2021年7月9日

7月9日・金曜日。雨。

 

2週間後に迫った東京オリンピックが、国民の心を千々に引き裂いている。実に不幸な話だ。先ずは、わがアスリートたちを応援し、世界の選手たちの健闘を称える。こうして、世界が心を一つにして大祭典を開催できる平和を喜び、その永遠を祈念するはずのオリンピックが、国内を分断しているのでる。誠に、異常であり、奇怪な事態と言うほかはない。前総理が、オリンピックの反対者は非国民だとまで言い放った事自体、その異様さを示していよう。それだけ根強い大きな反対がある証拠であり、彼はそれに怒りを覚えたのだろうから。

ある式典を祝うか否かは、全く個人的な事柄であるに違いない。国がこう決めたから、全て従えと言うのは、個人の内面の世界に対する侵害であり、全体主義国家の行状である。日本はいつからそんな国になったのか。そもそも、国民が心から支持した祭典であれば、自発的に、自然と祝福されるだろう。57年前のオリンピックはまさにそうであった。前総理がこれほど激越な言を吐かなくとも、国民はこの慶事を進んで祝ったのであろう。

では、何故、そうならないのか。元凶はコロナであるが、政治の意思決定の不決断であり、一貫性を欠いたことが、国民の不安と不満を呼び、それがオリンピックそのものに向けられたのであろう。よってこれは、明らかに政治的統治の失敗であり、人災である。国民は、事もあろうに開催国ニッポンで、一年以上もたちながら、未だコロナの惨害を目の当たりに見せつけられ、その収束の目途もつかない状況に慄いているのである。この間、生計の道を絶たれた人が多い反面、政治的な支援を得られそうな職域やうまく立ち回った人々は経済的な利益を上げると言う不平等も発生しているらしい。

オリンピック開催に絡む不安はあまたある。コロナ禍における自分や家族、その他の親しい人たちの感染の恐怖、医療崩壊に発する通常の医療の停滞、世界から訪れる選手団の感染、それが世界に拡散されるかもしれない恐怖、アスリートファーストと言われながら、それを全く無視した競技時間や競技時期の決定は、ただ単にIOCと米国はじめ世界のスポンサーとの金銭目的から来たらしいとの噂さなどなどである。だからか、それを隠蔽するためにも、殊更にアスリートファーストと言わなければならなかった。

さらには、最近の異常気象は、各地に予想もつかない惨事を招き寄せ、現に熱海をはじめとした惨害に苦しむ人々が後を絶たない。そうした人たちの悲痛を知りながら、それらを無視して、オリンピックを心から楽しみ、祝福できるような気持になれるのか、と言った事情も、今年は重なる。あたかも、身内に息絶え絶えの病人を抱えて、祝儀を祝えと言っているようではないか。そうした悲惨を抱えた人々が何故、非国民と面罵されなければならないのだろう。

そして最後に、こうした国民の懊悩の中、現にプレイする選手たちの心情こそ哀れである。自分の競技、その勝利が人々に心から祝福を得られるのか、それを思うと、怖い気がする、と言った一選手の言葉が記事にあったが、多くのアスリートの心情では無いのか(この項、終わり)。


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