• 5月19日・火曜日。雨模様。梅雨寒と言うにはまだ早いか。前回の文章、かなり手を入れる。

     

    再び言う。疫病が鎮静化したのは、医薬ではない。遠方への移転か屋内生活の維持である。それ以外の手立てとしては、屋内の換気と消毒がある。室内の空気の入れ替えは、生体として直感的に取られた方法であろう。他方、消毒は細菌学の遥か昔の事ゆえ、今から言えば、ほとんど祈祷や呪術的な要素と絡みついた代物でしかない。「密閉した部屋で芳香剤や香木、安息香、松脂や硫黄を焚いたあとで、火薬を爆発させて一気に換気する人がいた。昼も夜もずっと、しかも何日もぶっ通しで盛んに火を焚く人もいた。2,3の市民はわざと自宅に火をつけた。おかげで家はすっかり灰になり、ばっちり浄化できた」(311頁)。恐らく、火が細菌を焼き尽くすという発想ではなく、宗教的な火の浄化力に結び付けられてのことであろう。実は、室内での燻蒸による消毒法は19世紀中葉まで見られ、ベルリン市のコレラ蔓延に際しても盛んに取られた方法でもあった。

    他には、偽医者や「あやしい薬」の数々がある。「ロンドンは藪医者や贋薬売りであふれていたけれど、ぼくは誰にも耳を貸さなかった。そしてペストの流行を終わってから二年間、街にこういう連中がいるのを見ることも、うわさを聞くこともほとんどなかったが、…あの連中はすべて疫病にかかって一掃されたんだと想定して…ほら見ろ、神罰が下ったんだ、わずかな金を巻き上げるためだけに、哀れな民を「滅びの穴」へと陥れたせいだと」(308頁)人々は言い募っていたほどである。ここにも今に繋がる原点がある。

    では、さきの「滅びの穴」とは何か。街にあふれた死人を、夜間に荷車で回収し、放り込むために、街外れの寺院に掘られた大きな穴の事である。祈りも葬儀もあったものでは無い。かくて、昼間のロンドンは一見清潔に保たれ、秩序も維持された。この事を、デフォーは市当局の行政能力として高く評価する。だが墓掘り人、死体回収人は感染者に直接触れざるを得ず、最も感染リスクを負った人々であり、だから「命知らずの」連中と呼ばれた。彼らはまた貧苦に喘ぐ最下層の人々であった。ここに社会階層の断裂が、命のやり取りを巡って抉り出されるのである。この構図は今日の状況そのものである(以下次回)。

  • 5月12日・火曜日。晴れ。すでに蒸し暑し。前回の文章にやや手を入れる。

     

    以下では、デフォーの『記憶』にもう少し関わろう。ペスト蔓延の最盛期には1日2万人もの死者を出したとされる猖獗ぶりであったが(もっともこの数値には彼自身疑念を持っていたことは、訳者の注記にある)、これはどう終結したのか。先にも記した通り、他者との接触をひかえ、屋内に籠ることである。「多くの人たちがみずから家に引きこもり、外に出て誰かと会うことは一切とりやめ、街なかで誰と接していたか分からない者は決して家に入れず、近づくことさえ許さなくなった。少なくとも、息がかかったり、臭いが届く範囲にまで来ることは絶対に認めなかった」(270頁。まさに現下の三蜜禁止ではないか)。

    だが、そうした生活がロンドン市民の生活に甚大な影響を及ぼさないわけがなかった。何しろ「疫病にはどんな薬も歯が立たず、死神が街の隅々を荒らしていた」(314頁)からである。このまま続けば、「すべての市民と生きとし生けるものが、ここロンドンから一掃されたことでであろう。どこを見ても絶望した人ばかりが目立つようになり、恐怖のあまり精神の麻痺する者が続出し、心の痛みに耐えかねて自暴自棄になる者たちもいた。すべての市民の顔には、どんな表情をしていても死への恐怖が宿っていた」(同)。

    現在、精神的に問題を抱える人々の命を繋ぐ各施設のホットラインが、担当者の感染リスクの恐れもあって切断され、困窮者たちを孤立に追い込み、今後の自殺者の増加が懸念されるとの報道が見られる。家庭では行き場のないストレスからDV問題が内外を問わず頻発していると言う。上のデフォーの筆はこの点にも関わるように見える。

    だが、この苦しみは突如として解かれた。疫病は「おのずから弱まり、…悪性が衰えていた。まだ無数の人びとが病んでいたが、死ぬ者は少なくなった。そして事態が転じてから最初に出た週報では1843人も死者数が減少した。何という数だろう!」。だからデフォーは神の奇跡としてこれを賛美し、清教徒らしい感謝を捧げるのであるが、ただこの報告そのものは現在の状況をそのままなぞるようではないか(以下次回)。

