• 7月24日・月曜日。薄曇り。ただし、鍋底で蒸し煮にされているような暑さなり。

    それにしても、七三一部隊は何故あれほどの惨い実験をやってのけられたのであろう。彼らのほとんどは軍医か東大、京都をはじめとするトップクラスの医学部出身の医者であり、戦後はそれぞれの出身大学の重鎮として学部長等を歴任し、わが国医学界の指導的な地位につく人びとも少なくはなかったという。しかも彼らの学問的な成果は、密かに持ち帰った生体実験の資料・データに負うところも大いにあったようである(常石敬一前掲書)。

    とすれば、彼らには生命に対する畏怖の念は一片もなく、医者になる資格はまるでなかった。彼らの行状は厳しく糾弾され、その責任を問うのは当然であったが、同時にその状況に身を置けば誰でもそうせざるを得ないような戦争の狂気、恐ろしさをも思うべきであるかも知れない。

    しかし、彼らとて、最初から「鬼畜」であった分けではない。初めての実験に立ち会い、一連の処置を命じられた時には身は震え、おぞ気を覚えた。回数を重ねるうちに麻痺したとの報告もある。この麻痺と戦争の大義が人間として守るべき禁忌から彼らを解放し、恐るべき深淵へと追いやったのであろう。その背後には、軍部や日本人の抱く中国人に対する徹底した蔑視感情、それに基づく彼らへの優越感、つまり何をしても彼らは我々日本人の敵ではないとする夜郎自大な尊大さがあった。だから部隊は犠牲者たちを人間扱いする必要はなかった。彼らは単なる実験材料であり、そこでは名前を失い、番号化され、一本一本の「丸太」となった。こうして部隊や軍部の精神的荒廃は留まるところを知らなかった。

    次の証言はその事を間接的に証明するであろう。七三一部隊と共に今一つの極秘の研究所が1937(昭和12)年、現在は明治大学生田キャンパスの地に登戸研究所が創設されている(その前史はここでは省略する。なお本研究所の全貌が明るみになるのは、平成になってからの事で、それゆえか、私の所有する日本国語大辞典、広辞苑他にもいまだこれは収載されていない)。ここでも細菌研究はあったが、他に生物化学兵器などの特殊破壊兵器の研究がなされ、その中に風船爆弾の開発があった。これはかなりの数で製作され、実際にアメリカ本土に向けて飛ばされた。この風船には当初、毒性化合物や細菌爆弾を搭載する案が練られ、アメリカ軍もそれを恐れたようである。西部防衛軍W・H・ウィルバーは言う。風船爆弾が「1945年の3月のように、平均一日100個の割合で放流され続け、少数の大型爆弾の代わりに数百個の小型焼夷弾を付けるか、人間や牛馬に病気をまき散らす細菌、農作物や植物を枯らす薬剤がしかけられていたならば、全米は恐るべき惨禍に見舞われたに違いない」(木下建蔵『日本の謀略機関 陸軍登戸研究所』119頁・文芸社・2016)。日本軍はここで言われるように、あえて米本土の被害の拡大を抑制した対応を取ったが、それは米からの徹底的かつ広範な報復を恐れたからである。

    中国本土ではそんな事を危惧する必要は全くなく、だから軍はやりたい放題、まさに傍若無人にふるまえたわけであった。しかし、今や潮目は変わったのである(以下次回)。

  • 7月12日・水曜日。炎暑極まりなし。

    7月18日・月曜日。本日、晴れのような、曇りのような、そして、ゲリラ雨。

    だが、先の医師の言葉には考えさせられる。目的のためには手段は択ばぬ。目的による手段の浄化、という考え方である。これは私には、今なお悩ましく、解決され難い思考である。国家の生存をかけた戦争の場合、勝利は至上命題であり、敗北は考えてはならない。そんな敗北主義は、国家の消滅でしかないからだ。であれば、勝利のためにはすべてが許され、結局、原子爆弾はじめ大量破壊兵器の開発、使用も制限される必要はない。これは分かりやすい理屈であり、現実もそうなっている。現在、曲がりなりにも核爆弾の使用が自制されているのも、ただ相手国からの報復の恐れからだけであり、ここに核抑止力の理屈が成り立つ。これが正しければ、すべての国が核所有国を目指し、相手より一歩でも破壊力のある核開発に邁進する他はなかろう。こう見ると、現在の世界の平和(?)は誠に危ういバランスの上にある。

