• 8月27日・水曜日・曇天。あれほどの熱暑もようやく息切れか?まさに夏バテ?!で、こうなる。居座った 残暑もそろり 虫の声

    ここで、水野氏の見解を簡単に記しておこう。もっとも、詳しく論ぜよ、といはれても、そうはいかない。ほんとは、私には良く分からないからだ。だから、簡単に(なお、これについて詳細に知りたい方は、同氏の『資本主義の終焉』他を推薦しておこう)。氏によれば、資本主義とは、中心地域と周辺地域との物資の交流―-前者からは生産物を、後者からは原料を―を介して中心地域が利益を上げる仕組みである。国内であれば、都市から地方に製品を販売する。そして、国内のすみずみまで製品が行き渡れば、その需要はなくなる。こうして、いろいろの商品が次々開発され、生産の方法も改善される。しかし、いずれはそれらも飽和点に達し、商品に対する買い替え以外の新規需要は消滅だ。ただ、そこに至るまでに、その国は様変わりをしているだろう。自然の開発からそれを可能にする技術の進歩、学問やら教育制度、交通網の整備、法や人々の意識の変革等など。また、話が大きくなって、とてもじゃないが簡単にはすまなくなってきたので、この辺でやめるが、要するに、ここで私が言いたいことは、資源の乱費や環境の激変についてなのだ。

    その結果は、どうなる。企業は自社製品の販売が思わしくなければ、市場を他に求めるほかはなくなる。かくて輸出を手始めに企業自身の海外移転がつづく。だが、ここでも同じ事が起こって、市場は辺地へ辺地へと広がり、いまやソ連をロシアにかえ、これを飲み込み、中国も取り込んだ。11億以上の人口を擁するインド亜大陸、またブラジル、アルゼンチンの将来も同じ道をたどるであろう。ここで残る最後の辺境はアフリカ大陸のみである。この地の市場化には、まだかなりの歳月を要するであろうが、いずれにしろ先はみえている。以上が水野氏の見通しであり(もしかして、私の勝手な作り事かもしらんが)、私も賛成する。

    市場としてのフロンティアは地球上には存在しない、とはこんなことだ。ここで氏は先進国の利子率に注目する。それはわが国を初め軒並み、長期にわたって、ゼロ金利に近い数字を示す。金利は利益率の反映である、と言ってよかろう。両者の関係は写真のネガとポジに喩えられようか。低金利は低利潤率を示し、それは企業生産物の需要、つまり販路の減退を証明する。製品に対する新規需要は見込めないのである。ここには、先進国に共通した人口停滞、減少問題もある。くわえて、グローバル経済下では中国等からの水準の高い、しかも安い製品が逆輸入されてくる。こうして、先進国の国内製造業への打撃は計り知れない。その結果は、各企業に強力な、有無をいはせぬ合理化への努力を強いざるを得ない。それは余剰労働者の解雇と派遣労働者をうみ、業務の外注化を図る。かくて中間者層の劣化、消滅は必然である。ここにこそ、現在、社会に蔓延する格差問題の根本がある。「富める者はますます富み、貧しき者は自ら有する物すら奪われる」、そんな時代が到来したのである。だが、このドラマは、ここで終わらない。

  • 8月22日・金曜日・相変わらず熱暑は続く。ただし九州・中国地方の豪雨は惨たり。
    それにしても、わが列島の気候はどうか。雨が降れば記録的な豪雨(と言って、こう毎回の事であれば、記録的もなにもなかろうものだ)、しかも集中的、持続的で、降らねば焼け付く暑さ、突風、竜巻が発生す。試みにマンホールの蓋に触れてみたまえ。優に50度を越える熱さである。この傾向は単にわが国にとどまらず、世界的な現象らしい。昨年の夏、中国上海市?でのこと(なにしろ去年のことゆえ、記憶が怪しい)。子供だか大人だかが、マンホールの蓋に卵をわり目玉焼きを焼いている写真があった。これは毎日かJapan Timesのいずれかの記事だ。なにしろ我が家はこの2紙しか採っていないから。ともあれ、そんな気候上の変化、イナ、そんなものではない。凶暴さは、それこそ、地球全体の問題となって、人類に襲いかかってきているように見える。

