• 2月12日・火曜日。曇り。先週より体調不良をかこち、今に続く。昨年、惜しくも鬼籍の人となられた敬愛するT明治大学名誉教授が、退職する私に残した言葉がしみじみ思い出される。「金子さんをある大学に推薦しようと思ったが、止めにした。75歳までは何とも思わなかった体が、それ以降、本当に辛い。これを思うとネ…」。今にして思えば、有難いご配慮であった(前回の文章は論旨不明により、手を入れた)。

     

    前記の矢作 弘『縮小都市の挑戦』は以上のような問題群を余すところなく示されたが、ここでは、本書によりながら、一点だけ言っておきたい。全国展開する大型店は、多くの販売商品の仕入れを地元からではなく、価格優位の他産地から仕入れることで、地場の生産と消費を切断すると共に、売り上げは直ちに本社に吸収されて地元に還元されない。地場産業の衰退とはそう言う意味であり、それはまた地元雇用の減退と需要能力の消滅を来たす。こうして大型店の進出は地元の産業基盤を掘り崩すのである。

    そうして、市周辺の店舗は、普通はマイカーに拠ることから、一つは市域の拡大であり、本論でも繰り返し触れたように、道路、上下水道その他インフラ整備費の上昇を免れない(特に雪国の場合、除雪費だけでもその負担は耐えきれぬものになろう)。今一つは、市中心部に残された高齢者たちの日常生活の困難である。市商店街が衰退しても、郊外まで手軽に出かける手立とそれだけの体力の無い高齢者は買い物難民へ追いやられると言うわけである。

    かくて、ここに孕む問題の大きさ、深刻さをようやく認識した国も地方も、大型店舗の野放図な出店に歯止めを掛けようと、法的整備に乗り出した。これが「まちづくり3法」として結実する。つまり、土地の利用規制によって乱開発を阻止する「改正都市計画法」、中心市街地の空洞化を食い止め、その活性化を図る「中心市街地活性化法」(この2法は1998年施行)及び「大規模小売店舗立地法」(2000年施行)の3法である。なお、立地法は直接大型店の出店を規制したものでは無いが、大型店の出店は当然、交通・騒音・廃棄物等の生活環境面に負荷を与えるとの配慮から、間接的にその出店に縛りを掛けることになる。

    ここに至るには、当然その前史がある。いわゆる「大店法」(1973年法律100号)によって大型小売店の出店が規制され、その限り中小小売業者の保護と消費者の利益を守ったが、日米構造協議の場(1991)において、非関税障壁に当たるとの批判を受け、やがてそれは規制緩和を重ねつつ、先の「大店立地法」の成立によって廃案となった。

    こう見ると、行政当局がこの問題を見逃しにして来た訳でないことは確かにしても、しかし3法が大型店出店に歯止めを掛けたかと言えば、そうではない。次の文章を引いておこう。「それで状況の変化がおきただろうか。…答えは明らかに「否」である。2003年度には786件まで急増。…2010年度以降は右肩上がりで増えている。しかも、出店計画地を調べると、依然、郊外が多い(経済産業省「中心市街地を巡る現状と課題」2012年11月)」(矢作前掲書236頁)。とすれば、先に見た地方都市の状況は、いまだ危機を脱するには程遠いと言わざるをえないだろう(以下次回)。

  • 2月6日・水曜日。雨。

     

    前記の記述は地方から都市への人口移動を示す図像としては簡略に過ぎるし、勿論これをさらに詳細に描くことは出来るが、恐らくその基本線はそう変わるものではあるまい。問題は以上のような線上で若者や地場産業で吸収しえない過剰な労働力が都市へと移動したにせよ、依然として地域に留まる住民は多く、あるいは都会生活に合わずに帰還する人々もいるが、これら住民の生活を受け止め、維持する地域社会をどう築くかであろう。かかる人々は先ずは農林水産業の従事者であり、彼らの日常生活を支える各種の製造業や商業、サービス業、役所、学校、医療関係者等々である。それらの産業の中には、その地域でしか生産できない独自の製品があろうし、他では見られない自然や文化もあり、それが他地域から観光客やら移住者を引き付ける魅力を発することもあるだろう。

    このように、都市と農村の有機的な繋がりを持った地域の都市構造はある程度の人口を有し、時間をかけて造られた都市ではどこでも見られたものであったろうが、この2,30年で一気に崩壊したのは、いかなる理由であろうか。

