• 5月16日・月曜日。雨。本日より5/6(金)の論題に戻る。

    5月18日・水曜日。晴れ。

     

    今となっては旧聞ということになるが、先月の4月22日辺りであろうか、「露軍はウクライナ南部沿岸の全域を確保する予定だ」と、一将軍が口走ったひと言は改めてモルドバの恐怖を煽った(ニューヨークタイムズ4/25・月)。欧州でも「最貧国の一つ」と言われ、大統領自身「我われは脆弱な地域における脆弱な国である」と認める、地政学的にも危うい地域の小国である。であれば、ソ連邦時代においても強大な圧政に苦しみ、何とかその軛を逃れようと、様ざま努力をしてきた。最近のEU加盟の計画もその表れの一例であった。

    2月末以来の、ロシアの残虐を見せ付けられた上での、この一言である。モルドバ政府が震撼させられるのも当然である。他方、ロシアのモルドバ侵略の意図は、いまや明白である。クルミア半島を含めたウクライナ東北・南部からモルドバの一部であるトランス二ストリア地域―ウクライナ西南部に接し、ロシア語人民による分離独立を狙い、ロシアに支配されている地域である―までの巨大な陸橋を造って、これをロシア化することである。かくて、ウクライナは黒海から遮断され、世界貿易への道を失い、内陸国家として実質的にロシアの属国とならざるを得ない。

    ロシアのそのための一歩は、すでに世界がよく知るあのやり方である。記事は伝える。ロシア陸軍少将、ルスタム・ミネカイェフは、「ウクライナ南部のロシア支配は、トランス二ストリアにとっても一つの解決策だ。そこでは、ロシア語を話す人々が弾圧されている事案があるからだ」と言った。その頃、同地方で何件か分けのわからぬ爆破事件の映像があったことを、ご記憶であろう。

    これにはさすがに、モルドバ政府も黙過できず、ロシア大使を呼びつけ、少将の言は「受け入れられないばかりか、事実無根であり、緊張の増加を来す」と抗議した。他に政府は、ロシアのウクライナ侵攻に対する非難声明をだすと共に、モルドバ国民には乗用車に親ロシアを示すシンボルの装着を禁止している。

    だが、当局の抵抗もここまでである。EUのロシア制裁には加われなかった。ここには安全保障上の問題ばかりか、電力および天然ガスのエネルギー問題も大きく影を落とす。例えばこうだ。主要発電所、ガスポンプ所は、ソビエト時代にトランスニストリアに建設されたが、この意味は地図を見ただけでは分からない。「それらは、モルドバが、万が一にも自立の道を歩むことがあっては、との危惧からそこに建てられたのである」。つまり、モルドバ側が少しでも反ロシア的な態度をとれば、即座に電力、エネルギーを遮断するとの警告であったのだ。これを知るにつけても、当地はすでに、ソビエト連邦時代から親ロシア住民を計画的に入植させ、モルドバのロシア離脱を阻止する鎖として位置付けられていたのである。

    であれば、同国の独立とEU加盟はほぼ絶望的であり、せいぜい軍事的、政治的中立性を目指すほかはなかったろう。しかし「この中立性がわが国の安全性を守るのかどうか、と訊かれれば、それは分からない。中立はこの30年を経てもなお、ロシアを説得してわが国から軍隊を遠ざける助けにならなかったのである」。これはサンデュ大統領の悲痛な叫びであるが、世界はこれと同じ言葉をフィンランド、スウェーデンのトップが発していたのを、昨日聞かされたのである。世界の懊悩は深まるばかりである(この項、終わり)。

  • 5月9日・月曜日。曇りのち雨。

    5月13日・金曜日。雨。前回を大幅に書き換えた。

     