    その原因は、いろいろ言はれている。地球の気候が変動期に入ったためとか、人間による野方図なエネルギーの消費のゆえとか。もし前者であれば、われわれにはなす術もなかろう。地球相手に一体、なにができよう。だが後者であれば、やりようはいくらでもあろう。真っ先に思いつくのは、エネルギー効率に優れたありとあらゆる技術の開発である。これはまた経済成長に繋がり、現在デフレ下にある先進国の全てに求められる、対策、政策であるにちがいない。だが、こうした成長至上主義的な考え方の結果が、ただいま現在われわれを苦しめている事態を生んでいるのではないのか?と言う指摘も無視できない。そこから、資源問題やら環境問題を配慮した、持続可能な経済が語られ、これとの関連で宇宙船地球号なる言葉まで生み出された。つまり、地球は宇宙船と同様、人類のみならず全生命の生存に必要な何かを外から取り込める、そのような仕組みを持たないという意味だ。

    ただ太陽光線だけは無限に与えられているのだが。

    このような主張は成長戦略を止めよ、と言うのに等しい。水野和夫氏によれば、資本主義経済は、そろそろ終焉期に差し掛かっている。資源やエネルギーがネックになって、成長は望みがたい。それ以上に最大の問題は、市場としてのフロンティアがもはや地球上には存在しないということにある。その構造はこうである(と言って、ここで突然、次回に続く)。

  • 8月13日・水曜日・猛暑ヤヤ和らぐ。こんな句を詠んだ。影帽子 気付けば長し 法師なく。

    話を進める前に、少し将棋のことを言っておこう。これは相手の王を詰ますゲームであることは、誰でも知っている。まず駒の動きに精通したら、序盤、中盤、終盤の進め方を覚えなければならない。そこには様々の手筋、技術、戦略があり、その複雑さは、目もくらむばかりである。王を詰ますまでの変化図は、ナント、10の90乗におよぶという。これがどれほどのモノかは、私には想像もつかない。考えるべき事は、ただ盤上の局面だけではない。相手の癖、人柄、気質、疲労度、棋力にくわえ、自分の体調等など。さらには、将棋観、人生観、価値観などもくる。一手の選択と決定には、それらが入り組み、だから大山康晴15世名人は、どこかで言っていた。「その人の生きかたが問はれている」。

    こうしたことをバックにしながら、ヘボから上手までをふくめて、対戦者は作戦を立て、戦略を練り、難所に向かって事を進めていくのである。頭脳と気力と体力の限りをつくして。これが将棋である。まさに総力をあげた人間同士の戦いではないか。そして、この戦闘に、棋士が敗れた。その敗北は、ただ人間の一つの機能が劣ったのではない。視力、走力、腕力といった類の負けではない。そんな事に敗れても、われわれ人間はビクともしない。そうではない。ここでの敗北はわれわれの知力、構想力にかかわる事である。さきの「人間全体が機械に負けた」とは、そうした意味であった。

    しかし、である。と、ようやく、本題。こたびのコンピュータの戦力たるやどうか?米長氏によれば、ホストコンピュータには600とも700とも言はれるコンピュータが連結され、かくて1秒間に1700万手を読むというモンスターである。しかもそこには、江戸期から残された棋譜が全部記録され、だからコヤツは現在にいたる定石やら戦略駒組みに精通している。また、対戦相手の棋士としての特性や彼がどの局面ではどのような決断をするか等すべてを解明しているとのこと。何の事はない。情報戦において、既にして騎士は敗れている。また、記憶力だけに限れば、棋士はコンピュータの敵ではない。さらに、詰め将棋のように、回答のある局面にでもなれば、棋士が1時間ほど要するところを、コンピュータは数秒で答えを出す。極めつけは、彼には悪手による動揺などと言った人間的な弱み、感情、アセリ、あるいは負けることへの面子ナンゾはさらにない。淡々と迫るその迫力は、薄ら寒いというべきか、実体のない空を相手にするような、なんとも奇妙な感じに捉われても不思議ではなかろう。だが、そうした状況がいかなるものかは、実際に対峙したものでしか分からないであろう。

    このようなモンスターを相手に、棋士は戦ったのである。しかも、敗れたとはいえ、接戦であった。いま少し研究を重ね、対コンピュータ戦に特化した訓練を経れば―–それが棋士にとっていかなる意味があるかはともかくとして――将来的には棋士側の勝利も夢ではない。ここに、人間の能力の高さ、凄さを見るのは、私だけではあるまい。たしかに誰もがそんなレベルに達せられる分けではないが、才能に恵まれ、努力を惜しまなければ、人とは、かくも高きへと昇り得る者である、と私はいいたいのである(この項、ひとまずオワリ。本当は、もう少し続けたいのだが、モウ飽きた)。

  • 8月6日・水曜日・炎熱地獄の日々
    先の事例は、なかなか面白い問題である。人間は、色々の分野で自分より強く、早く、正確な能力をもつ生き物や機械その他諸々のあることを、勿論、知っている。そして、それらと力比べをしようとはしないし、仮にそんな事で負けたからといって、これを悔しがる人はいない。だが、将棋の場合はゆるされない。それは何故か?

