• 2月19日・木曜日・晴。 

    まず、私がここで言う政治化、統計化の意味についてハッキリさせておこう。その事柄が散発的に発生するだけで、なんら集合的でなければ、その数がいくら多くてもそれは統計化されない。それは大量現象のなかで常に生ずる偏倚、誤差として処理される類のものである。たとえば貧困。それが完全に個人の怠惰、怠慢、寄生的気質等以外のものでないとすれば、社会はその貧困を個人の責任に帰して放置するであろう。そうした人たちはどんな社会、どんな時代にも、ある比率で必ずみられるものである。ドストエフスキーは『死の家の記録』の中で、目の前に差し出された酒か小銭と引き換えに、重罪犯の身分と自分の軽罪の地位とを交換している人の事例を報告しているが、例えれば彼らはそういう人たちであろうか。そして、そのような人の貧困を古典的貧困と呼んだ人もいる。

    これに対して、社会の仕組み、構造から必然的に生み出されるような貧困がある。豊かな田畑が少数の者達に独占されているというような仕組みである。ここではその仕組み、制度のゆえにいかな個人の努力もほとんど意味をなさない。ベトナム戦争期のベトナム農民はそんな仕組みの中で暮らしていた、と開高健はいう(『ベトナム戦記』)。これをここでの事に引き寄せていえば、大量に発生しているそうした貧困はその背後に説明され、回答されるべき意味をもった出来事になっている。その仕組みを変えない限り、その貧困は恒常的に、大量に発生しつづけるほかはない。その不平等や理不尽はやがて人々の意識に上り、問われ、その是正を求めて彼らは結束する。それが、政治化の意味である。

    さて、これらを頭に入れて(もしかしたら、以上は全く不必要な饒舌であったかも知れぬが)、例の後藤氏の場合を考えたい。本件に対する安倍政権の対応は、その後幾つか批判も出たが、それはここでの問題ではない(もっとも、後智恵の批判はいくらでも出よう。だが、そんな事は政府にとって何の痛痒も感じまい)。むしろ総理自身が陣頭に立ち、人命尊重の立場からヨルダンに対策本部を設け、日本政府の立場を世界に発信し、「イスラム国」の理不尽を訴えた。そのような対応は映像にみる限り、迅速かつ断固としており、国民にたいして訴えるものがあったであろう。事実、過日の世論調査では肯定的な数値が高かったのである。

    では、政府は何故これほどに手厚い対応をとったか。海外で事件に巻き込まれ、命を落とす国民はいくらでもいようが、その度にこのような扱いをされる訳はない。これについて朝日新聞は、ある教授二人の対談を掲載した。そこでは、海外で命を危うくされた日本人があれば、国家が彼らを救済するのは当然で、それは国内で路上に倒れた泥酔者を無条件で救急車を走らすのと同じだ、と主張されていた。これは、その後政府高官が後藤氏のシリア行を「蛮勇」としたことに対する一つの反応であったかもしれない。だが、私にはこの説に与することはできない。無条件で泥酔者を助けることは当然にしても、その泥酔を何らかの形でたしなめることは、やはりありえようからだ。

    朝日の対談には事の本質はない。この度の事件に対しては、政府は出来る限りの事をした、と私はおもう。だがそれは、安倍政権だからではない。どの政権であろうと、その巧拙はともあれ、この程度の対応はしたであろうし、またせざるをえなかったはずである。さもなければ、世論の支持を失うからだ。事は世界の注視する政治ショーとなった。全力で後藤氏を救出する努力、姿勢をまずは国民に、そして世界に示さなければならない。人命を重視し、テロに屈せず、民主主義の価値を守り抜く政府であることを見せ付けなければならないのだ。つまり、後藤氏の命を守る姿勢を示すことで、実は国民の生命財産(全体)を断固死守する、またそれができる政権であることを誇示したのである。とすれば、ここでの問題はもはや後藤氏という個人ではなく、国民という全体であった。

    しかも事はこれで終わらない。この度の有事で、政府はじつに多くの事を学んだはずである。現在のわが国の中東世界におけるプレゼンス、外交関係、彼らとの対応力、有事に対して行使し得る軍事的能力、そして世界の政治的、軍事的諸力に対するわが国の動員力が 現実にどの程度ものであるかを、机上での単なる演習ではなく、実践を通じて検証しえたのである。これは恐らく、集団的自衛権の問題に取り組む現政権にとっては、またとない好機であったであろう。以上は我がか細い脳髄が絞りだした単なるモウゲンである(この問題は次回にもう一回続く予定)。

