• 7月19日・金曜日。晴れ時に曇り。34℃と炎暑の上、蒸すが、曇り空のせいか、やや楽だ。しかしこれは、間違いなく当方の感受性の劣化なのだろう。

    本日より平家物語を再開し、早々にこの話にケリをつけたい。物語の読後感は萎えしぼみ、これを続けるエネルギーも尽きたからだが、事は一気呵成になさねばならぬと知る(6/24・月からの継承)。

    7月22日・月曜日。晴れ。39度が温度が列島中に表示され、深夜の最低温度が30度を下回らない地域もあるという。熱帯夜をこえた言葉が必要らしい。しかし、人びとはまだ笑っている。政府も音沙汰無い。

    平家物語を今に伝える魅力とは何であろうか。清盛ほどの大権力者であれば意のままに成らぬ者とてなく、ましてや白拍子のような、当時は社会の底辺にある女芸能者など、無きに等しいただの慰み者でしかないはずが、清盛のあまりな横暴に対し命を懸けた抗議を仕掛けた祇王(ぎおう)、仏御前(ほとけごぜん)の話は、まさに現在の問題であろう。あるいは平家一族の家族愛は、骨肉相食む惨たらしい源氏の対極にある。戦死、あるいは流罪の地で没した夫や息子たちの成仏を、生涯かけて供養する女たちの思いは痛切である。儒教的な道徳律に基づく武士道のいまだ確立していない往時にあって、主従の関係は極めて実利的であり、裏切りに対する後ろめたさがない。だが、一たび互いの琴線に触れ、惚れ込めば、先に義仲の例で見たように、主人が部下のために平気で死地に飛び込んでいく。ここには、地位や家名をこえた、独立した人格同士の自由な近代的な人間関係を認めたいものがある。

    だが、それ以上の我が興味は、清盛はじめ法皇、天皇ら並みいる権力者たちの、己をこえた存在に対する嘘偽りのない恐れである。これは中世人の世界観であり、近・現代人との決定的な違いでもあろうか。もっとも、先の狙撃事件に直面したあのトランプ候補ですら、「全能の神の加護」に感謝しているところを見ると、我われもまたぎりぎりのところに立たされた時には、神仏への帰依を呼び覚まされるのであろう。ともあれ、平家物語には、娑婆での人間どもの死力を尽くし、欲得の限りの闘争が繰り広げられながら、他方で神仏、怨霊、物の怪の跋扈する世界がある。それ故夢の告知、異常な気象現象、怪鳥の一声等すべての事がらに耳を傾け、目を瞠って事の成り行きを読み取ろとするのである。

    平家物語は、こうした自然や社会の中に身を置いた人々に語りだすのである。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず。唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ。偏に風の前の塵に同じ」。冒頭のこの一節が、多様な物語全編を貫き、こうして本書は単なる軍記物語をこえた、人びとを教化し、導く思想書、歴史物語となったのであろう。ここには日本古来の神道、儒教や唐天竺由来の歴史的教養にあふれながら、その底に仏教思想が一貫する(以下次回)。

  • 7月17日・水曜日。晴れ。今週日曜日、米国共和党大統領候補者、トランプ氏、演説中に狙撃、なるトップニュースが世界を震撼させた。凶弾は僅かにそれて、氏の右耳朶を裂いたが、大事には至らず、文字通り九死に一生を得た。ただ、背後の聴衆に死者、重傷者が出たという。これをどう表現すべきか、言葉を失う。現在、世界中が戦争と騒乱にまみれ、第3次世界大戦の予兆と共に、自然界の人類への復讐がこれに重なり、ヨハネの黙示録的な終末観が世界を覆う。人類は今後何十年か、この苦しみを生き続けなければならないのか。

    先週の土曜日、筆者は社会環境学会主催の2024年度研究大会(明治大学)にて「吸引する大都市―地方再生の道を探る―」と題する報告を行った。実は、昨年も同題の報告をさせて頂いたが、時間切れで、「地方再生の道を探る」までに至らず、いかにも消化不良のていであった。今回、たまたま報告者の名乗りもなく、事務局からの打診を受け、引き受けたのだが、お蔭で年来の思索に区切りをつけることができた。記して、謝意を表する。以下は、当日のレジメである。なお、中断した平家物語は次回から再開したいる。

    2024年7月13日・土曜日 於・明治大学

                                    