  • 5月8日・金曜日。晴れ。前回記したわが自堕落な、だがどこか規則的な生活は今も続く。お蔭でいまだ感染を見ない。

     

    一昨日、緊急事態宣言による都市封鎖の期限を迎えたが、コロナ禍の収束は見込めず、今月一杯の延長が政府によって要請された。同時に、特別対象地域を除いた地方では、緩和の動きも出てきた。「隔離や封鎖」の対策はコロナ抑圧の決定打ではないが、しかし今取り得るもっとも有効な対策である事は、疫病蔓延から今日までの世界の動向からも明らかであろう。次いでマスクや手洗い・消毒が続く。医薬の参戦はいまだしである。これを受けて、誰でも知る外国の作家の次の文章をお読み頂こう。

    「このあたりで、人びとのあいだで感染がどう広まったのか」、今後の参考のために詳述しておきたい。疫病が「健康な人たちにこれだけ急速に広まったのは」、病人たちのせいとばかりは言えず、元気な者たちもその一因であった。ここで病人とは、もちろん疫病の症状を呈し、「ベッドに入って療養している者」たちであり、「誰でも警戒できる人たち…紛れもなく病気だと分かる人たちだ。」

    これに対して「元気な人というのは、すでに病気の菌に感染し、その肉体と血液に病毒を抱えながら、外見ではその影響が分からない者を意味する。」いや彼らは「自分でも感染に気づいていないことがあり、数日間は無自覚のままというのはざらだった。彼らはあらゆる場所で、近くを通る誰にでも死の息を吹きかけた。…こういう人たちこそ危険であり、本当に元気な人たちが警戒するべき相手だった。しかし、病気でない側から見れば、それを見分けるのは不可能だった。」

    では、これに対する対策はないのか。彼は言う。「もっとも有効な薬は、それから逃げることだ」と。まずは家に閉じこもり、疫病の去るのをジッと待つことである。そして、続ける。今後の予防のためには「市民をより小さな集団に分割し、互いにもっと距離をとるよう、早期に移住させることが検討されるはずだ。今回のような伝染病は、人が密集したときにこそ危険きわまりないものになるのだが、この措置をとれば、百万もの人が集まって暮らすところを病気が襲う、なんてことは起こらない」。

    一読して、これはコロナ収束に向かいつつある大都市の作家が記した体験記ではないのか、と読まれた方が一人でもあれば、私は手を打って喜ぶ。作家とはダニエル・デフォー(1660-1731)であり、1665年、ロンドン市を襲ったペスト蔓延について残した記録の抜き書きだからだ(『ペストの記憶』・1722年。武田将明訳・研究社2017.245-255頁他)。なお、その翌年にはロンドン大火が起こり、市の面目を一新させる都市改革が着手されたことにも一言して起きたい。

    それにしても、どうであろう。約355年前の疫病対策が、科学技術や医療の進歩を誇る現代において、基本的な対応として変わらないという事実を突きつけられて、我々はある自戒を迫られているような思いにならないであろうか。現代の目覚ましい科学技術の進歩・発展ではあるが、それに幻惑されてはならない。われわれの知識の及ばない領域、分野では(それは依然として広大であろうが)、人は3百年、千年前の人々とそう変わらない水準でしかないのではないか。

    とすれば、われわれは謙虚でなければならない。技術的に出来るし、カネにもなるからと言って、自然界に深く侵襲し意のままにする事にある恐れを持つべきではないのか。その事によって、いかなる惨害が地球レベルで発生するか分かったものでは無いからだ(以下次回)。

  • 4月30日・木曜日。晴れ。明日より皐月。ほぼ3週間ぶりの出社である。コロナ感染を恐れ、春日部に蟄居。日々、近くの喫茶店通いと22時以降から1時間ほどの散歩で、8千歩以上を踏破し、免疫力向上に努める。と言って、就寝4時から5時、起床13時以降の体たらくである。養生しているのやら、いないのやら。本日、大学理事会のため7時半起床のため朦朧なり。

     

    前回の話をその後の帝都東京に引き継いで言えば、感染症が細菌によって発症し、薬によって治癒できるとなれば、その対策が医薬を中心とする対応に向かうのは当然であった。事実、ベルリン市の下水道建設に尽力し、市の環境整備に成果を上げたホープレヒトは、その功績の故に各国諸都市から招待され、東京も彼を招聘しているが、招かれた彼は1年ほどの滞在の後、上水道の建設を推奨しながら、下水道は建言しなかった。巨額の経費を要するからである。こうした経緯もあってか、東京はじめ諸都市の下水道普及は大戦以降に大幅に遅れることになる。ここで言いたいことは、人とは必要なことを知りさえすれば、今度は逆に、長期的な視点よりも目先の損得を優先し(そしてこれを、経済合理性なるもっともらしい言葉に言い換えるのだが)、結局は根本的、本質的な対応を怠るか、取り逃がす存在らしいという事である。