    今回は、急遽、本筋から外れて、前回の馬渕氏の発言を筆者なりにケリをつけておきたい。同氏の「ロシア軍が掌握していた間、暴力行為に遭った(ウクライナの)住民は一人もいない」との発言は、いかにも異常であり、これをこのまま放置するには問題がありすぎると思うからである。これについては、とりあえず2点を言いたい。その1は,失礼ながら、氏はすべてを承知の上で、虚言を弄しているのだと仮定してみる場合である。とすれば、筆者はそれによって、氏は何か利益が得られるからではないか、といった程度には理解できる。そして、事の良し悪しはともあれ、同氏の行動はそれなりに納得できる。

    これに対して、その2は、彼が真心から、真剣にこれを主張しているとすれが、どうか。この場合、筆者は途方に暮れる他はない。彼をどう考え、いかに理解し、対応すべきか、といった筋道が絶たれて、彼に対して宙吊りにされるからである。なんと言っても、氏は外交官で、防大教授を歴任された方である。であれば、この件について我われ以上の情報量を持ち、それを咀嚼しうる知性も、十分お持ちであろう。その彼が、ウクライナの惨状とその経過に関する膨大な量の映像と情報を目の当たりにしながら、それはウクライナ軍、警察、当局の仕業だと、堂々と断言するのである。

    ロシア軍の侵攻の原因は、ロシアの安全保障上の問題によるとか、その他種々言われるにしろ、この度のウクライナの惨劇はロシア軍によるものであることは、国連決議に見るように、世界が認めており、ロシアの盟友・中国ですらこれを正面切って否定できないのが現実である。またわが国では、プーチンと4回会談してその人柄にほだされたのか、彼を「人情家」だと称賛して止まない、あの鈴木宗男参議院議員も、ロシアによる今回の侵攻は認められないと指弾しているのである(『アエラ』′22・3/14)。

    こうした事実を並べてみると、馬渕氏の発言は、ロシア軍の侵攻によるウクライナ市民への惨劇そのものを、明確に否定している点できわめて特異であり、何か常軌を逸しているように見える。その点で、筆者は何か言いようのない不気味さを覚える。

    馬渕氏がなぜこのような主張をするのかは、それが意図的な嘘ではなく、むしろ真剣なものとすれば、筆者には全く不明であるが、ここでは一つ、こんなことが思いつく。もしかしたら、我われ人間の認識には、ただ単に頭の良しあし、さらには偏りのない情報をいくら手にしても、それらとは関係のない、それ以上のなにか別の要因が作用しているのではないか、と。

    思うにそれは、自分の見たい、聞きたい情報のみを受け入れるという、偏向のようなものであろうか。情報機器の進歩とネット社会の到来により、我われは今や誰でも公平で幅広い情報をいつでも手に入れられるようになった。それにも関わらず、あるいはそれであるが故に、偏った情報で満足でき、批判的で不都合な情報は排除して、自分たちにとって快適な情報網の圏内で完結してしまうという、何とも皮肉な現象に直面しているのであろう。さらには、そうした集団が膨大な支持者を獲得すれば、政治力を持ち、政党を支配し、やがては国家の政策や経済をも決定するという、そうした社会を出現させる。というよりも、我われはそのような社会を、米国のトランプ氏の出現とその陣営の席巻という形で、目の当たりにしているのではないか。そこでは、誤解の余地のない、明々白々の事実を、あっさりとフェイクだと切り捨て、自分たちにとって都合の良い現象のみを事実として押し広げ、それを真実として押し通してしまう力さえある。これは実に危険な社会ではないか。それはまた、プーチンの支配している社会とどう違うのであろう。

    これは文明の発展が、より一層野蛮で、凶暴な社会を生んでいる一例である(以下次回)。

  • 4月27日・水曜日。曇り。前回の文章かなり修正、加筆した。

    5月6日・金曜日。晴れ。唐突ながら、読者は次の発言にどう向き合われるだろうか(朝日新聞5/3・火)。「毎日毎日、プーチンの悪口ばかり。最近はブチャで虐殺したと。あれ、虐殺したのはウクライナの軍、警察当局、治安当局ですよ。」「ロシア軍が掌握していた間、暴力行為に遭った住民は一人もいない」。こう説く御仁は馬渕睦夫氏といい、かつて駐ウクライナ大使を務め、防衛大学教授も歴任した方とある。情報が閉ざされたロシア人ではなく、わが国の歴とした外務官僚の発言であるだけに、息をのむほどの衝撃を受けた。さらには、氏を支持する人々も少なからずいると聞くにおよんでは、何かこの社会の底にある、得体の知れない病理を見せつけられたような気にもなる。

