• 1月25日・金曜日。薄曇り。風強く、寒し。

     

    前回を受けて、何方かの参考のために引き続き「携帯紛失顛末記」を記しておきたい。先ず、紛失した携帯電話機は、本日無事、我が手元に引き取った。飯田橋の警視庁遺失物センターに赴き、ドコモから送られた書状、公的な身分証明書を提示し、書類に認印を押すと、待つ事20分ほどで返却された。郵送用紙には、同センターに保管されたのが、21日・月曜日とあり、また、「地鉄」の文字が見えることから、紛失場所は地下鉄車内である。私は確かに13日・日曜日の23時頃、半蔵門線の車内におり、その30分後には春日部の我が陋屋にご帰還であった。思うに、その時座席に落ちた携帯機は一旦、地下鉄の遺失物センターに送られ、その後警視庁遺失物センターに移されたのではないか。それが一週間の期間であった。私がドコモに通信止めにしたのは、紛失に気付いた14日・月曜日の深夜であり、丸々一日の無防備な時間があったことになる。

    引き取った携帯にはかなりの名簿が残っている。そのデータは移さなければならない。飯田橋のドコモショップに行って、その旨を告げるとご自分でやっていただきたいと、機械の前に連れて行かれ、オッポリ出された。途方に暮れてまごまごしていても知らん顔。完全予約制でカネにもならんと思われたのだろうか。外堀道り沿いのドコモショップであった。

    憤然とした面持ちで、早稲田の事務所で事の仔細をいえば、穴八幡神社向かいのドコモショップを教えられる。ここは親切で間違いはない、とのお墨付き。先と同様の説明をすれば、我が為すべき最小の手続き(ドコモに届け出た4桁の数字の入力と電話番号、住所の記載)のほかは、通信止めの解除から新規の携帯機へのデータ入力、バックアップ用に買ったチップに名簿の入力にいたるまで誠に手際のいいサービスであった。第一、紛失機のデータ解除なぞ私ができる事ではない。NTTドコモとのやり取りがあっての事であるとはその時初めて知った。とすれば、先の場合はナンだったのだろう。コッチの説明が悪かったのか、いい加減に聞いていたのであろうか。しかし、私の説明は同じだったのだが。

    それにしても、NTTドコモ直営のドコモショップは一店舗もないと、先日、はじめて知った。この限り、NTTドコモは各店舗の指導、経営には直接の責任を負わないということになろう。ショップのオーナーはNTTドコモにノレン代を納め、あとは自助努力によって頑張ることになる。当てれば儲かるし、外せば潰れる。こう見ればショップの盛衰ぶりはよく分かる。au、ソフトバンクも仕組みは同じであろう。まずは親会社同士のシェア争いがあり、そのもとに系列内のショップ間の競争が続く。そのいずれも容赦のない戦いであるに違いない。こうして、国民はどれかの端末機をいやでも買わされ、ヒョンナことで紛失すれば今回の私のように、不安のあまり寝もやらずジタバタさせられるのである。しかし、考えてみれば、普通の人々が瞬時にやり取りしなければならないような切羽詰まった情報がどれだけあろうか。確かに便利であるが、その便利のために命を削るほどのものがあるのか。電車内やホーム、あるいは人混みのなかで見ている情報はそれほどに大事なのであろうか。そんな事を思うと、我々は何か得体の知れないモノにとりつかれ、操られているのではないのか?一度、ジックリと考えた方がイイのではと、つくづく思わされたことである。

  • 1月22日・火曜日。晴れ。

     

    新年早々、情けない話二題。前便を配信した辺りに風邪をひき、二日ほど寝込んだ。だがいまだ咳が残り、一週間前に処方された四種の薬はほぼ尽きた。その中の鎮咳剤が特にいけない。毎食後二錠服用とあり、律儀にこれを守ると、程なく懈怠と眠気に襲われ、たちまち意識混濁に堕ちる。これを押して活字を追っても詮無いことで、とても理解できるモノでは無い。当初、これに気づかず頑張った挙句、オレはとうとうバカになったと、かなり落ち込んだが、歳による衰えは確かにしても、それだけでは無いらしいとやや安堵する。かくて本日、漸く出社に及んだ次第である。なお、風邪の元凶は孫娘で、学校から運んできたのだが、そこで「おマエのせいで風邪ひいた」と言えば、「アラ、ヨカッタワネ」と一片の同情もないには、これもマイッタ。

    あと一話は、これも悲惨。その同じ頃、携帯電話機が見当たらない。家探しをするも発見できない。失くしたかと、ガックリ。紛失した翌日の深夜のことである。呆然としながら手帳を繰れば、こんな事もあろうかと何年か前に記した、それ専用のドコモの番号を発見。こんな時間に繋がるものかと訝りながら問い合わせると、応答があった。まさに天からの救いの声であった。早速、通信止めとし、その後の手続きを聴けば、警察に届け、受けた書類を持ってドコモに行けば購入できるという。