     金子光男

    人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い…中島敦 山月記より

    吸引する大都市—地方再生の道を探る—

    • 前回の要約から

    1:都市はどこから来たか。柳田国男によれば、我が国の都市は「農民の従兄弟によって作られた」のであり、しかも都市の存続は「領主の城下町ですら有為転変の定めなきもの」であり、その消滅の危機には常に農村からの人口流入によって支えられた。こうして、彼は都市の出自を農村(ここではこれを「地方」と読み替えたい)だと明言するのである(「都市と農村」・昭和4)。 

     しかもその支えようは尋常ではない。まず都市を成り立たせる第一の要因である「人口」数は、まるで「滝壺」を目掛けるようにして都市の「四方から流れ込む者」たちによって継続的に維持される。それ以外にも都市が吸引するのは、膨大な量の水・食料、各種自然資源、エネルギー等々であり、こうして都市機能は漸く維持される。このことを柳田は、都市はその外側にある、農村からの「富」を持ち込むことによって成り立つと言ったのである。この限り、都市とは構造的に自己再生の難しい「消費都市」であり、とすれば農村の富が限度をこえて都市に引き寄せられれば、まずは農村の疲弊が、次いで都市の衰退は必然となろう。

     以上のような観点から、現在の東京を中心とした大都市圏と列島全体の地方圏との関係を見るとき、後者の衰退の様相がいよいよ明瞭になってくる。ことに両者の人口数とその構成比をみれば、『地方消滅』(増田寛也編,中公新書2014)が取りざたされるほどであり、このまま事態を放置すれば、国土の保全、そして国民生活にも深刻な結果をもたらすことになるであろう。近年頻発する各地方の自然災害による復興の遅延の問題はその最たる事例の一つである。ここには老朽化した各地のインフラ施設の維持、更新に要する財政問題も含まれる。多くの自治体は、人口減少によって過大となった上下水道施設の維持管理の経費に耐え切れず、このままでは、それだけで財政破綻に追い込まれると危惧されている。

     

    上にふれた農村から都市に持ちだされる富について:まずⅰ.ヒト。特に青年層の男女であり、地方の急速な高齢化と出生率の低下を来す。地方財政の疲弊による行政サービスの低下。それがどの程度のものになりうるかを、ここでは夕張市を取り上げた。ⅱ.モノ。都市建設の「骨材」である砂について。これについては、君津市の事例から消滅する山の問題を見た。それ以上に今後は、温暖化による水資源の確保とそれにまつわる自然環境問題がより深刻になるであろう。さらに急激な都市開発は建設廃材その他のごみの不法処理のために近隣地域が利用される。

    2:先に都市圏は地方からの多様な素材の提供を得て成り立ち、その意味で「消費都市」だと言った。だがそれは、勿論、自らは何も生まない都市の非生産性を言うのではない。事態はその反対である。ちなみに、この資料はどうか。3大都市圏と言われる東京圏、大阪圏、名古屋圏は、「国土面積では1割強に過ぎないが、人口・総生産の約5割を、金融や国際などの産業諸機能の7~8割を占めている」(2018)(内閣府国民経済計算より)。であれば、残る9割の地方経済社会の惨状は推して知るべしであろう。

     そこでは巨大な行政官庁、大企業の本社、大学・研究機関、金融・証券市場が密集し、巨富が生み出されるが、それを支えるのが地方からの人材を含めた多様な物質的な提供であると言いたいのである。しかもそれらは、そうした大都市圏ではまず、再生産されない。すべてを吸引し、地方に戻さない。ならばその根源である地方の困窮は、つまるところ都市圏の疲弊を帰結するのではないか。

     こうした事態を、朝日新聞(7/5)はこの度の都知事選の絡みで「東京というブラックホール」、「若者引き寄せる力 国は人口減」と呼び、これに対する小池、蓮舫両氏の見解にふれているが、ここでは現職の言う、東京の「一極集中だけを問題にしていると、パイを切り刻むだけで、国力を失う」との言葉が、地方疲弊に対する無理解をさらした。つまり氏は東京を他都市並みに引き下げれば、日本は衰退すると言いたいのだろう。要するに、彼女は都市と農村との関係について考えたこともないと言わざるを得ない。彼女にとって、東京の発展(原因)によって地方は成長(結果)するとみており、ここでは原因と結果を取り違えているのである。それがそうなっていないことは、この何十年来にわたって疲弊する地方の現状から明らかではないか。

