2022年04月18,20,22日

4月18日・月曜日。雨。この2,3日の気温の変化に対応できず、昨日、一日臥せた。幸い事なきを得て、本日出社におよぶ。先週は別の仕事もあって、休載したが、それ以上にウクライナの日毎の惨状に当方も疲労し、また何をどう書くべきか途方に暮れていた面もある。

4月20日・水曜日。曇り。
4月22日・金曜日。晴れ。本日、プーチンに向かって、ウクライナから解放してくれた、と笑顔で感謝する少女のテレビ映像を見た。恐らく、ロシアのお子さんであろうが、いずれ真相を知れば、彼女は折に触れ、あの時、自分もまた知らずに戦争に加担した、と生涯にわたって罪悪感に苛まれることはないのかと、気になる。これは、まぎれも無く、大人の罪である。

現在のウクライナ侵攻は何故生じ、なぜ抑止できなかったのか、今後の世界はどうなるか等々についてあれこれ思い、テレビ、新聞報道を見るが、ロシアの一方的な攻撃と、その恥しらずな白々しい言い訳に怒りが募るばかりで、この問いにいまだ、まともに向き合ったこともない。ただ、筆者の中ではっきりしている事は、ロシア側にいかなる理屈があろうとも、核や巨大な武力を背景に小国に対し己の意思を押し通し、従わなければ殲滅するような行動に対しては、何処までも反抗し、戦わなけれねばならない。世界はそうした大国の横暴に対し、連帯してその野望を挫かなければならないということである。そうでなければ、暴力だけが支配する世界となり果てる。いや、世界は今やそうした状況にあり、むしろ今日に至るまで、そうでない時代はなかったと言うべきなのかもしれない。とすれば、正義とは強者のものであり、世界史はその証ということになりかねない。
こうした何とも言いようのない思いのさ中、ロシアの映画監督・コンチャロフスキー氏の記事を読む(朝日新聞4/15夕刊)。「親愛なる同志たちへ」の作品によって知られる同氏は、実話に基づいて、スターリン時代の共産党員であり、市政委員の職にある一婦人が国家に幻滅し、「精神的な破壊」にいたる「人間存在」の悲劇を描いた。ここでは物価高騰、賃金カットに喘ぐ労働者らのデモに対し、あろうことか軍が実弾を発砲し弾圧する。資本主義にたいしてはるかに勝ると言われる社会主義国家において、かかる暴挙が平然と行われたのである。こうした国家に対する失望、幻滅は、「戦争中に日本人も経験したことだろう」とは、同氏の言葉である。
言われるように、国家対個人の軋轢、国家による弱者の抹殺、弾圧は、深刻にして普遍的な問題である。それゆえ、それがどこの国の事例であろうと、世界のだれに対しても深く訴える力を持つ。最近では、中国官憲の香港市民やミャンマー国軍の国民への凶暴が世界を震撼させたのは、その一例である。優れた芸術作品とは、その内容がいかに特殊で、個別的でも(江戸時代の一市民の悲しみ、喜びでも)、そこに人間の本質を深く、広くとらえたものであれば、どの時代の、誰に対しても共感と感動を呼び起こすものであることは、間違いない。つまり、この限り、同監督は、人間の普遍性を認めているのである。であれば、同氏の次の発言は、どう理解すべきであろうか。
同氏は現在のウクライナ情勢に対する所感を、朝日の記者から問われて、こう答える。「西欧と東欧の対立は何世紀にもわたる古い問題だ。西側のリベラルな哲学に誘惑されたウクライナ人に深い同情の念を抱いているが、彼らは東欧の人間で西欧の人間とは違う」と前置きした上で、続ける。「今起きているのはロシアとウクライナのコンフリクト(衝突、紛争)ではなく、ロシアと米国のコンフリクトだ。ウクライナ人はその犠牲者なのだ」。
筆者はこの言明に、絶対的に反対する。まず、現在のウクライナ人の悲惨は、文明論的な対立などと言うきれい事などでは微塵もない。これはただ、単に虚妄に取り付かれた独裁者が巨大な暴力を奮って一方的に侵略した結果である。試しに、プーチンは現に起こっているウクライナの全ての惨状を、ありのままロシア国民に開示してみよ。そして、国民にこの惨事の是非善悪を判断させることだ。その時、露国民は自国軍の凶暴と残虐とに恐れ、これらの惨禍は、プーチンの理想の実現のために払われなければならない犠牲であったのかと、深く自問するに違いない。
次いで、ゴンチャロフスキー氏に伺いたい。貴方は真に人間の普遍性を認めておられるのか。ウクライナ人がリベラルな西欧哲学への憧憬を抱くことが、なぜ「深い同情の念」の対象にならなければならないのか。ここには、そんなものに「誘惑された」哀れな奴ら、と言う蔑視の視線を感ずる。その意味で、筆者は貴方を真の芸術家とは認めない。
だが、たとえウクライナ人が東欧の人間であり、西欧文化圏の外にあろうと、個人の人権、自立、自由を承認するギリシャ哲学由来の西欧的な世界観を、彼らは自らの信条として、なぜ受け入れてはいけないのだろう。それはならぬと、個人はおろか国民に対して主張するとは、何とも強権的、弾圧的なことではないか。しかし、そうした弾圧にもかかわらず、そこに揺るぎない真理性、合理性があるならば、我われ東洋人でも、これを受け入れるのに躊躇しない。それに対して権力がいかなる強権を振ろうとも、真理はついにこれを突破し、人間社会に広く普及すると信ずる。それは、科学的真理が現在地球上にあまねく受け入れられているのと同じである。それを、お前たちは俺たちを見捨てて、西欧に走ったと、この度のような残虐を加え、そうした暴挙を認めるとすれば、プーチンのみならず、これを支持する者たちもまた、狂気に捕らわれたものだと断ずる他はない。
要するに、ゴンチャロフスキー氏のロシア侵攻のいかなる弁明、正当化も、すべてむなしい。それに対して、ソビエト連邦崩壊後、NATO圏の東方拡大がプーチン及び露国民の安全保障上の恐怖を呼び、それが原因となって、この暴挙を惹起したのであろうという解釈がもっとも分かりやすい。だが、現実に起こってもいない恐怖をもとに、こんな残虐が許されてはならない。そもそもロシアのような強国を、一体どこが侵略するというのか。さらに、こうなる以前に、ロシアがもしそれほどに安全保障上の深刻な不安、危険を感じていたのならば、そのことを世界に発信し、国連の場において粘り強く外交努力をすべきであったのである。その努力を欠いた侵攻は、単なる領土的野心に発したものとしか考えられないのである(この項、続く)。


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