    この問題は筆者には実に面白い、考えてみたい論題である。我われは、今向き合っている対象を知り尽くすことは出来ない。ましてやその後の経過がどうなるか、という点になれば、全くのお手上げである。その後の最善を願っての対策に完全を期することはまず不可能である。たまたま上手くいった対応が、成功体験となってこれに執着し、自由になれずにのっぴきならない苦境へと追い込まれる場合は、私生活でも、国家の歩みでも変わりはない。つまり、思索においても、行動においても、この不完全さこそ人間なのであろう。しかし、またもや私は横道にそれてしまった様だ。事は現在のコロナ禍の問題であった(以下次回)。

  • 4月2日・木曜日。晴れ。風強し。

    4月8日・水曜日。晴れ。昨日は、安倍総理による「緊急事態宣言」の出された歴史的な日であった。現下のコロナ禍が、日本はじめ世界に及ぼす影響、その行方に注視せざるを得ない。本日は前回の文章の修正である。

     

    国内のコロナ蔓延はいよいよ危険水域に達し、都市の封鎖宣言(ただしこれは法的根拠に基づく外出自粛要請に過ぎず、欧米に見るような強制力は持たないのだが)も近いか。昼の報道によれば、韓国の大邱市ではいまだ被感染者の増加は続くものの、それでも強制的措置を取らぬまま、適切な医療体制を構築し、治癒者の数が感染者数を上回り、結果としてコロナの抑制に成功しつつあるらしい。この対策は今後、韓国モデルとして、世界的な対策の指針となりそうである。

    転じて、この所我が国のコロナ対策が、しばしば韓国と比較されて報道される機会が多い。それを見る限り、この問題ではどうも韓国が先行しているような印象はぬぐい難く、それがわが社会の内に若干のフラストレーションを喚んではいまいか。だが、事はそんな問題ではない。学ぶべきは積極的に学び、世界と共同して、一日も早く蔓延の防遏に努めなければならない。

    ある意味、人類の発展は感染症との対決の歴史であった。殊に、世界の都市化、そして機械文明の発達と共に、人や物資の移動が激増する19世紀に入って、ペスト、コレラ、結核他の感染症が世界に蔓延し、多くの人命を奪った。しかも人類はその真の原因を捉えられないまま、日々を生き、対策を講じなければならなかった。コッホ、パスツール等によって細菌学が確立され、薬やワクチンの開発が進み、医療的な対策が講じられるようになったのは、そうした病気がほぼ制圧された後の事であったとも言われる。それには衣食住の改善に加えて、上下水道の整備が決定的であった。

    しかも、驚くなかれ。こうしたインフラ整備は、不潔が細菌を生み、よって感染症の発生を来たす。であるからこそ、公衆衛生の確立が急務であるとの線上で果たされた訳ではなかったのである。瘴気と言われる、海や山川、沼沢また都市・屋内に生ずる悪気(あっき・すなわち、濁った空気、臭い空気の事)・毒気が(再び言う、細菌が、ではない)感染症の原因であり、それ故環境整備が必要であるとされたのである。その後の医学史が示すように、感染症の主因という点で言えば、これは的を逸した主張と言わざるを得ない。にも拘らず、彼ら環境論者は感染症抑圧に大きな貢献を果たしたのである。因みに、クルミア戦争(1853-56)では、直接傷病兵の看護に当たったナイチンゲールが後に看護論、看護制度ほか数他の医療改革に尽力したが、彼女もまたこの瘴気説に立っていたことを一言しておこう。

    確かにコッホ以前にも細菌論者はいたのである。だが細菌と病気との関係はまだ確立されていなかった。当時の医学界の趨勢は、瘴気論者が主流を占め、その立場からインフラ整備を主張する。彼らは細菌を撲滅する薬の開発には否定的か、消極的ですらあった。また、人やモノを介した接触感染を採らず、それゆえ都市封鎖等の統制的な対策を否定する。ミュンヘン市の衛生学者ペッテンコーファーは、交通の遮断は自由主義経済の死滅とまで言い放ったほどである。彼らは総じて、この意味で自由主義者であった。

    他方、細菌論者(特にコッホ主義者)が統制主義者となるのは当然である。菌との接触を禁ずるからである。その後彼らは、細菌よりもさらに微細なウィルス(濾過性病原体・1898)を発見する。以上のような経緯については、拙著でも取り上げたが、医学者ではない筆者がこの問題に関わったのは、人の振る舞いは、全てを知って、そこから正しい行動を導き出すというのではない。むしろ、多くは事の前後も分からず、暗闇の中、手探りしつつ事の本質に迫り得るという、我々の認識の限界と可能性に興味を抱いたからである。これは現在のコロナ禍に呻吟するわれわれの苦悩に一筋の光を当てないであろうか(以下次回))。