     以上はまた、一種のトリクルダウンの考え方を想起させる。頂点のグラスにシャンパンが注がれ続ければ、いずれ最下段のグラスも満たされる。だが結果は逆で、米国での格差は開くばかりか、我が国でもそうした傾向がみられることは、今更言うまでも無かろう。

     さらに東京への一極集中は各種の安全保障上の深刻な問題を抱えざるを得ない。ことに、関東大震災級の直下型地震、集中豪雨等の自然災害などによる首都機能消滅は、現在益々考慮すべき喫緊の課題となっている。

    3;地方再生の試み―「離島」の取り組みから(Small islands,big lessons ,in: The Japan Times May 27,2023)

    まず、我が国に帰属する島嶼数(大きな島、小さな島)は、約14000島であり、その内人の住する島数は10人以下を含めてほぼ400という。これらの島嶼に共通した社会経済的な特徴は、離島ゆえの孤立的な生活、それに基づく独自の生活習慣と文化的伝統を持ち、生活物資は自己調達的でありながら、近隣諸島との関係は欠かせない。かくて持続的な生活が維持される。だが、ごく少数の人口移動によっても、その島の社会経済状況は激甚の影響を蒙り、ことに高齢化率等の変化と結果はきわめて明瞭に見て取れる。それは同時により大きな市町村の今後の趨勢を予見し、今後の対策を考えるよすがを与える。であれば、島嶼は日本社会の縮図と言ってもよく、ここには「大きな学び」の可能性がある。それが島嶼研究の意義である。

     多くの島嶼での生活が乱され始めたのは、1950年代以降の高度経済成長期以降のことらしい。島民の離島が人口減少と高齢化を急伸させ、無人島と化した島も多かった。だが、全ての島が無人化したわけではない。例えば、伊豆諸島の一つである利島では、300人が生活し、その数はこの半世紀変わっていない。なんと縄文の時代より人が住み、現在の産業は本邦一の品質を誇る椿油のほか漁業に恵まれる。それだけに、連綿と続く歴史と文化を持ち、生活習慣や価値観を大事にしながら、しかし他方で島外世界との交流を保ち、その文物を積極的に取り入れ、決して自らの世界に閉塞しない。このことが島民生活の維持と更新を可能にさせたと、記事は伝える。

     都会から瀬戸内海のある島に移住した、女性ジャーナリストは島内での生活によってはじめて豊かさの意味を知った。都会のコンビニでは飲料水のペットボトルだけでも、種類や量が異常だが、これが真の豊かさなのだろうか。島では、目覚めれば青々とした海、竹林の緑が身を包み、必要な物は過不足なく得られ、なければ隣人たちから届けられる。これぞ、友人の言う「宝の島」の意味であったかと、彼女は得心させられたのである。

    地方再生の手掛かりは、ここに十分見て取れるのではないか。どの地域、地方でも自らの価値、伝統、誇りを持たないところはない。都会生活では求めても得られないそうした「地域の宝」を掘り起こし、それを育て上げることだ。他の地域から人々を呼び込もうとする以前に、その住民自身が住みやすく、この後もまた住み続けていきたいと思える場を育て上げることだと思う。そのことはすでに元金沢市長・山出 保氏の指摘されたことである(『まちづくり都市 金沢』岩波新書2018)。但し、それらが可能になるためには、政治、経済、行政の大きな取り組みが欠かせない。これがあって初めて、改革のための枠組みが整えられるからである(以下は、前回のレジメ(‘23 7/8・土)末尾の「4.地方再生の道はあるのか:メモを記して、あとは今後に」続く)。

  • 6月21日・金曜日。雨。本日、梅雨入り。例年より2週間ほど遅れた入りである。この遅れが気候的にどんな意味を持つのか、当方には測りがたいが、気にはなる。

    6月24日・月曜日。晴れ。熱暑、列島を覆う。なお、7月半ばまで、別件の所用のため、本欄休載とさせていただく。

    『平家物語』は単なる軍記物語ではない。夥しい数の、しかも多様な登場人物を見るだけでも、それは分かる。彼らによって様々な物語が織りなされるのである。その内ここでは、台頭する武士階層と天皇、法皇を含む貴族層との対立抗争について、少々、取り上げてみたい。

