• 10月4日・金曜日。曇り後晴れ。過日の朝日新聞(夕、10/3)に「東京湾 南国色の危機」に添えて、奄美では珊瑚の白化の進行が報じられた。地球規模での温暖化は、今や容赦なく、その警鐘を人類は十分以上に聞かされているが、世界の取り組みは停滞している。この度の自民党総裁選では9人もの候補者が出ながら、その危機にふれた候補が一人もいなかったのはどういうことか。お歴々に伺いたい。今後さらに悪化する環境下にあって、どのようにして国民の生命、財産は保全されると言うのだろう。経済政策ばかりでは、視界があまりに狭すぎはしないか。

    10月8日・火曜日。雨。昨日、不順な天候と日頃の不摂生が祟り、夕刻までごろ寝で過ごす。とにかく起きてはいられぬ疲労であった。

    10月11日・金曜日。ニューヨークタイムズ(10/8)に「アマゾン川、枯渇」の記事を読む。広大な熱帯雨林を抱え、地球の呼吸機能を担う「世界の肺」とも称する、世界最大の河流地帯に危機が迫る。温暖化と乱伐が流域全体の旱魃を惹起し、河川水位の低下が船舶航行を妨げ、浚渫を余儀なくするが、それがさらに流域の破壊を来す。100年とは言わず、50年後の地球環境はどうなるのだろう。

    承前。さかのぼって、事故機の墜落(19時前後)は、すでに20分後には米軍輸送機によって認知されている。それを受けて、厚木基地から米海兵隊の救援ヘリが現場に急行し、隊員がロープで降下しようとしていたところ(21時前後)、在日米軍司令部から、「日本側が現在現場に向かっているので帰還せよ」との命令を受け、そのまま帰還したと言われている(「疑惑のはじまり」297頁)。だが、日本側の救援ヘリはついに来なかった。しかもその時点では、まだ何人かの生存者がいたのである。そのことは、救出された4人の生存者のうちの一人であり、たまたま乗客として乗っていた日航アシスタントパーサーの落合由美氏が、後に「自分の周りでは数人の子供たちの声が聞こえたがそのうち聞こえなくなった」と証言していることからも間違いない。

    救える命があった。だが、見殺しにされた。痛ましい話である。その時刻、現場は漆黒の闇であったろう。だが、米軍ヘリは隊員を下ろそうとしたのである。軍であれば、そんなことは造作もなかったはずだ。その後、現場上空では何機かのヘリが、一晩中探照灯を照らして舞っていた。著者はこれを自衛隊機だと推定している。そしてそれは、間違いではなかった。翌日からの自衛隊の活動は積極的であったからだ。

    だが、何故こんなことが起こったのだろう。NHKの報道は、かなりの視聴者からきちんとした情報を受けながら、事故現場の特定では相変わらず迷走し続け、まるで地元救援隊の接近を妨害し、それによって何かの時間稼ぎをはかっているかのようであった。

    何のための時間稼ぎか。膨大な資料に裏図けられた、著者の粘り強い推論を省略し、結論だけを言えばこうなる(当方、こんな風に結論を急ぐことは、良くないと承知はしているのだが)。墜落機は、当時、自衛隊が開発していた誘導ミサイル(炸薬非搭載)の実験のため、仮想標的とされ、それが相模湾上空で命中し、尾翼付近を破壊したのでは、との疑念が浮かぶ。ここにはこれだけではない、入り組んだ事情が絡む。というのは、事故機の機長が自衛隊の出身者であったからだ。そうであれば、何らかのトラブルになっても、事情を察し、自衛隊に迷惑のかからないような対応も出来よう。さらに言えば、機長は標的機になりうることを、何らかの形で伝えられていたかもしれないのだ。 以上は一つの推定であり、可能性の話でしかない。しかし、残された資料、周辺の状況から推して、これは唐突な作り話ではない。とすれば、これは単なる事故どころではない。事故機は国家防衛に関わる、誘導ミサイル開発という国家プロジェクトの実験機として選ばれたのである(以下次回)。