    翌日、病院の後、朦朧としながら、春日部のドコモショップで必要な手続きを取る。二日後、紛失したと全く同じガラケイが来た(番号・メールアドレスは従前の通り)。この際だから、スマホデビューを考えなかった分けでも無いが、店員がわが顔を見てかどうか、頻りにこれを勧めるので従ったまでである。余程、頼りないと思われたのであろう。

    かくて、今や以前のデータを全て失い、少しづつ復元している最中であるが、昨日ドコモセンター(?)から連絡があり、失くした携帯電話は無事、警視庁遺失物センターに保管されているとの報を受けた。どうやら、これ以上の被害の拡大を防げたらしいことに、まず感謝する。勿論、こんな思いは二度と御免だが、今後、こんな事に出会った人には、私なりの有効なアドバイスをしてやれるかも知れない、と思えばよい経験であった、と負け惜しみを言っておこう。そして、新年早々の詰まらぬゴタゴタであったが、これは今年の厄落としで、本日以降、我が生活は隆盛の一途をたどるに違いないと、神にも仏にもすがってやってまいりたい。

    と言う次第で、本日は「社会のたたみ方」の論考は、休載とさせて頂いた。

  • 2019年1月9日・水曜日。曇り、風強し。本日、仕事始め。

     

    明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。我が正月はただ賀状の返信に明け暮れ、松が取れる頃に終了となるのは、例年の通りですが、今年、この年中行事がともかくこなせた事に安堵する思いを、初めて味わいました。今年を以って終了、と言う賀状をしばし頂戴したからです。それは我が身も同じで、来年は突如そんな心境になるやも知れぬと思えば、今出来ることを、ともかく大事にしよう、これを本年のささやかな決意とします。

    さて、金沢の町づくりとその為の努力は、観光都市を建設し、そこから潤沢な財源をひねり出そうと意図した分けではまるで無い。順序は全く逆である。いくつもの市条例を重ね、市行政と市民や事業者らとの絶え間ない対話を通じ、何よりも住民にとって暮らしやすい町づくりを第一とし、こうして他ではない金沢「らしさ」の在る町が出来上がった。その結果、そんな町を見てみたい、行ってみたいと思う人々が訪れると言うことなのであろう。誤解の無いように、この点を特に補足しておきたい。

    以上、筆者が言いたかったことは、町づくりとは住民の理解と合意、それに基づく協力、支援が第一の要点であり、これを欠けば行政のいかに立派な指導や計画も画餅に帰する。この事は、先の村落の廃村についても繰り返し触れたことである。この点を改めて確認し、以下では今少し具体的に町づくりの骨子を辿ることにしよう。その手がかりを矢作 弘『縮小都市の挑戦』(岩波新書、2014)に求めたい(以下次回)。

  • 12月20日・木曜日。曇り。この三日間、孫娘の反乱は一先ず収束し、ともかく登校す。明後日より冬休み。この間、わが家は当人を含めて、次期の戦いに備えて休養します。ご心配の向きには、この場を借りて、ご報告かたがた御礼申し上げます。

    12月26日・水曜日。晴れ。昨日、付属Ǹ学園の理事会を終え、今年の大学関係の仕事を納める。残るは当欄のしまい方である。果たして、無事納まるのだろうか。

    12月28日・金曜日。晴れ。本日、クリエイトの仕事納め。よって当欄も今日中に何が何でもケリを付けねばならない。

     

    適度な広がりを持ち、一方で海に開かれ、他方に山々が囲み、清流浅野川、犀川の恵みと、そこから引かれた用水や細流が起伏に富む台地を清め、緑を育む。こうした環境の中で、そこに住まう人々を越えて、世界に共感される、掛け替えのない町・金沢が今にある。そのような町として存続し得たには、何よりもこれまで戦火を免れ、長い歴史の翻弄を掻いくぐり、無数に絡む因果の糸玉が現在に導いた多くの僥倖の結果であろう。

    同市を表層的に見れば、そう言えるかもしれない。そして、金沢の今が在るのは、恵まれた環境と歴史的、文化的遺産の故であり、要するに金沢は恵まれていたのである。他市がそれを参考にし、真似る事は出来ない。しかし、このような言葉や見方は、当市を現在にまで至らしめた住民たちの努力を無視した、不当な言という他はない。ここで言う住民たちとは、子供たちを含めた生活者、経済人、行政、各種表現者や研究者等々の全てである。

    今から4年前の2015年3月、念願の北陸新幹線が金沢まで延伸した。その後の観光客数はインバウンド(訪日外国人旅行)効果もあって、飛躍的に増加し、この3年間はいずれも1000万人台を維持している。これは開通直前の14年の2割増であるという。かくて、先ずは観光関連産業から始まる経済的波及効果は甚大であるに違いない。

    となれば、それを見越して、交通体系の改善、宿泊施設の増設、商業地域の拡大やそのための土地取得等が必要となり、行政は行政の立場から、経済界はその思惑から様々な計画が早くから練られてきたであろう。当然、対象となる地域や土地の経済価値は上昇し、歓光業とは直接関係の無い住民たちの資産や暮らし方にも陰に陽に影響したであろう。