    保元の乱(1156)で平清盛、源義朝が後白河天皇に味方し、勝利することで、武士が政治中枢の舞台に登場したとは教科書の教える所だ。3年後、平治の乱(1159)に清盛が義朝を討ってその足場を築く。その後の清盛が政治権力を掌握する過程は凄まじい。それまでの仕来り規則を無視した一門の人々の出世、昇進はもとより、最後は娘徳子(とくし)(後の建礼門院)を高倉天皇の皇后にすえ、その皇子・言仁(ときひと)を僅か3歳にして安徳天皇として即位させる(1180)。かくて清盛は天皇の外戚祖父となるが、それは清盛、絶頂の時であった。この間、わずかに20年の歳月に過ぎなかった。「平家にあらずんば人にあらず」(平時忠)の言葉は、こうした内実を持っていたのである。

    とすれば、天皇、法皇を中心とする貴族層との政治抗争が苛烈を極めるのも当然である。そこに、宗教勢力の闘争がくわわる。比叡山(天台宗)、三井寺(天台寺門宗総本山)、奈良の興福寺(法相宗大本山。叡山の北嶺に対し南都と称する)の政治、武力は時に天皇の威令を押し返すほどであった。これらが互いに争いながら、世俗権力に対しても敢然と戦う。そうした情勢の中、歯止めの利かない平家に対し、特に法皇・後白河は主立つ貴族と陰謀を練り、対抗しうる源家を掘り起こし、「院宣」(いんぜん)を発して武力蜂起を画策する。かくて木曽義仲が駆り出され、義仲抑えがたしとなれば、頼朝が呼び出される。

    武士の台頭は、旧勢力にはどうにも許しがたい。彼らは眼前の敵を払うのに必要な道具ではあっても、それ以上にのさばられても厄介だ。だから武士の粗暴、無知を笑い物にしながら、陰謀によって葬り去る。そうした貴族の政治的手練、手管にかかっては、武士は物の数でもない。木曽義仲の栄光と滅亡の悲劇が、目に浮かぶ。義仲は確かに、粗野かつ無知であったにせよ、忠義に厚く、下僚と交わした友誼を重んじ、そのために自ら命を落とす武人であったことを物語は伝えているのである。

    下からのし上がる階層は常にそうした悲哀を免れないのだろう。西欧でも貴族層に入り込もうとする市民層はそうであった。彼らがブルジョアとして、経済力を背景に政治力や独自の文化を確立して、ようやく揺るぎない地位と自信を得たのであろう。ただ平家の場合はこれとは少し違うように見える。彼らも当初は、高貴な貴族から馬鹿にされ、疎まれ、同じ殿上人として列せられるのを、激しく阻止されたが、しかし急速に歌舞、音曲、和歌等の教養を身につけ、その振る舞いにおいて貴族化していくのであった。それはまた、彼らの武士としての活力を失わせる一因になったのであろう(以下次回)。

  • 6月14日・金曜日。晴れ。30℃に及ぶ夏日。熱暑の日々がいよいよ始まる。これに煽られて、都知事戦もまた熱戦になるのか。是非、都市の明日を開く建設的な政策論争を望む。国政では、例の政治資金規正法改正の審議が参院に移る。これまで自民は、その後の補選や知事選での連敗により、公明、維新の提案を呑み込み、小出しにしていた改正案を大分修正したようだが、まだ目的には程遠い。ただ、自民は分かった。国民は怒っている。このままではマズイ。ならば、今度は国民が選挙でその意志をハッキリ示すことだ。改革のボールは、いま国民が握っている。

    6月17日・月曜日。曇り。蒸し暑い。最近の世論調査によれば、自公より政権交代の数値が上回ったらしい。昼のニュースにそうあった。自公政権、危うし。

    この人物については、『徒然草』(1331年頃)226段に、信濃前司行長(藤原行長)に触れて、「此の行長入道、平家の物語を作りて生仏(しょうぶつ)といひける盲目に教えて、語らせけり。」との一文があり、これをもって作者とされることもあるらしい。だが、兼好はそう言うばかりで、資料も論拠も示しておらず、また『治承物語』から数えて百年後の言であれば、これをそのまま信ずる訳にはいかない(「解説」801頁)。さらには、彼以外にも何人かの名前が取りざたされ、要するに、上にも言ったように、作者はうっすらと推測されるばかりであり、さらには『治承』から『平家物語』への転成の過程で、夥しい法師の語りと共に新たな話も加わったとすれば、そこには「多くの作者」がいたと言ったほうがよさそうである。そう理解すれば、無残の死を遂げ、成仏できないまま宙に舞った多くの武者たちの霊が、一人一人の法師に取りついて、その無念を語らせ、こうしていつしか『物語』としての成立を見たのだ、と言ってみたくなる。