     

    前便では、ロシアのウクライナ侵攻は、文明論的な闘争などといったきれい事ではなく、ただ「領土的野心」に発したものだと言って話を終えた。その直後、筆者のこの断定を追認するようにして、ニューヨークタイムズ(4/25)が「恐怖、プーチンの次なるターゲットか」の記事によって、モルドバの恐怖と困惑を報じた(なお、その2日後の4/27・(水)に朝日が「モルドバ国境 高まる緊張」を伝えている)。これを読む限り、「ウクライナの戦争は始まりであり、その敗北は欧州全域におよぶ」というゼレンスキーの再三の悲痛な叫びは、世界に軍事的支援を求める彼の単なるレトリックではなく、現実性を帯びた「予言」として受け取るべきか、との思いに駆り立てられる。

    西にルーマニア、他の三方をウクライナに接するモルドバは、国土、約3.4万㎢、人口400万人弱、果樹・農業を主体とする小国であり、トルコ、ロシア、ソ連に翻弄される歴史を持つ。特に近年では、ソビエト連邦下でかろうじて「自治共和国」を許されたが、実態はソ連邦の衛星国の一つであることに変わりなく、ソ連邦崩壊の1991年に漸くモルドバ共和国として独立するにいたった。とは言え、国家としての脆弱性は変わらぬまま、今日にいたるのである(以下次回)。

     

     

     

  • 4月18日・月曜日。雨。この2,3日の気温の変化に対応できず、昨日、一日臥せた。幸い事なきを得て、本日出社におよぶ。先週は別の仕事もあって、休載したが、それ以上にウクライナの日毎の惨状に当方も疲労し、また何をどう書くべきか途方に暮れていた面もある。

    4月20日・水曜日。曇り。
    4月22日・金曜日。晴れ。本日、プーチンに向かって、ウクライナから解放してくれた、と笑顔で感謝する少女のテレビ映像を見た。恐らく、ロシアのお子さんであろうが、いずれ真相を知れば、彼女は折に触れ、あの時、自分もまた知らずに戦争に加担した、と生涯にわたって罪悪感に苛まれることはないのかと、気になる。これは、まぎれも無く、大人の罪である。

