉を額面どおり受け取り、そうだと得心する国民はどれほどいるだろう。五輪のテレビ放映を見る暇もなく、コロナ診療に従事したという作家の夏川草介氏にとって「この期間の一番の驚きは、政府や東京都のトップが、この緊急事態宣言下での五輪開催と、新型コロナウイルスの感染拡大との関連を否定した」(朝日新聞・朝刊・8/23)ことであった。

    五輪と感染がセットであることは、すでに尾身氏が国会で警告し、各種調査では国民各層がこれを懸念していた。しかも取るべき方針、対策まで指摘されてもいたのである。今、多くの懸念・不安は的中するが、対策は後手に回って、「自宅療養」に行きついた。

    この事態に直面してなお、両首脳は自分たちの言っていたことが正しいとお思いなのだろうか。それ以上に、お二人はご自分の言った事を、心底、信じて、そう言われたのだろうか。もしそうなら、御両所の判断能力を疑い、夏川氏と共に驚愕し、大変な人たちをトップにしたものだと嘆く他はない。そうではなく、危険は重々承知の上で、もはや五輪中止は不可能ゆえの言い訳であったとすれば、国民を欺瞞し、その命を犠牲にした五輪優先策であった。だが、平気で国民を欺く政治家に、どれほど人々の生活の保全や安心を思いやる気持ちがあるものだろうか。

    これまでの総理の感染対策(?)には、ある傾向があるようだ。経済の維持と感染阻止、五輪開催と感染阻止と言うように常に二兎を追い、政策は小出しである。この事が、情報の混乱と政策の実効性を削いできた。決定的なのは、人流抑止と聞けば、それにのめり込み、ワクチンが出るとすべてをこれに賭ける。現在は抗体カクテル療法にご執心である。何かが良いと言われると、その有効性、限界の見極めも無いまま、それに縋りついて、これで感染は収まると何度断言されたことか。過日は、カクテル療法により感染からの「出口は見えた」とまで言い切った。常々、お気に入りの「総合的に判断して」とのお言葉ながら、場当たり的で、長期的・総合的な対策はついに見ない。総理の発想と流儀は、かつて評判となった千葉県M市の「すぐやる課」のそれに似ていなくもない。むしろ、市議時代の延長線上に、現在の総理はお立ちのように見えるのである。

    だが、市レベルで取られる対策、手法が、そのまま国家の運用に通用するとはとても考えられない。扱う対象の範囲や規模を思うだけでも、それは明らかだ。国家的な政策立案、およびその実行には、当然、市レベルとは桁違いの、幅広い配慮と各種の膨大な準備が必要であろうことは、言うまでもない。

    では、この度のワクチン接種はどうであったか。総理の指示はいかにも唐突であり、結局、肝心のワクチンの不足や予備にもこと欠く失態さえ招いた。これについては、朝日新聞の「声」欄に寄せられた、辛辣な投書がある。足立素夫氏は言う。接種は「自治体に丸投げしたかと思えば、「自衛隊にやらせると」と言い出したり、職域接種を勧めたり。ようやく接種が進み出した段階になって、今度はワクチンが足りなくなり、2回目の接種のために自治体が確保しているものを「確保しすぎだ」と言ってみたり…」の体たらくであった(朝日新聞・朝刊7/31より)。

    現下のコロナ疫病は世界が混乱し、今だ明確な出口が見えないほどの凶事である。しかも事態の推移と変化は、予想を超えたスピードであるから、対応の失敗、読み間違えはわが国だけのことではない。しかし、そうした当局の過誤、政策変更については、まず謝罪と共に変更理由を、国民に丁寧に説明するのが民主主義国家の取るべき姿勢であろう。

    だが、こうした点で、わが国の対応は欧米に比して著しく拙劣である。いまだに「官僚制」の無謬性を振りかざし、率直な謝罪は常に回避しようとする。「遺憾」という、誰が誰に対して、何が遺憾なのかまるで不明な弁明に終始する。政治家の説明能力はさらに低い。総理はこれまでも、記者からの質問をあらかじめ規制し、用意したメモに頼った答弁で済ますばかりか、答えに窮すると怒りすら見せる。そして、言う。「私なりにお答えしている」(朝日新聞・朝刊8/21・土)。冗談ではない。筆者は言いたい。「あなたは、強大な権力を国民から負託された最高権力者である。ならば、国民の疑問に対し、私なりにではなく、国民に分かるように説明する義務がある」。勝手な思い込みで権力を振り回されたら、その惨害を負わされるのは、我われ国民なのである。こんな事だから、総理は「本物の記者会見を経験していない」アマチュアだと、一外国特派員に痛罵される羽目にもなるのである(本欄、7/28参照)。だが、政治家の命は答弁能力であり、説得力であろう。彼がどれ程の生命力ある言葉を持つかによって、その力が測られるのだと思う(以下次回)。