  • 2月13日・金曜日・晴れのち曇り。 

    統治機構は前述のようなものとして存在する。それは現代の民主主義的政体をとる諸国において特にハッキリしていよう。あるいは、これに対しては、色々批判もあるかもしれないが、ここではそのように理解されたい。そうでないと、話が進まん。とすれば、政策の立案と遂行は国民的、国家的な課題に関わらざるをえない。その課題は何かと言えば、国民の潜在的、顕在的な、しかも切実な願望、欲求の他にはない。各政党はそれを掬い取り、その実現のための方途を国民に明示し、支持を取り付ける。最も説得力のある政策を提示しえた政党が多数を占め、政治権力を手にしうるわけだ。だがここには、大きな危険が潜む。ポピュリズム(大衆迎合主義)という危険である。これは民主主義という政治制度の宿痾であろう。であればこそ、国や時代の孕む困難を直視し、それと対峙し、一時の苦難、苦痛を敢えて主張し、国民を説得できるような政治のリーダーシップが切望されるのである。だが、これも難問。それが独善、さらには独裁へと傾斜する危険を、どう見分け、阻止するのか。その最大の防波堤は、国民の政治的な成熟でしかあるまい。

    またもや、話が回り道に落ちた。私が問題にしたかったのは、政治と個の関わりである。政治とは、前述来の通り、「統計」的な問題、集合的な問題をこそ対象とする。それがその本質だと思う。個々人を襲う、やりきれない困苦、悲惨の除去や不安のない日常生活の実現は、それが個のレベルにある限り政治は相手にすることはないだろう。たとえば、浅草には今日も寒空の下で一夜を明かすホームレス氏が多く見られる。闇金融に追われた人々が舐めた恐怖と悲惨は、それが統計的な問題になる以前には見向きもされなかった。今なお「滑り台社会」の底に喘ぐ多くの、だが政治化されないバラバラの個々人は見捨てられたままである。そうであればなおの事、社会や報道はそうした人々の困苦を掘り起こし、顕在化して、その現状と社会経済的な背景を明示し、これは明日の我々すべての姿なのだと警鐘を鳴らす必要があるのだ。これが、私の言う政治化の意味である。そのような文脈でみれば、この度の後藤氏についての政治の取り組みにはどんな意味があろうか。漸く、本題にたどりついたが、疲れたので、今日はこれまで。

  • 2月4日・水曜日。晴。立春に敬意を表したか、穏やかな一日。但し、明日の予報は、雪。

    前回の拙文を読み直し、エライ議論を始めたと後悔しきりである。といって、今更止めるわけにもいかない。何とか、始末をつけることにしたいが、その気持ちが進まぬ第一の理由は、後藤氏の殺害にまで事態が進んだことである。報道によれば、氏の此度のシリア行は、友人の湯川氏の救出、戦場下にある子供たちに寄り添い、その生活を捉え、日本の子供たちに知らしめたい、という意図に発したことである。それ自体には、批難されるべき謂れは一点もない。また、同氏は世界のジャーナリスト、イスラムの人々からも愛されていたようで、そういう人物の死を前にして、何事かを論ずるには大いに躊躇させるものがあるからである。ここでは、彼の死について語った兄の一言を引いておこう。今日までの日本政府はじめ世界から寄せられた救出の努力、支援に感謝すると共に、弟の今回のシリア行きはやはり「軽率であった」(indiscreet)(ジャパンタイムズより)。ここには、近親者のみが抱きうるなんともやりきれない痛惜の思いが滲み出ていよう。心よりご冥福をお祈りする。

    さて、私見によれば、政治とは全体福利の追求にある。即ち「最大多数の最大幸福」の実現である。ただしその中身は、前回述べたように、千差万別である。西洋的な民主主義の基準からすれば、まったく理不尽にみえる統治機構も当の国家にとっては真っ当な、かくあらねばならぬ組織でありうるし、そのようなものとして国民からも認知され、承認されうるからである。とすれば、外からのあれこれの批難、批判は要らぬ容喙にすぎない。ここに、いかなる政治組織も最終的には最大多数の国民からの支持を得ること、つまり彼らに対するその政治的な支配の正当性が認められなければ、短期的にはともかく、長期の存立は不可能であろう、と言いたいのである(本日はこれまでとする)。

  • 1月28日・水曜日・晴。風強し。

    前回の覚悟をもってここに座したが、あれは覚悟だけの事で、中身はなにも変わってはいない。人とは、そんなに簡単には変われるものではないのだ。ただ、ウワゴトでも何でもイイから、是非続けよ。楽しみにしているのだから、との声も届いて、それならショーねー、と恩着せがましく続けることに。と言って、これを止めたら、ここでの我が仕事が無くなり、失業の憂き目にあうので止める分けにもいかないのだ。そんな訳で、本日もドーなることやら、行方知れずであると、一言。