  • 9月30日・月曜日。曇り。時に蒸し暑く、また肌寒い。応対に困る陽気である。

    承前。著者は火炎放射器の使用を断言してはいない。まず、ドロドロにまで溶解された金属塊の存在と、それに付着する黒い物質の諸成分の分析から、こうした溶解を可能にする燃料・ベンゼンが想定される。次いで、これは元来現場には存在するものでは無く、それゆえ外部から持ち込まれる他はない燃料であり、そしてこれを使用する火器の一つとして、たとえば火炎放射器が上げられたのである。

    だが、火炎放射器とは、御巣鷹山にはいかにも唐突であり、それ以上に不気味である。しかし、事故当日のその夜、現場上空では夜通し、探照灯をつけた何機かのヘリコプターが舞っていたとの現場近辺の住民たちの声、それらを記す文書が残されているのである。しかもこれらの証言は、現場近辺の状況を、ただありのまま伝えた住民の声であり、小中学生の文集に残された文書でもあれば、これを疑う理由は何もない。つまり、その夜のことは事実であったのである。

    では、ヘリコプターは何故そこに飛んでいたのか。それは何者なのか。この時間、ジェット旅客機の墜落事故のニュースが列島中を覆い、しかもその現場は依然として特定されていなかった。NHKでは長野県沿いの山並みが伝えられ、さらにその場所は迷走する。だが、地元民はいち早く、現場は長野ではなく、群馬の御巣鷹であることを特定し、住民の何人かは、中学生も含めて、わざわざNHKに連絡し、局はそれに対して「有り難うございます」との一言を返すのである。通報した生徒は、これで安心したと思ったが、しかし放送は訂正されないままであった。実に、奇怪な話ではないか。5百名の人命がかかる、一刻を争う報告である。

    これらが語っていることは何か。事故上空を舞うヘリコプターは、現場はどこで、何が生じていたかを、すでに正確に知っていた。NHKは意図的に誤情報をながした疑いが高い。現場付近の救援隊の到着を遅延させるためであろう。こんな大掛かりなことが出来るのは、国の実力部隊、自衛隊しかあり得ないではないか。これが著者の論旨である(以下次回)。

  • 9月25日・水曜日。雨。一週間前のあの暑さが懐かしいような肌寒さである。思わずジャケットを羽織る。そんな折、買い物で傘を失くす。大ぶりの日傘兼用で、杖代わりとしても重宝していた。嗚呼、ッと強く地を蹴る。支払いの際、カウンターに掛けたのが不味かった。店を出、ハッと気づいて戻りかけたところ、出口で傘を手にする爺さんを見、ヤラレタ、と覚悟した。念のため、料金所を見てみたが、やはり無い。現行犯ではないし、見逃すほかないが、深い恨みと呪いの念を送ってやった。そして、悪事はどんなに上手くやったと思っていても、こうして誰かが見ているからなと、わが身にとくと言い聞かせたところだ。ご用心あれ。

    9月27日・金曜日。雨。

    承前。まず、陰惨な諸事実とはどういうものか。機体から放り出され、かなりの範囲に四散した遺体の内の何体かが激しく炭化し、まるで二度焼きされたような状態であったことである。これには、現場に立ち会った多くの医師、地元の消防団員が、ジェット機の燃料とはこれほどの燃焼力なのかと一様に驚かされた。だが、実のところ、ジェット機に使用される燃料は、安全性への配慮もあってであろうか、ガソリンとは違い、揮発性の低いケロシンという灯油に近い種類のもので、とても人体を一瞬にして焼尽くすような火力はないという。ましてや、湿気の高い夏山で、腹も背もカリカリになるようなことが、どうすれば可能なのかと訝かられた。

    事故現場では、今でもその気になれば、事故の残骸物が発見できるらしい。であれば、当時はなおのこと、墜落事故の「真相を語る」「遺物」の発見に事欠かなかったであろう。そんな一つとして、著者は上野村村長から、「いつの日か大学などの研究機関で成分の分析をしてほしい」との言葉が添えられた、ある「塊」を手にする。それは不気味というより、「必死に語りかけてくる「何か」を感じざるを得」ない物体であり、一見、「複雑怪奇な形」をした「マグマが固まって冷めた岩」のようなものである。これを、世界的に権威のある金属材料の研究者によって、成分分析される機会をようやく得ることが出来た。