  • 8月18日・水曜日。晴れ、所により強雨。

    7月の歩行総数、267,840歩、1日平均歩数・8,640歩、最高・14,922歩、最低・1,714歩であった。6か月維持してきた平均9,000歩に達しなかったのは、誠に残念。途中、これは危ないと察し、何日かギアを入れ替え13,000歩を目指すも、翌日の反動が大きく、疲労のため返って歩数を伸ばせなかった。今月の見込みはさらに悪そうである。

    8月20日・金曜日。晴れ。大分以前に『白の闇』(サラマーゴ・雨沢泰訳・河出文庫2020)を読んだ。人々が感染症によるのか、次々視覚を奪われ、さながら「ミルク色の海」に彷徨う様が書かれる。そうして極限の人間状況が示されるのだが、何とも不気味な読後感を持った。だが、コロナ禍の現在にそれを重ねると、我々は何か、形の無い得体の知れぬ魔の手に捉われ、いつ解き放たれるか分からない、そんな思いを禁じ得ない。いつまでこれに引き回されるのであろう。

     

    承前。ある読者には、政治家に対するわが論評が、しばしばきつ過ぎると見る向きがあるかも知れない。しかし、それは当然である。彼らは、予算権、執行権を持ち、そこでは納税、兵役義務さえ課すのである。つまり、国民は、労働の結晶である財産を徴収されるばかりか、進んで命を投げ出す事さえ強要される。それに抵抗する者は拘束され、懲罰を喫する。しかもそれらは、強大な官僚機構と有無を言わさぬ絶対的な警察権力に支えられており、単なる脅しや、空理空論の権限ではない。実質的な強力である。仮に、それらの執行力が不十分であれば、必要な法改正までなしうる強大な権限まで手にしている。これを称して、筆者は権力と言う。国民は彼らにそうした権力を与え、自らの生活の一部を自主的に犠牲にしながら、彼らの主張する政策課題の遂行を支持し、受け入れ、時には耐えるのである。

    彼ら政治家とは、いかなる人間か。自らに与えられる権限の巨大さを知り、それだけに己の背負う課題や責務の大きさを自覚していなければならない。彼らの向き合うのは、国民の生命、財産の保全、国家全体の平安であり、防衛である。それが徒や疎かにできないことは、当然である。彼らはそれほどの難題を眼前にしているのである。それを十分承知の上で、彼らは自ら進んでそれを引き受けようとするのである。それが立候補の意味であろう。繰り返す。国民が彼らに懇願しているのではないのである。

    であれば、彼ら政治家が、国民に公約した政策の完遂に、全力を注ぐのは当然ではないか。それを殊更、「シッカリ」進めるなぞ言うべき事ではない。それが出来なければ、まず謝罪し、理由を説明し、取るべき責任を負わなければならない。政治は単なる約束ではない。約束した事柄をなし遂げると言う、結果責任をこそ負わなければならない。

    この基準に照らせば、現在の政治家の面々はどうであろう。自分たちはこれだけ一生懸命に取り組み、あれこれ成果を上げたと言い募り、課題に正面から向き合わず、言い訳、ハグラカシ、あるいは同じことを、恥も外聞もなく繰り返し、ついに逃げ切るばかりではないのか。あまつさえ、総理に至っては、報道関係者の質問を無視し、批判されればメモ読みか、「言質を取られないよう、不明瞭な、責任回避の言葉遣い」に終始し、「怒気」さえ露にするとはどういう事であろうか(朝日新聞8/18。多事奏論)。

    総理の発信力の問題は、多方面から寄せられている。「私が最も不満に感じるのは、政治家が国民を納得させる言葉を発信していない点です。他者が見えていないから説得すべき言葉もない。政治決断をする以上、反対者に向けた説得の言葉が不可欠です。今の政治には、それがあまりになさすぎる。五輪への対応もコロナ対策も、すべて同じです」(朝日新聞8/17・京都大学大学院教授・佐藤卓己)(以下次回)。