    「一人、二人の死は悲痛である、百人の死は悲劇だ。だが、千人の死は統計だ」と、スターリンは言ったという。真偽の程は知らない。しかし、一千万単位で人を殺害した彼のことである。このくらいの事を平然と口走っても、不思議ではない。しかもここには、政治の真髄が一言にして示されている、と私は思う。政治とは、かくも非情、冷徹である。生半な人道主義、理想主義なぞ寄せ付けない過酷さがある。

    政治の要諦とは、何か。全体福利の実現であろう。統治地域およびそこに住まう人々の全体的な平和と安寧の確保であろう。だがそれは、必ずしも領土的な保全ばかりを意味しない。民族、歴史、文化、体制等がふくまれる。ただそれらは、普通、ある広がりを持った地域、土地と結びついて営まれる他はないため、領土的な要求、要請が第一義となろう。こうした内実を持つ国土の存立が危うくされたら、為政者たるもの、これを断固排斥するのは、当然である。戦い利在らず、国土の蹂躙にまみえれば、ある地域の切捨てどころか、時には地域全域すら見殺しにしようと、そのことが将来の復興の礎になろうとすれば、躊躇なくこれを実行せざるを得ない、そうした論理が貫かれているように思う。ドゴールのみならず、民族解放戦線の戦いはそういうものであり、また加藤陽子氏によれば、蒋介石は日本軍に占領統治された中国東北部はじめ沿海部、華中地域を切り捨てても(確か何千万か、億単位の人命の犠牲になるらしい)最終的な勝利をめざした。勿論、そこには単なる戦闘を越えた外交戦、諜報、報道その他あらゆる資源と知力の動員もかみされる。

    ドーモ、話が大きくなりすぎて、始末がつかなくなってきた。以下ナントかコジツケル事にしましょう。私の言いたかったことは、政治の目的は統治領域の全体的な安寧福利、秩序の維持である。つまり個々人の幸福は二義的でしかない。それは、文学、宗教の問題である。しかも厄介なのは、この全体的な安寧、福利と言ったとき、その意味合いは誠に多義、またその実現の方途が問われれば、実に茫漠としてくる。分かりやすく言おう。今問題になっている「イスラム国」流では、コーランを厳格に解釈した(かどうか、知らぬが)生活様式、すなわち、女はブルカを纏い、学問を拒否し、家庭にこもった生活を送ることこそ幸せとし、それを破ることは社会の混乱をよぶらしい。また社会的正義や幸福の実現にしても、社会主義的な平等な富の分配によるべきか、個人の創意を重視した自由主義的な、それゆえある程度の格差を是認した分配によるかの論争は果てしもなかった。今でこそ地球上の多くは資本主義国となってはいるが、しかしそこに孕む矛盾は覆いがたいのが現実である。さらに国家の平和の問題は、外国との関係であり、それは即国防、軍事に関わらざるを得ない。国防の強化は、とくにわが国のおかれた現状をみれば、直ちに悪にはならない悩ましさがあるのである。

    国の安全、国民の福利厚生のあり方、その実現の方途は、結局は主義や主張の数だけありうる、と言いたい。その何れを採り、捨てるかは、その国が置かれている歴史的・地政学的状況、文化・政治的熟成などによって決まるのであろうか。私としては、それは結局、その国の支配機構の側からの選択だ、と言いたいのだが、それもまた国民の意思と全く遊離してはあり得ないとすれば、国民だとも言えなくもなさそうである。だがそれは、決して国民の自発性に基づく決定ではない。支配機構側からする様々な教化、教育、情報操作、法制度や宗教的・道徳的な働きがけがあるからである。マルクス的に言えば、これこそイデオロギーの力である。とすれば、国民の意思によると言っても、それはカッコ付きのことにすぎない。

    ここに一つ興味深い問題が発生した。「イスラム国」に拘束された後藤健二氏のことである。政治は全体を問題にし、個には関わらぬと言ったこれまでの論議とどう整合するのか、という問いである。これについては、次回とする。

  • 1月21日・水曜日・雨時に雪。寒し。

    本日は、前回の文章の校正、補足に終始し、これにて終了としたい。それにしても、毎週、適当な題材を選び、それなりに文章化し続けるのは、結構な仕事だと思うこの頃ではある。連載を抱える作家の苦しみはいかばかりか、チョイト、理解できそうだ。もっとも、コチラはほとんど準備らしい物もなく、パソコンの前に座ってから、ハテ何を?と始めるのだから、苦しいのは当たり前で、自業自得と言うほかはない。これでは、せっかく読んでやろうか、ト思う読者にもあいすまない。こんな居食いみたいなことは、ソロソロやめにして、それなりの準備の上で、と考えれば、デハ何を、となる。我が語れることと言えば、専門的知識にことよせて己自身も何を言っているやらオボツカナイ、ほとんどタワゴト、うわ言めいたことになりかねない。これはこれで、また申し訳ないことである。よくよく思案の上で、次回に繋げましょう。