    その結果は、実に驚くべきものであった。ここで結論だけを記せば、こうである。一見、岩石とみられた塊は、「金属がドロドロに溶け」て固まった物質であり、アルミ合金の可能性が高く、事故現場から発見されたことから、それは墜落機の残骸物とみる他はない。塊の表面に付着する「黒い物質」の成分からは、大量のベンゼンが検出された。これはガソリンには含まれているが、当時の民間航空機の燃料にはまず含まれないものである。くわえて多量の硫黄分他多くの成分も検出され、これらが合わさり「黒い部分」が構成されたと推定されるが、いずれにせよこれらはジェット燃料とは全く異質の素材であることは疑いない。先にも言ったが、ジェット燃料には金属をドロドロにするような火力はないからである。そして、著者は検出された諸成分から、非常に強い火力、たとえば火炎放射器に類する何かがが使用された可能性を指摘するのである(以下次回)。

  • 9月11日・水曜日。晴れ。ただ暑い。
    9月13日・金曜日。晴れ。異常な暑さが続く。

    この所、腰痛に苦しむ。いちいちの起居の痛苦は言うに及ばず、咳の一つにも怯える始末。咳き込むと背中一面を槍でつつき回されるような激痛が走る。こんな久しぶりの懲罰を受けているが、当方、それがいかなる悪因によって蒙った悪果であるのか、いまだ不明だ。とは言え、今日までのわが所業を顧みれば、そのネタに困るような身ではなく、いずれその訳も自ずと判明するだろう。こんな思いに捉われるとは、筆者はいまだ平家物語の世界を引きずっているらしい。
    たしかに、わが身の被る難儀は、身から出た錆、因果応報と諦めるにせよ、世の中を見回せば、こんな罰ではとても帳尻の合いそうもない悪事に首まで漬かりながら、何の咎めもないばかりか、栄華の日々を堪能し、あるいはそのまま逃げ切って鬼籍に入った御仁も多いように見える。許せん。閻魔よ、地獄の獄卒どもよ、抜かるな、そんな奴バラの一匹とて逃してはなるまいぞ。
    と、マア、こんな事に思い至ったのも、森永卓郎氏が命懸けで書き、出版社は氏と共に滅ぼされる覚悟までして出版したという、『書いてはいけない』(フォレスト出版社)を通じて教えられた、青山透子『日航123便墜落』に関わる3冊の文庫本(「疑惑のはじまり」、「新事実」、「遺物は真相を語る」。いずれも河出文庫出版)に触発されたからである。
    ここで上記3冊の紹介は、やり始めれば、内容上、とても手短にという分けにはいかず、止む無く省略したい。ただ、そのエッセンスだけでも知りたいとの読者には、森永氏の同書、3章を一読されたい。
    筆者には、ただ御巣鷹山での日航機墜落とのみ記憶されていたこの事故は、1985年8月12日に発生し、今年で39年にもなる。乗員、乗客合わせて524名(幼児12名を含む)の内、4名の生存者を除く520名の犠牲者を出し、単独機としては史上最大の航空機事故であった。
    その第一原因は機内のR5ドア(客室内の最後尾のドア)が爆破、破損し、機内の「気圧が下がり、吹き飛んだドアが水平尾翼や垂直板などを破壊、操縦不能に陥った」ことによる。では何故そんな事が起こったのか。1976年、同機は大阪空港での着陸の際、尻もち事故を起こし、その修理が十全でなかったからである。つまり、それは手抜きであった。修理は日本に派遣されたボーイング社の専門チームが行ったが、その際「各室と尾翼構造部分を遮蔽している与圧隔壁の修理に二列のリベットを打つべきところを一列に打ったままにとどめたこと」によって、隔壁の強度が弱化し、それが垂直尾翼を吹き飛ばす原因となった。次いで、この手抜き整備を見逃した日航および運輸省のずさんさも非難されなければならない(「疑惑のはじまり」228頁以下)。
    こうした説明が、当時、各メディアを通じてなされ、筆者もそういうことかと得心し、今日まで来たのである。だが、実際はそうではなかったらしい。青山氏の著書は粘り強く、事故の経緯とその詳細を明らかにしていくが、そこから予想だにしない陰惨な諸事実が浮かび上がって来たのである(以下次回)。