  • 8月13日・金曜日。雨。九州、中国地方の豪雨被害に目を覆う。しかも、こうした惨害がもはや驚きの対象ではなく、日常の光景になっていることが痛ましい。異常気象は世界的であり、人類はこれを克服できるのか。残された時間は僅か、とはIPCC(気候変動政府間パネル)の直近の報告である。

    8月16日・月曜日。雨のち曇り。前回の文章に手を加え、より明確にした心算である。なおここで、朝日新聞の朝刊一面(8/13・金)に黒々と掲げられた大見出しだけでも記し、前回の文章の補足としたい。それは、「東京 感染「制御不能」」、「「医療機能不全」「自分で見守る段階」」、とある。できれば、同記事を一読願えれば、国民の置かれている現状は、もはや「救える命が救えない事態」に追い込まれていることが、理解されるであろう。そして、皮肉を言えば、「自助・共助・公助」なる総理のお言葉通りの展開をたどり、今や最後にチョイト添えられた「公助」そのものが、消滅寸前にあることもお分かりになるであろう。

     

    承前。コロナ疫病の爆発的な感染が止まらない。しかも変異株は多様になり、強毒化が進行している。ワクチンの防御機制をすり抜ける株もあると言う(ジャパンタイムズ8/11より)。この事実に狼狽えた政府は、この度、従前の政策を取り止め、中等症以下の患者は自宅療養とするとの政策変更を、突然打ち出した。重症患者用のベッドを確保するためだが、それが如何に危険であるかは、多くの医療者の指摘するところである。事実、軽症者が自宅で突然重症化し、死に至るケースも少なくない。これは、もはや命の選別であり、政府がコロナ蔓延を制圧できなかった証である。「政府の失策を国民に押し付けることは、絶対にゆるされない」(朝日新聞8/10・一読者の声)との憤りは、当然であろう。
    こうなることは、変異株が取りざたされた頃から分かっていたはずだ。世界やわが国では大坂などの事例から、事態がどう推移するかは、十分推察できた。しかも総理は、最初の所信声明演説で「爆発的な感染は絶対に防ぐ」と大見えを切っていたではないか。それが、Gotoトラベル初め五輪開催に気を取られ、政治のまず目指すべき「国民の安全・安心」な生活は危殆に瀕した。総理にとって、第一の政策課題は何であったのか。折しも、「コロナ下の首相 菅氏に任せて大丈夫か」(朝日新聞・社説・8/11)との痛切な批判が出された。

    これについては、都のコロナ対策も厳しく指弾されなければならない。五輪は感染に関係無いのか、との記者の質問に、都知事は事もなげに言い放つ。テレビ観戦が人流を抑制している。スタジアムの周りを数えて見よ。何万人もいない、と。東京都民局長にいたっては、感染不安を煽るなとメディアに訴え、さもこの度の感染を殊更軽視した発言があった。だが、これにはすかさず、こんな鉄槌が下される。

    どこ逃げた「不安あおるな」言った人  岡 順二(朝日川柳・8/14)

    しかし、局長氏の願いもむなしく、都内での感染者数は日々更新され、本日(8/13)は5773人に達する。ちなみに、全国感染者数は20400人と、初の2万人台を超えた。政権や都行政の罪は、ただ単に不要不急の外出自粛を呼びかけ、宣言や蔓延防止を発するのみで、真に効率的な対策を取らなかったことである。国会を閉じたままで、必要な法整備を怠り、貴重な財源、・資源を五輪に振り向け、やがて迫る感染爆発に備えた施設の整備、機器備品の充実、看護体制の拡充を蔑ろにして来たことである。その結果が、命の選別を強いるような自宅療養制度を余儀なくしたのであった。

    総理も知事も、五輪と感染拡大とは無関係であり、むしろ自宅でのテレビ観戦が感染の歯止めになっていると言い張る。だが、これは単なる詭弁に過ぎない。事柄の因果の連鎖はそれほど単純なものでは無い。であるならば、何故、これ程の感染爆発が生じたのか、今なおそれは続いているのか。それを明確に説明しなければなるまい。確かに、五輪関係者総数からみたその発症者数は、ごく僅かであり、五輪によって患者数が増加したとは言えないように見える。だが、そこに割かれた莫大な資金や人員その他が、コロナ対策の取り組みを不十分にしたとの非難は免れない。また開催が人心を浮き立たせ、感染を引き出した面もある。つまり、行政のメッセージはここでも矛盾しているのである(以下次回)。