    この論理が支配するところでは、戦争というのっぴきならない事態のみならず、人間生活のあらゆる分野においても、これは正当化され、是認される理屈であろう。事業活動にしても、利益のためには脱法すれすれの如何なる商売も許される。そのようにして稼がなければ、他社に抜かれて、事業の存立が危うくされる、という訳である。そんな激烈な競争の結果は、われわれの生活基盤そのものの破壊に至りはしないか。地球温暖化、環境破壊はその一例に過ぎないだろう。というのも、現代人の駆使する科学技術、機械力は、どこか牧歌的であった19世紀のそれとはまるで次元を異にし、最早自然の自己回復力を遥かに越える破壊力を持つに至ったからである。そしてここにあるのは、結局、弱肉強食の世界であり、強者にはすべてが許されるばかりか、こうして喰いつくされるオマエが悪いという思考、論理である。「アメリカファースト」は、これを一語で表した見事な標語に見える。だが、そこに救いはあるのか。

    強者に食われる弱者は、しかし、ただ殲滅され、滅び去る他ない存在なのであろうか。強者とて彼らを食らうことでしか、生き残る他はなく、であれば強者の生存のためには、弱者は食い尽くされてはならないからだ。これが森林(海洋)の掟ではないのか。そのような互いの連鎖の中で自然の世界は守られているのだろう。この事実を動物界は良く知っており、彼らと生を共にしてきた民族はこの道を踏み外すことはなかったようである。だからそこでの生活は平穏であり、調和がとれ、持続的である(そうした彼らの生活を知ろうとすれば、ここでは先ず池澤夏樹『静かな大地』(朝日文庫)に描かれたアイヌの生活、その考え方を挙げておきたい)。

    この問題はここまでにし、話を元に戻そう。その話の始まりは、わが国が中国東北地方、つまり満州に進出し、満州国を建国して日中戦争(支那事変)の泥沼にはまり込む直前、ハルピンに広大な生体実験施設を建設し、そこで繰り広げられた、各種の細菌に絡む惨たらしい人体実験であった。では、時満ちて潮目が変わり、両者の立場が入れ替わるとき、事態はどうなるであろう。次回ではこれについて私なりに考えてみたい。

  • 7月3日・月曜日。早くも猛暑。日盛りを歩くと朦朧とセリ。

    これほどの人体実験を平然と大規模かつ組織的に行うというのは、軍関係の組織以外には考えられない。ならばヒットラーかスターリンか。彼らの暴虐も人後に落ちないが、ここでは違う。わが誉れ高き皇軍の許に、軍医石井四郎少将(敗戦時・中将)が、昭和8(1933)年、ハルピンに創設した731部隊(正式名称・関東軍防疫給水部本部)による、中国人に対してなされた多くの生体実験の一部である。

    当本部の規模と施設の充実ぶりは、想像をこえる。なにしろ、様々な資材や実験材料等の効率的な輸送を可能にする鉄道やら飛行場を持ち、大量の被験者(犠牲者)の収容所、多様な細菌培養、人体実験用の施術設備を擁し、これに研究者、家族、使用人の居住地が加わるのである。

    ここでなされた人体実験の概要は、常石敬一『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』(講談社現代新書・2015)をご覧頂きたいが、その例を2,3挙げれば、炭疽、ボツリヌス、コレラ、赤痢、ふぐ毒、ガス壊疽他25種に及び、犠牲者は850人が挙げられている(133頁)。その他生体解剖も行われたれたようで、その酷さは目を覆う。こうした酸鼻の極みとも言うべき惨状は、森村誠一『悪魔の飽食』(角川文庫・上下、1983)にも詳しい。

    常石氏は、こうした生体実験に実際に関わった医師の言葉を紹介している。「罪の意識はないんですよ。悪いとは思はないんですよ。だって天皇の命令で、その時信じてやったのだし、勝利のためなんだから悪くないんだと、細菌だっていいんだと私は思ったし、石井四郎に尊敬の念を持ったんですから」(100頁)。もちろん彼は、今なおこんな心情でいる分けではない。むしろ逆である。人々に対して彼がこうした告白を続けるのは、戦争の歴史を風化させず「日中の末永い友好を実現」するためである、と著者は言う。

  • 6月26日・月曜日。曇り。九州地方、打ち続く豪雨禍にあり、関東は相変わらずの空梅雨。

    かなり衝撃的な文章をお読み頂こう。凍傷の人体実験の様子である。

    「実験は通常、夜間マイナス数十度の屋外で、裸の腕をマイナス数度の溶液の中に肘まで漬けさせる。溶液が凍りつく前に引き上げて、そのまま外気にさらさせる。外気の気温が高ければ扇風機で風を送る。こうして腕を凍傷に、すなわち腕の組織を凍らせた。腕の組織が凍っているかどうかは外見的にははっきりしない。…被験者の腕が完全に凍ったかどうかを確認するために、こん棒で腕を叩いた。鈍い音がすれば風を吹きつけ続け、乾いた音であれば、凍りついた完全な凍傷となったわけであり、新しい治療法を試してみた。」

    それがどれ程の苦痛であるかは、つぎの一事から明らかである。この実験者はそのプロセスを自ら体験しようと、己が足の指一本を凍傷にしてみたが、苦痛のあまり卒倒したと報告する。その後これは完治する「きわめて軽度の凍傷」にすぎなかったのにである。