    その一つは、地域全体を圧する巨大産業の進出とその支配にさらされた地域では、従来の仕組みがなし崩しにされてしまう。しかし他方でわが国産業のそれ自体の構造転換によって、その産業自体が衰滅し、破綻した地域、例えば炭鉱業に徹底的に依存した夕張市や他の企業城下町と言われるような地域の事例が浮かぼう。ここでは特に、グローバル化の波に飲み込まれ、企業の撤退や生産工場の外国への移転より、それまでその企業の要求に従って造られた都市構造が一挙に根こそぎ崩れ去った地域都市群が想定されている。

    上で見る、企業の進出と撤退がかつての地域都市の生活基盤を破壊し、疲弊に追い込むような事例は、それだけでは無い。大型店の進出による商店街の破壊、市中心部の空洞化及びそれに繋がる買い物難民の発生、地場産業の衰退である。同時に、市周辺部に建設される巨大な商業施設は田畑をコンクリート化した挙句、商機がされば一気に撤退し、放置される。これは広大な環境破壊であり、地域文化の消滅である。その結果残されるのは、地域社会の荒廃である(以下次回)。

  • 2月1日・金曜日。晴れ。二十四節気では立春の頃だが、陰暦では大寒である。まだ寒波に堪えねばならぬ。本日より本論に戻る。

     

    本論を起こした筆者の思いは、時たま訪ね、またテレビの映すあちこちの地方都市は一様に衰退し、しかも近年その度を増して、なにか痛ましいまでの惨状を呈していることに言いようのない淋しさを覚えたことに発する。このまま放置すれば、我々は何か取り返しのつかない結果に追い込まれるのではないか、と言う危機感にも駆られた。かつては多様であった街の景観は均一化され、中心街ですら賑わいを失ったどころか、寂れ果て、街全体がこれに抗する術も無いまま、諦めきってしまったかのように見える。こうして生活の衰退とそこに根ざす文化の消滅を突き付けられている、そんな焦燥を免れなかった。

    こんな印象記はいつからのものであろうか。随分以前からのような気もするが、しかし近年それは急速に強まった。地方の衰退は産業構造の変遷と無縁ではない。一次、二次産業を中心とした社会では、人々の生活は農林・水産業、鉱工業に繋ぎ留められ、地方居住型となるが、様々な機械化により、生産性を増しながら、多くの農業人口は過剰となる。他方で、三次産業の発展により、地方生活から解放され、あるいは農地を持たない多くの人々は都市で急成長する、住宅・交通・治安・病院・各種インフラ整備、金融・証券はじめ無限に多様な事務業務や娯楽を含めたサービス業に吸収される。

    確かににそれらはいずれも、一方で辛く切ない刻苦の労働からの解放であり、見栄えの良く、名声と共に一獲千金も夢ではない憧れの職務であったろう。だがそれらの業務に就くためには、これまでとはまるで異なる、別種の知識、技能を身に付けなければならない。かくて、長期に及ぶ、しかもカネのかかる学校生活の始まりでもある。特に高等教育機関は知識や技術の集積を前提とし、取り分けそうした知識や技術を需要する若者が集住する都市圏の施設である他はない。さらには、これら諸機関、施設を統合し、管理する機関である議会、各省庁と言った政府機関もまた都市のものであり、ここには諸外国の機関も付加される。こうして都市はこれからの生活を拓こうとする若者にとって、刺激と魅力に満ちた磁場になった(以下次回)。

  • 1月25日・金曜日。薄曇り。風強く、寒し。

     

    前回を受けて、何方かの参考のために引き続き「携帯紛失顛末記」を記しておきたい。先ず、紛失した携帯電話機は、本日無事、我が手元に引き取った。飯田橋の警視庁遺失物センターに赴き、ドコモから送られた書状、公的な身分証明書を提示し、書類に認印を押すと、待つ事20分ほどで返却された。郵送用紙には、同センターに保管されたのが、21日・月曜日とあり、また、「地鉄」の文字が見えることから、紛失場所は地下鉄車内である。私は確かに13日・日曜日の23時頃、半蔵門線の車内におり、その30分後には春日部の我が陋屋にご帰還であった。思うに、その時座席に落ちた携帯機は一旦、地下鉄の遺失物センターに送られ、その後警視庁遺失物センターに移されたのではないか。それが一週間の期間であった。私がドコモに通信止めにしたのは、紛失に気付いた14日・月曜日の深夜であり、丸々一日の無防備な時間があったことになる。

    引き取った携帯にはかなりの名簿が残っている。そのデータは移さなければならない。飯田橋のドコモショップに行って、その旨を告げるとご自分でやっていただきたいと、機械の前に連れて行かれ、オッポリ出された。途方に暮れてまごまごしていても知らん顔。完全予約制でカネにもならんと思われたのだろうか。外堀道り沿いのドコモショップであった。