    ここで一つ、言葉遊びをしてみよう。「腹の具合が悪い。」「ヒザの調子がおかしい。」「肩が回らない。」「体調がヘンだ」などなど。これらを「頭」に変えてみたらどうか。トタンに意味が変わってしまう。頭がズキズキする。頭が重い。熱っぽい。フラフラする。これらは普通に使われる表現だろう。頭のある箇所を特定し、その不具合を言うのは、ドウも成立しそうなのだが、頭全体をさし、その不調をいうとき、その意味はガラリと変わってしまう。これと同じようなことが言えそうなのは、「顔」である。ためしに、顔がワルイ、と言ってみ給え。絶交を覚悟する他あるまい。

    こんな事になるのは、多分、頭や顔という言葉は、その人物、その人自身を指すことになり、だからそれがイイとかワルイとか言うのは、直ちに人格や能力に触れることになるからではないのか?頭の良し悪しに触れることは、その人の全体に対する評価に直結することなのだ。そのような評価基準が、洋の東西を問わずできあがって今日にいたる。

    ここは、その事の善悪を言う場ではない。話を将棋に戻そう。将棋は頭脳プレイそのものである。それをコンピュータに負けるという事は、人間の能力、人間全体が機械に負けた、といって悪ければ、人間の能力の最も基本的な分野において敗れた、という事になりかねない。もしそうだとすれば、これはもう一大事であろう。この事は、いずれ将棋を越え、あらゆる分野に及んで、やがて機械が人間を支配する先触れではないのか?こんな風に考えたら、そのショックの深さも分かろうと言うものだ。しかし、(次回につづく)

  • 7月30日水曜日・炎暑

    前回予告のとうり、天童市でささやかな公演会をもった。聴衆は30名チョイ、年代的には6,70代の方々で、ご婦人もちらほらみられた。とても将棋に興味があるとは思えなかったが、それでも皆さん、最後まで熱心にお付き合いを頂いた。当会の責任者である生涯学習課長さんから、寄せられたアンケートの結果は大変好評で、御自身も面白く聴いたとの由。ともあれ、私もそれなり、責めを果たせたとすれば、まずは一安心である。これで大学への義理もたった。なお、この度の天童行については、面白い話がいくつかあるが、それはいずれと言うことにしよう。

    今日は、わが話の中の一つを抓んで、お考えいただこう。それは、レジメ5にかかわる話しである。そこでの主旨はこうだ。最近の将棋ソフトの進歩は目覚しく、ついにトッププロさえも負かされてしまう。しかもその負かされ方が、尋常でない。米長氏が負けてからと言うもの、将棋連盟も危機感を持ち、次回については、ソフト開発者、主催者などを交えて様々な協議がなされた。例えば、誰がどのソフトと対戦するかを特定し、その上で各期士は対戦相手のソフトの癖や戦術上の対策を採ることが出来るよう、予め当のソフトの貸し出しを求め、持ち時間を各3時間とするなどである。こうして、棋士側はそれなりの準備期間や研究時間を持てたのである。たしかにそれは、棋士にとっては有難いことではあるが、反面、言い訳の出来ない状況にもなった。ともあれ、このようなお膳立ての上で、ソフト連合5組対プロ5人が対峙した。選抜された棋士たちはコンピュータには明るい実力者揃いの面々である。つまり、将棋連盟としては満を持しての対戦をむかえたのである。にもかかわらず、その結果は、ソフト側3勝1敗1分の快勝であった。かくて、連盟や将棋フアンはモチロン、普段は将棋になんぞ目もくれない人々にさえ大きな衝撃を与えたのであった。一言つけ加えれば、プロ・アマの力量に最も差のあるゲーム、競技は、相撲と将棋と言われているが、それほどにプロの力は絶対的だと信ぜられてきたのである。すでにチェスで負け、そして将棋よ、お前もか。と言ったところであったのかもしれない。

    だが、将棋でヒトが敗北したことに、私も含め人々は、何ゆえかくも大きな衝撃をうけたのであろう。仮に、相撲がブルドーザーに押し出されたら、このことに驚く人がいようか。むしろ、相撲取りがブルドーザーを押し出すほうが、はるかに驚愕事であるにちがいない。だが、この違いは、なんだろう。これが、私の問いである。話はヤットいい所にきた。でも私は、モウ疲れた。今日は、これまで(次回につづく)。