2014年8月6日

8月6日・水曜日・炎熱地獄の日々
先の事例は、なかなか面白い問題である。人間は、色々の分野で自分より強く、早く、正確な能力をもつ生き物や機械その他諸々のあることを、勿論、知っている。そして、それらと力比べをしようとはしないし、仮にそんな事で負けたからといって、これを悔しがる人はいない。だが、将棋の場合はゆるされない。それは何故か?

ここで一つ、言葉遊びをしてみよう。「腹の具合が悪い。」「ヒザの調子がおかしい。」「肩が回らない。」「体調がヘンだ」などなど。これらを「頭」に変えてみたらどうか。トタンに意味が変わってしまう。頭がズキズキする。頭が重い。熱っぽい。フラフラする。これらは普通に使われる表現だろう。頭のある箇所を特定し、その不具合を言うのは、ドウも成立しそうなのだが、頭全体をさし、その不調をいうとき、その意味はガラリと変わってしまう。これと同じようなことが言えそうなのは、「顔」である。ためしに、顔がワルイ、と言ってみ給え。絶交を覚悟する他あるまい。

こんな事になるのは、多分、頭や顔という言葉は、その人物、その人自身を指すことになり、だからそれがイイとかワルイとか言うのは、直ちに人格や能力に触れることになるからではないのか?頭の良し悪しに触れることは、その人の全体に対する評価に直結することなのだ。そのような評価基準が、洋の東西を問わずできあがって今日にいたる。

ここは、その事の善悪を言う場ではない。話を将棋に戻そう。将棋は頭脳プレイそのものである。それをコンピュータに負けるという事は、人間の能力、人間全体が機械に負けた、といって悪ければ、人間の能力の最も基本的な分野において敗れた、という事になりかねない。もしそうだとすれば、これはもう一大事であろう。この事は、いずれ将棋を越え、あらゆる分野に及んで、やがて機械が人間を支配する先触れではないのか?こんな風に考えたら、そのショックの深さも分かろうと言うものだ。しかし、(次回につづく)


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