    かかる我が勝手な解釈はともあれ、『物語』を通読して思うことは、歴史的事件の由来と経過を、物語的な虚構と共に、克明に記し、それゆえ後世に対して歴史教育の意味を担った。こうして平家の栄華盛衰が、盲目の法師による見事な韻律的な語りによって、眼前に繰り広げられるのである。ある時は琵琶の音に載せられ、また独特の語りと詠唱が折り重なり、突如、転変して鏑矢の響きと軍馬の突進、大軍同士の喊声が沸き起こる。これを聴く者はいまや固唾をのみ、映像を眼前に見、彼らの喜び、苦悩や苦痛を己が身内に直接感じながら、物語と人々と一体となってのたうつのであろう。こうした臨場感は、琵琶を奏でる盲人法師だからこそである。往時、彼らこそ霊界を訪い、亡霊たちを現世に呼び寄せる霊能者であり、そうした霊界の存在は疑いようもなかったからである。小泉八雲の『耳なし芳一』の世界は、かくて現出されたのであろう(以下次回)。

  • 6月3日・月曜日。晴れ後曇り。時に雷雨あり。
    6月7日・金曜日。晴れ6月。
    6月10日・月曜日。曇り。

    『平家物語』の著者、成立時期はかなりのところまで推定されても、確定的なことは言えないらしい。ただしそうした書誌学的な話は、あまりに専門的に過ぎて筆者には扱いかねるため割愛する他ないが、現在流布本とされる「覚一本平家物語」(筆者の読んだ『物語』もこれを底本としている)は、「平曲」(へいきょく。琵琶の音に合わせて語られる平氏の物語)に新曲を加えて「一方流」(いちかたりゅう)を大成させた検校・覚一の功績である、とは言っておきたい。その故にであろう、彼は一方流の中興の祖とも評価されるらしい。この覚一が物語を口述筆記させ、弟子の検校・定一に譲与したのが「覚一本」であった。応安4(1371)年のことである。
    ここに至った経緯は、覚一すでに70歳を超え、彼亡き後、弟子たちによって物語が勝手に改変され、それがもとで争論の生ずることの無きよう、「当流ノ師説、伝授ノ秘訣、一字ヲ欠カズ」に筆記させ、これを唯一の正統本として残し、門外不出としたばかりか、門人内の書写すら絶対の禁止としたのである。この禁に「背ク者ハ、仏神三宝ノ冥罰、ソノ身二蒙ルベキノミ」とは、覚一のかけた呪いであった。
    それに以外にも、彼は「当道」なる盲人の職業保護を目的とする制度(中世以降、幕府によって公認された検校を頂点とする自治組織である。琵琶、鍼灸、筝曲、三弦などの団体があり、明治4年まで存続する)を創始した人とされ、足利尊氏の系譜に繋がる明石覚一その人ともされる。
    さて、この「覚一本」の原本は、いまや現存しないと言う。対して、あれほどの禁令にも拘らず、数種の写本が残され、そのお蔭をもって我が国のその後のあり様(宗教、文学、芸術、思想、死生観等々)に無限の余沢をもたらしたと言うのも皮肉だが、それとは別に、この話は人にとって秘密の保全がいかに難しいかを教えてくれる。
    『平家物語』には、その前身として、もはや存在しない『治承物語』(1220~40年の間に成立したとされる)と称された3巻ないし6巻からなる平家盛衰の軍記物があり、それが『平家物語』の素材や資料として、あるいは骨格をなしたことは確かであろうが、両者の類似性はそこまでのことではないかと、素人として、勝手なことを言っておく。覚一本になるまでにはすでに百年以上の時を経ているし、その間様々な話が加わり、法師の語りによって改変されていることは疑いないからである。そして、『治承』から『平家』への転成は、それまで語られていた覚一の受け継いできた様々な物語が「文筆に携わることの可能な晴眼の知識人の関与によってテキストにまとめられた」(「解説」790頁)ことが決定的ではなかったか。彼によって、『平家』が現存するような統一的な意思の下に文学作品として誕生しえたと思われるからである。では、その人物とは、誰か(以下次回)。