    事実、そうした事態や可能性は、金沢に限らず、どの都市でも常に在る。経済発展の見込みと共に、市内外の資本がマンション、ホテル用の土地として買収に動き、地権者の側も事情次第で、渡りに船とばかりに手放すことは合理的な商行為であり、非難される言われはない。そんな土地が時至るまで駐車場やら空き地となって放置され、やがてマンション、雑居ビル街に変り果てる。こうした浸食は閑静な住宅地にまで及び、利を目指した出店と退店が繰り返され、空き家をうみ、町屋は食い荒らされるという次第である(山出前掲書15頁以下参照)。このような都市景観の変貌を、われわれはバブル期から今日にいたるまで限りなく目にして来たのではなかったか(例えば京都室町の危機と再生の物語りについて、佐々木前掲書185頁以下参照)。

    であれば、金沢市の場合、すでに半世紀も以前に「秩序あるまちづくり」を目指した指針造りに動き、1968(昭和43)年、全国に先駆け「伝統的な環境の保存を定めた「金沢市伝統環境保存条例」を制定」(山出前掲書84頁)し、これ以降現在まで19条の条例を積み重ねて(同書115頁)、今日に至った。金沢城公園、兼六園は言うに及ばず、茶屋町、寺町武家屋敷の保存はそうした努力の成果である。

    だが、これが成果として実るためには、市民や経済界等からの同意と支援、むしろ人々のより良い町を造りたいとの積極的な意志がなければなるまい。環境保存のためにはある程度の私権の制限から産業活動の規制の承認に至るまでの「自制の論理」を、自らに課すことだからである。企業市民宣言は言う。「企業も地域を構成する重要な一員であるとの認識を持って、経営合理性のみを追い求めるのではなく、よって立つ地域の『まちづくり』に貢献する」と。そして、それに貢献するのは企業ばかりではない。子供たちから大学生も加わり、また商人・職人、芸術に関わる多様な表現者、金沢大学他の技術者、研究者らもそれぞれの立場から参画するのである。

    最後に言っておきたい。金沢は、環境を守り、歴史・伝統の良さを知り、その保全に情熱を注ぐが、それは決して旧套を墨守し、その単なる保管を目指すというのではない。そんな姿勢からは、国内はもとより世界が注目し、繰り返し訪れたいという町が生まれようはずも無い。歴史に学び、その神髄を現代に甦らせ、日々進化するダイナミズムを持てばこそなのであろう。そうした息吹を、山出氏や佐々木氏の語りは確かに伝えてくれるのである。

     

    これを以って本年の我が『手紙』の書き納めといたします。一年間のご愛読(?)に感謝し、来年もまた宜しくお願いいたします。皆様、良いお年をお迎えください。

  • 12月7日・金曜日。曇り。前回を読み直し、我が思考の停滞、言うべき事柄を言い得ていないもどかしさを感ずる。

    12月13日・木曜日。曇り。同居の孫娘(小2)、登校拒否に陥り、わが家一同の懊悩は限りなし。マイリマシタ!

     

    さて、本題に戻ろう。以下では山出 保『まちづくり都市 金沢』(岩波新書 2018)、佐々木雅幸『創造都市への挑戦』(岩波現代文庫 2018)が大いに参考になる。因みに、山出氏は元金沢市長、佐々木氏は元金沢大学教授であり、ご両人とも金沢を良く知り、愛すること人後に落ちないが、金沢を素材にした諸説を通じて個性的な町とはどのような事か、またそれはドウ造られ、維持されるかについて、多くを教えられるからである。

    殊に山出氏の「歴史の多層性」と「文化の多様性」の指摘は、ここでの論題に深く関わる、と言うよりもそれに引かれて、筆者はこの問題に想い至ったと言うべきであろう。その主張をごく大雑把に要約すれば、ほぼこんな事になろうか(興味のある読者は、是非本書を一読されたい)。

    金沢が位置する自然環境をベースに、そこに住まう人々が今日にいたるまで積み重ねてきた営みの全てが歴史として刻み込まれている。その始まりは利家の能登から尾山(後の金沢)への入植とされ、1583年のことであった。爾来430年の間、戦火を見ないという、世界史にも稀な平和都市で在り続けている(それに並ぶ都市はチューリッヒのみと言う)。だからであろう、例えば金沢城は「石垣の博物館」と言われるように、各時代になされた改築や修復時の石組みの特徴が今に留められているそうだ。

    だが、ここで言いたいことは、こうした石垣がただ残っているということではない。各時代に育まれた生活が多層的な層をなして、この石垣のように、現在にまで伝えられているということである。お蔭で、当市は「他の都市に類例をみないほど多種多様」な顔を持つ文化都市になりえた。金沢の衣食住に見られる生活様式の水準の高さはその結果であろう。つまり、武家時代に築かれた武士としての品格や仕来りがある一方、それ以前の一向信徒によって開かれた自治集落の記憶、さらに当初は武士を顧客とした工芸品は物造りへの拘りと高度な技術を生み、武士たちの貧窮時を助けた商人たちの活動は、武士的な品や矜持を職人や商人層に受け継いだ。かくて、金沢らしい文化や生活空間が育まれていったと言う(以下次回)。