    現在のウクライナ侵攻は何故生じ、なぜ抑止できなかったのか、今後の世界はどうなるか等々についてあれこれ思い、テレビ、新聞報道を見るが、ロシアの一方的な攻撃と、その恥しらずな白々しい言い訳に怒りが募るばかりで、この問いにいまだ、まともに向き合ったこともない。ただ、筆者の中ではっきりしている事は、ロシア側にいかなる理屈があろうとも、核や巨大な武力を背景に小国に対し己の意思を押し通し、従わなければ殲滅するような行動に対しては、何処までも反抗し、戦わなけれねばならない。世界はそうした大国の横暴に対し、連帯してその野望を挫かなければならないということである。そうでなければ、暴力だけが支配する世界となり果てる。いや、世界は今やそうした状況にあり、むしろ今日に至るまで、そうでない時代はなかったと言うべきなのかもしれない。とすれば、正義とは強者のものであり、世界史はその証ということになりかねない。
    こうした何とも言いようのない思いのさ中、ロシアの映画監督・コンチャロフスキー氏の記事を読む(朝日新聞4/15夕刊)。「親愛なる同志たちへ」の作品によって知られる同氏は、実話に基づいて、スターリン時代の共産党員であり、市政委員の職にある一婦人が国家に幻滅し、「精神的な破壊」にいたる「人間存在」の悲劇を描いた。ここでは物価高騰、賃金カットに喘ぐ労働者らのデモに対し、あろうことか軍が実弾を発砲し弾圧する。資本主義にたいしてはるかに勝ると言われる社会主義国家において、かかる暴挙が平然と行われたのである。こうした国家に対する失望、幻滅は、「戦争中に日本人も経験したことだろう」とは、同氏の言葉である。
    言われるように、国家対個人の軋轢、国家による弱者の抹殺、弾圧は、深刻にして普遍的な問題である。それゆえ、それがどこの国の事例であろうと、世界のだれに対しても深く訴える力を持つ。最近では、中国官憲の香港市民やミャンマー国軍の国民への凶暴が世界を震撼させたのは、その一例である。優れた芸術作品とは、その内容がいかに特殊で、個別的でも(江戸時代の一市民の悲しみ、喜びでも)、そこに人間の本質を深く、広くとらえたものであれば、どの時代の、誰に対しても共感と感動を呼び起こすものであることは、間違いない。つまり、この限り、同監督は、人間の普遍性を認めているのである。であれば、同氏の次の発言は、どう理解すべきであろうか。
    同氏は現在のウクライナ情勢に対する所感を、朝日の記者から問われて、こう答える。「西欧と東欧の対立は何世紀にもわたる古い問題だ。西側のリベラルな哲学に誘惑されたウクライナ人に深い同情の念を抱いているが、彼らは東欧の人間で西欧の人間とは違う」と前置きした上で、続ける。「今起きているのはロシアとウクライナのコンフリクト(衝突、紛争)ではなく、ロシアと米国のコンフリクトだ。ウクライナ人はその犠牲者なのだ」。
    筆者はこの言明に、絶対的に反対する。まず、現在のウクライナ人の悲惨は、文明論的な対立などと言うきれい事などでは微塵もない。これはただ、単に虚妄に取り付かれた独裁者が巨大な暴力を奮って一方的に侵略した結果である。試しに、プーチンは現に起こっているウクライナの全ての惨状を、ありのままロシア国民に開示してみよ。そして、国民にこの惨事の是非善悪を判断させることだ。その時、露国民は自国軍の凶暴と残虐とに恐れ、これらの惨禍は、プーチンの理想の実現のために払われなければならない犠牲であったのかと、深く自問するに違いない。
    次いで、ゴンチャロフスキー氏に伺いたい。貴方は真に人間の普遍性を認めておられるのか。ウクライナ人がリベラルな西欧哲学への憧憬を抱くことが、なぜ「深い同情の念」の対象にならなければならないのか。ここには、そんなものに「誘惑された」哀れな奴ら、と言う蔑視の視線を感ずる。その意味で、筆者は貴方を真の芸術家とは認めない。
    だが、たとえウクライナ人が東欧の人間であり、西欧文化圏の外にあろうと、個人の人権、自立、自由を承認するギリシャ哲学由来の西欧的な世界観を、彼らは自らの信条として、なぜ受け入れてはいけないのだろう。それはならぬと、個人はおろか国民に対して主張するとは、何とも強権的、弾圧的なことではないか。しかし、そうした弾圧にもかかわらず、そこに揺るぎない真理性、合理性があるならば、我われ東洋人でも、これを受け入れるのに躊躇しない。それに対して権力がいかなる強権を振ろうとも、真理はついにこれを突破し、人間社会に広く普及すると信ずる。それは、科学的真理が現在地球上にあまねく受け入れられているのと同じである。それを、お前たちは俺たちを見捨てて、西欧に走ったと、この度のような残虐を加え、そうした暴挙を認めるとすれば、プーチンのみならず、これを支持する者たちもまた、狂気に捕らわれたものだと断ずる他はない。
    要するに、ゴンチャロフスキー氏のロシア侵攻のいかなる弁明、正当化も、すべてむなしい。それに対して、ソビエト連邦崩壊後、NATO圏の東方拡大がプーチン及び露国民の安全保障上の恐怖を呼び、それが原因となって、この暴挙を惹起したのであろうという解釈がもっとも分かりやすい。だが、現実に起こってもいない恐怖をもとに、こんな残虐が許されてはならない。そもそもロシアのような強国を、一体どこが侵略するというのか。さらに、こうなる以前に、ロシアがもしそれほどに安全保障上の深刻な不安、危険を感じていたのならば、そのことを世界に発信し、国連の場において粘り強く外交努力をすべきであったのである。その努力を欠いた侵攻は、単なる領土的野心に発したものとしか考えられないのである(この項、続く)。