  • 8月11日・水曜日。晴れ。

     

    「異形の五輪」(朝日新聞より)がおわった。異形とは、コロナ感染者の激増と共に、医療現場の崩壊が迫るその最中での熱戦が、まるで別世界のように展開され、一方で興奮と陶酔の喚起が、他方では感染の恐怖を呼び起こす。解放と自粛がないまぜになり、国民感情は分断されたからである。同時に広島・長崎では平和祈念式典が持たれた。そこでの総理の重なる失態が、五輪への異常な執着と重なり、「異形」の度はさらに増した。

    こうして、平和の祭典であるはずの五輪が、国論を二分する。だから政府は、五輪の成功を声高に強調しなければならなかったのだろう。真に祝福されたものであれば、わざわざ成功を言い募るまでも無いからだ。

    報道によれば、閣内でも総理に対し、五輪の中止を進言する閣僚がいたようである。それに対し、中止が一番楽だ、と言いながら、これを拒否して開催に突き進んだらしい。その唯一の頼みは、ワクチンへの期待であり、接種の進捗であった。つまり、これに全てを託してのことだが、これは言わば、「国民の健康を「賭け」の対象」(朝日新聞・8/9・社説)したようなものである。こんな事が許されるはずもない。

    しかもである。その後の止まらぬ変異株の出現と強毒化によって、今に至るも、ワクチンの効能は確定されてはいない。3回目の接種が取り沙汰されていること自体が、これを証明する。こんなことで、国民の生命を守ると言う、総理の毎度の決意は果たされているのであろうか。

    果たして、最近の世論調査(朝日新聞・8/7,8実施)では、「菅内閣支持28% 最低」・「五輪開催「よかった」56%」(同8/9(月))と出た。まさに国民の意識や感情の分断は、明らかであり、身もだえしているようではないか。同時に総理の統治能力が問われているのである(以下次回)。

  • 8月6日・金曜日。晴れ。炎暑の中、コロナ感染者の増加は続き、首都圏の医療崩壊が迫る。

     

    前回見た夏野氏の発言については、まだ言及すべき点は多々あり、本日、引き続いて取り上げる心算であった。しかしその内容があまりに愚劣に過ぎ、嫌気がさすのに加えて、筆者にとって論ずべき重要な問題が次々生じ、ここでは2点を指摘し、これで終わりにしたい。その1は、氏にとっての選挙とは数さえ揃えればいい話で、そんなものは「アホな国民感情」を上手く騙せば、ドウにでもなるとお考えのようである。何故って、「誰かが金メダルを取ったら雰囲気」が変わるような、そんな他愛の無いものなのだから。ここには、民意の総意を示す選挙に対する敬意のカケラも無い。これ程までに「国民感情」を舐め切ったればこそ、同氏はこれを「アホな」と侮蔑できたのであろう。

    その2は、この度の大会組織委員会とは、一体、いかなる人々によって構成されているのであろうか。森前会長以来、人を侮辱し、批判を浴びるまで何とも思わぬ面々が続出し、そんな彼らを必死に守り抜こうとする委員会とは、どのような会議体であり、何を議論してきたのであろう。森氏の例の発言が、会議では何の違和感もなく、むしろよくぞ言った、あるいは笑い話の一つとして済まされたであろう事は、推察に難くない。

    「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポ-ツを役立てることである」と、『五輪憲章』に謳われているようだ。だが、「人間の尊厳」や「人類への調和」が一度でも、委員会の真面目な議題になったのであろうか。確かに、建て前と本音の乖離は日常茶飯であるにしても、理想や理念を単なる飾り物以下にしか見ない、組織委の一連の事態はあまりに無様である。それが国家の責任のもとで推進される会議体でのことであり、その臆面の無さはどうであろう。日本とはこうした国であると、全世界に晒したのである。それらを日本国民として負わねばならぬ恥辱を、どう晴らしてくれようと言うのであろう(この項、終わり)。