    組織の凍結が凍傷であれば、その解凍は治療策であるはずだ。それには湯による解凍が「最良の方法」ではなかろうか。だがそれにはそれなりの手順、温度などの条件があろう。従来、凍傷はいきなり温めてはならないと言われている通りだ。では、それは如何なるものであろう。

    こうして解凍の実験が行われていく。「温度が高いほど解凍は容易で、早いはずだ。しかしあまり高温では、組織が全部脱落し、骨が残るだけになってしまう。十度くらいから始めて四十度くらいまでは、解凍に必要な時間に長短はあっても問題はなく進んだはずだ。しかし、効率的な治療のためにはたとえ一度でも、高い温度の解凍が必要だ。その限界をどうしても見極めたい。だが五十度を越えると、腕の皮膚、そして肉が脱落していった。こうしたことには個人差がつきもので、四十五度でも組織の脱落が始まる人もいただろう。凍傷の「実験」あるいは「研究」を目撃した人は、片方の腕の骨が露出している」被験者が、「残った他方の腕を冷水に浸す、あるいは扇風機の風にさらすことを強制されるのを見ている」。

    そうした陰惨な実験から、凍傷の治療には「体温程度の温水に浸すのが一番である、四十五度くらいまでは危険が少ないが、五十度以上の温水を使用してはならない」との結論がえられた。ここに至るまでに、どれ程の犠牲者が苦しめられたかを思うと、言葉を失する。同時に、人間は人間に対してこれ程までに冷酷、残忍になりうるものであると知れば、わが身内にも同じ血が流れ、同じ人間であり、ならば事情によっては同じ挙に出ると思うと、慄然とし、我ながら恐怖を覚える。

    それにしても、これは誰による、誰に対する実験であったのか(以下次回)。

  • 6月19日・月曜日。快晴。暑し。

    では今後は、ある人について「警察が脅威になりうると判断」するのは、いつ、どの様な状況においてであろうか。これまでは、ある人が違法行為を為したその時点で、彼は犯罪者として捜査の対象者となった。とすれば、「脅威になりうる」人ではなく、「脅威になった」人、つまり犯罪行為者であった(もっとも、前記のように、警察は従来から「容疑の有無にかかわらず」ある人々を監視してきたが、今後それは一層強化されると、かつての現場の責任者は見ている)。

    犯罪にはれっきとした事実があり、それに基づき捜査され、容疑者、犯罪者が特定されるのに対して、未遂の容疑者とはどのようにして特定されるのであろうか。今回の法律では、277の行為が処罰対象になると言うが、そこには墓の盗掘とか山菜採りまで含まれている。その説明は真面目な思索、審議の結果とはとても思えない、クイズか頓智問答の類である。二人以上の人が集まり、相談し、会費を集め、現場の下見をする。そして、花見に出かけた。敷物を持ち、双眼鏡を持参するかも知れない。この限り、これが花見か、犯罪行為か、誰も見分けることは出来ないだろう。金田法相は当初、双眼鏡のような物の持参は疑わしく、そのように容疑の有無は「持ち物などの外形的な事情などから判断する」としていたが、後にこれはさすがに不味いと思ったか、それは「主観的の認定なくして認められない」と答弁を変更したのである。

    花見の集団は純粋に花見を楽しむためかも知れない。しかし、そこにはあるタクラミが潜んでいるやもしれぬ。外見からこれを判定することは不可能である。金田氏とて、その事情はお分かりになったようである。ならばドウする。各人の心の中を見なくてはならないだろう。「内心の自由を侵すことでない」との西田議員の主張は、法相の発言によって否定されたと言いたい。

    では、主観的の認定はどう為されるのか。「政府のやることに反対」しそうな、その意味で警察から怪しいとニラマレタ人々に対し、犯罪行為のある前から、網を張り、その知人、友人たちから、細大漏らさぬ情報を収集する方法である。われわれは、その網がどれほどの広がりと深さになりうるかを、ソルジェニッチンから知っている。それは誰をも信ずることが出来ない「密告社会」の到来である(池内 了氏)。まだある。「通信傍受などの捜査手法の拡大」である(青木 理氏)。現在、ソルジェニッチンとは比較にならない各種機器の発達は、当局にとって想像を絶する武器を提供するであろう。ここに成立する密告社会は戦前のそれとは質的にも量的にも異なる恐るべき社会、もしかしたらオーウエルの「1984年」の国家を彷彿させるような社会にならないだろうか。今や、現実がフィクションに追いつき、追い抜きつつある、と言ったらよいのか。私の不安は単なる杞憂ではない。公安部門を担当した元検察官は言う。この「法律ができたことは有意義だが、通信傍受の拡大などがないと有効につかえない」。まさに、青木氏の言葉を裏打ちしているようではないか。これに対して、アナタはどうする。今後は、それが問われている(この項終わり)。