  • 4月6日・水曜日。晴れ。

    4月8日・金曜日。晴れ。

     

    この2,3日の寒さは何だったのか、と言ってやりたいような陽気である。お陰で、日曜日は風邪気味で1日寝込み、ために当日の歩行数は零歩であった。これで、今月の一日平均9千歩の達成はダメになった。残念。だが、こんなたわいのない愚痴が言えるのも、戦火を免れた平和な日々のゆえである。

    これに対してウクライナから伝えられる惨状は、世界を震撼させた。連れ去られた兄を探していた婦人は、顔の判別もつかないほど銃床で殴打され、体を切り刻まれた遺体の着衣からそれと知った。そうした死体を道路に何体も放置したまま、露軍はキーウを撤退したと、朝日新聞は伝える。あるいは、掘られた窪地に放り込まれて、表に見られる手足の絡まりあいから、その底にある遺体の重なりが想像できるとは、昨日のニューヨークタイムズの記事(4/5)であった。言っておくが、この犠牲者たちのほとんど全員が、子供を含む武器を持たない民間人である。

    筆者はこれらをただ活字を通して知るばかりだが、これを目の当たりにする住民たちの悲痛は想像も出来ない。しかも、ここで伝えられる惨劇は、ただその一部に過ぎないだろう。その背後には無数の非道と虐待があったに違いなく、それらを直接、間接に知ったすべてのウクライナ国民の悔しさ、怒り、そして復讐心は百年単位で残るであろう。

    そうした隣国の憤激、怨念を、ロシア国民は今後長きにわたって背負わざるをえまい。我われ日本人が、今なお隣国からのそのような感情、非難を負わされていると同じように。同時に、今回の侵攻の現状を知るロシア国民は、自身の国家が犯した重大な戦争犯罪に向き合い、痛切な贖罪の意識を心中深く刻まれるに違いない。自国の指導者、正規軍が、世界から凶悪な戦争犯罪人扱いされ、さらには「悪魔」呼ばわりされるほどの残虐を、ウクライナ全土で倦むことなく繰り返しているのである。これでどうして、自国に対する自信と矜持を持ち得よう。そして、彼らは知るであろう。このような犯罪国家を長期にわたり存続させ、批判できなかったことは、結局は国民自身の罪でもある、と。ロシアの再生、再建はそのような国民の声と祈りがどこまで国内に届けられるかに掛かっているのではなかろうか。

    最後に、筆者は言いたい。現ロシア政府の不誠実さには、どう対峙すべきなのであろう。彼らには、いかなる言葉も無力であり、結局は武力しかないのかと、暗澹とさせられる。それは過日の国連安保理で行ったゼレンスキー演説(4/5)に対するネベンジャー露国国連大使の言葉のうちに端的に表されていよう。彼は世界に向かって、平然と、臆することなく言い放ったのである。ゼレンスキーの「ロシア軍に対する非難は、目撃者の証言に裏付けられたものではない。…長い間、黒を白と呼び、その逆もしかりとしてきた欧米だけが、このフィクションにだまされている。」ウクライナの軍事侵攻は「ナチの悪性腫瘍を取り除く必要」からであったのだ、と。

    この言葉はウクライナ国民を二重、三重に打ちひしぐ。一つは、非道な暴力行為によって、もう一つは己のなした暴虐を全く認知せず、正当化するという意味で。それはまた、同じ意味において、世界中の人々の心を逆なでして止まない。