  • 8月26日・月曜日。晴れ。厳しい暑さが続く。ただ、夜半の風に秋の涼味を感ずる一瞬あり。いよいよ秋口。

    9月2日・月曜日。晴れ。残暑の厳しさは、とても長月のそれとは思えぬ。酩酊台風、ようやく消滅。列島の被害は尋常でなく、しかもこれが今後も続くとなると、逃げ場もない。くわえて南海トラフ地震の恐怖が迫る。旧約の預言者たちなら、「イスラエルよ、悔い改めよ」と呼ばわるに違いない。

    これまで長々と関わってきたこの話を終えるときとなったが、その前に一点、気になる問題、つまり因果応報と因果関係について触れておきたい。後者は、簡単に言えば(正確に論ずるには、筆者の手に余る問題である)、ある原因はある結果を生じさせるという関係であり、その関係が定型的に常に認められる場合に因果法則の言葉が使われる。これに対して、前者は人の行為の善悪に応じて、善果・悪果の結果を招くというものである。ここでは、いずれも原因に応じた結果を引き起こすと言っていることから、類似した主張のように見えるが、両者は全く異なる概念であると言っておきたい。

    たとえば水は、一気圧の時、100度で沸騰し、0度で氷結する。これは水(H2O)の特性によるものであり、客観的な事象である。そうした事象間の関係を捉え、数量化して、法則性を認識しようとする。この営みを科学するといい、このように、諸事象の客観的な認識を目指すという点で、自然科学、社会科学も変わりはない。 

    これに対して、因果応報は人間の心意に発する善悪に応じて、その結果が当の人間に降りかかると見なすものである。だからこそ、ひとは後の悪果を免れようとすれば、己の心を律し、そのために「菩薩十善戒」の修行に励むのであろう。では誰がそうした結果を与えるのか。それは神からの賞罰、すなわち果報・神罰と言われるが、仏教では神を認めない。筆者にはよく分からないことながら、この因果応報の定めは、宇宙の開闢以来、そこに埋め込まれた法あるいは掟であり、これこそ仏法と言ったものなのだろうと考えたい。とすれば、これは上で見たような、客観的に検証されるような認識ではない。

    事実、平家滅亡の物語は、清盛はじめ一門の驕り高ぶる心意がもとになった因果応報の歴史であって、そこでは平家の繫栄や衰亡の経済的、政治的な諸条件や事実関係への関心はまるでない。それ故それは時系列的な記述ではあっても、歴史学的認識にはなり得ない。

    最後にもう一点。平家物語では実に夥しい数の人間が乱舞し、入り組んだ悲喜劇を展開する。その多くは一場限りの舞台ながら、しかしそこに登場した役者たちは、たとえば那須与一のように、いずれも精一杯の光芒を放つ。これも物語の魅力の一つであろう。ここではその一例として安徳(八歳)が祖母に抱かれて入水する場面を、あえて原文で掲げてこの主題を終えることにしたい(清盛の最後の場面も印象深い一場である)。

    事は決し、最早逃れる術はないと覚悟した二位殿(清盛の妻、時子)は敵方の縄目の恥辱を受けまいと、入水を覚悟する。いそぎ神璽、宝剣を身にまとい、孫を胸にひしと抱きしめ、船端に立つ。安徳驚いて

    「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」と仰せければ、いとけなき君にむかひ奉り、涙をおさえて申されけるは、

    「君はいまだしろしめされさぶらはずや、先世の十全戒行の御力によっていま万乗の主と生れさせ給えども、悪縁にひかれて、御運すでに突きさせ給ひぬ。まづ東にむかわせ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからむとおぼしめし、西にむかわせ給ひて御念仏さぶらふべし。この国は粟散辺地(ぞくさんへんじ)とて心憂きさかひにてさぶらへば、極楽浄土とめでたき処へ具し参らせさぶらふぞ」

    と泣く泣く申させ給ひければ、山鳩色の御衣にびんづら結わせ給ひて御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあわせ、まず東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、

    「浪の下にも都のさぶらふぞ」

    となぐさめ奉って、千尋の底へぞ入り給ふ(前掲書『平家物語』四「先帝身投」363-4頁)。

    読みにくいことを承知の上で、原文を引いたが、そのリズムを味わっていただけたら幸いである。なお、「粟散辺地」とは、インド、中国の大陸を中心とすれば、日本は辺鄙で遠隔の地にある粟粒を散らしたような小国にすぎぬという意味、と「語釈」にある(この項、終わり)。