    憤然とした面持ちで、早稲田の事務所で事の仔細をいえば、穴八幡神社向かいのドコモショップを教えられる。ここは親切で間違いはない、とのお墨付き。先と同様の説明をすれば、我が為すべき最小の手続き(ドコモに届け出た4桁の数字の入力と電話番号、住所の記載)のほかは、通信止めの解除から新規の携帯機へのデータ入力、バックアップ用に買ったチップに名簿の入力にいたるまで誠に手際のいいサービスであった。第一、紛失機のデータ解除なぞ私ができる事ではない。NTTドコモとのやり取りがあっての事であるとはその時初めて知った。とすれば、先の場合はナンだったのだろう。コッチの説明が悪かったのか、いい加減に聞いていたのであろうか。しかし、私の説明は同じだったのだが。

    それにしても、NTTドコモ直営のドコモショップは一店舗もないと、先日、はじめて知った。この限り、NTTドコモは各店舗の指導、経営には直接の責任を負わないということになろう。ショップのオーナーはNTTドコモにノレン代を納め、あとは自助努力によって頑張ることになる。当てれば儲かるし、外せば潰れる。こう見ればショップの盛衰ぶりはよく分かる。au、ソフトバンクも仕組みは同じであろう。まずは親会社同士のシェア争いがあり、そのもとに系列内のショップ間の競争が続く。そのいずれも容赦のない戦いであるに違いない。こうして、国民はどれかの端末機をいやでも買わされ、ヒョンナことで紛失すれば今回の私のように、不安のあまり寝もやらずジタバタさせられるのである。しかし、考えてみれば、普通の人々が瞬時にやり取りしなければならないような切羽詰まった情報がどれだけあろうか。確かに便利であるが、その便利のために命を削るほどのものがあるのか。電車内やホーム、あるいは人混みのなかで見ている情報はそれほどに大事なのであろうか。そんな事を思うと、我々は何か得体の知れないモノにとりつかれ、操られているのではないのか?一度、ジックリと考えた方がイイのではと、つくづく思わされたことである。

  • 1月22日・火曜日。晴れ。

     

    新年早々、情けない話二題。前便を配信した辺りに風邪をひき、二日ほど寝込んだ。だがいまだ咳が残り、一週間前に処方された四種の薬はほぼ尽きた。その中の鎮咳剤が特にいけない。毎食後二錠服用とあり、律儀にこれを守ると、程なく懈怠と眠気に襲われ、たちまち意識混濁に堕ちる。これを押して活字を追っても詮無いことで、とても理解できるモノでは無い。当初、これに気づかず頑張った挙句、オレはとうとうバカになったと、かなり落ち込んだが、歳による衰えは確かにしても、それだけでは無いらしいとやや安堵する。かくて本日、漸く出社に及んだ次第である。なお、風邪の元凶は孫娘で、学校から運んできたのだが、そこで「おマエのせいで風邪ひいた」と言えば、「アラ、ヨカッタワネ」と一片の同情もないには、これもマイッタ。

    あと一話は、これも悲惨。その同じ頃、携帯電話機が見当たらない。家探しをするも発見できない。失くしたかと、ガックリ。紛失した翌日の深夜のことである。呆然としながら手帳を繰れば、こんな事もあろうかと何年か前に記した、それ専用のドコモの番号を発見。こんな時間に繋がるものかと訝りながら問い合わせると、応答があった。まさに天からの救いの声であった。早速、通信止めとし、その後の手続きを聴けば、警察に届け、受けた書類を持ってドコモに行けば購入できるという。

    翌日、病院の後、朦朧としながら、春日部のドコモショップで必要な手続きを取る。二日後、紛失したと全く同じガラケイが来た(番号・メールアドレスは従前の通り)。この際だから、スマホデビューを考えなかった分けでも無いが、店員がわが顔を見てかどうか、頻りにこれを勧めるので従ったまでである。余程、頼りないと思われたのであろう。

    かくて、今や以前のデータを全て失い、少しづつ復元している最中であるが、昨日ドコモセンター(?)から連絡があり、失くした携帯電話は無事、警視庁遺失物センターに保管されているとの報を受けた。どうやら、これ以上の被害の拡大を防げたらしいことに、まず感謝する。勿論、こんな思いは二度と御免だが、今後、こんな事に出会った人には、私なりの有効なアドバイスをしてやれるかも知れない、と思えばよい経験であった、と負け惜しみを言っておこう。そして、新年早々の詰まらぬゴタゴタであったが、これは今年の厄落としで、本日以降、我が生活は隆盛の一途をたどるに違いないと、神にも仏にもすがってやってまいりたい。

    と言う次第で、本日は「社会のたたみ方」の論考は、休載とさせて頂いた。