• 6月3日・水曜日。晴れ。例によって、前回の文章、多少手を入れた。

    6月5日・金曜日。晴れ。前回の文章に加筆修正した。

     

    この度のコロナ疫病は、社会の様々な分野で、普段は当たり前に行われている仕事や作業が、担当者、作業員らの感染、離脱等によって停滞し、あるいは業務過剰を惹き起こし、それが人々の不満やストレスを生んでいる。こうして我々の社会の脆さを炙り出した。前々回より、その一例として「ソーシャルワーカー」と言われる、社会の生活基盤を支える人々を取り上げ、彼らの労働条件および環境の過酷さと、それにも拘わらず仕事を放棄できない事情をみた。その理由は、一言で言えば、彼らの経済的な困窮である。使用者側は彼らのその弱みに付け入りながら、半ば強制的な仕方で事業を継続しているのが現状である。

    だが他方で、そうしなければ、事業の存続が不可能になるという、経営者側の事情もある。利得の機会を逃せば、容赦なく同業他社にさらわれる。内部留保は薄くなり、来る危機への備えが出来ない。脆弱な経営基盤は不利な契約を余儀なくされ、強者の餌食となる。こうした市場の競争原理は、近年、グローバル化した経済社会において、益々熾烈の度を増してきた。

    このように経済社会の連鎖を紐解いて見れば、こうならざるを得ないもっともな事情や理由、原因があって、とても一刀のもとに切断できる話では無い。それは認める。しかしその全てをやむを得ないのだ、と容認すれば、現代社会の抱える悪や矛盾はそのまま放置され、最終的には社会全体の崩壊を来たす他はなかろう。その事例を、我われは今、世界的な広がりの中で、目の当たりにしているのである。

    米国全土に広がる破壊、略奪、まさに暴動とも言うべき混乱が、それである。事の発端は、周知のとおり、デモに参加した丸腰の黒人が警察官によって窒息死させられたことにあった。黒人のコロナ感染率が白人に比して理不尽に高く、それは彼らの置かれた社会・経済的な格差や差別の故として(これについては本欄5/22・(金)を参照)、これに抗議してのデモである。

    当初、(そして現在でも日中の)デモは、整然としたものであったが、警察側の対応が黒人の日頃の鬱屈、怒りに火を付け、一部が暴徒化して商店街の破壊、掠奪、放火にまで及び、これが一気に全米諸都市へと蔓延する。これに対する反黒人勢力の反攻やトランプ大統領の「掠奪が起これば、発砲が起こる」のツイートがさらなる反感を呼び、事態の混迷は深まった。何しろ彼の対応は、「国民を一つにまとめるそぶりすらしない、初めての大統領だ」、とマティス前国防長官が面罵し、慨歎せざるを得ないような体たらくであったからである。

    この混乱に対して強い大統領を示すためであろうか、「法と秩序の維持」を掲げ、彼は暴動鎮圧のためには軍隊の投入すら辞さず、との声明を発するほどに追い詰められた。だが、さすがに国防省は、軍の政治利用は許さず、と厳しい非難を浴びせて、大統領の決断をようやく挫いたのである。

    米国における白人対黒人の断裂は、長期に渡って、社会の中で何層にも降り積もり、固められた対立の結果であり、これも一刀の元には遮断できるものでは無かろう。しかし、少なくとも、対立の大きな原因の一つである経済的な格差(それも日本とは比較にならない貧富の格差)の是正は、一連の適切な政策によって可能であるに違いない。コロナ禍のような凶事のある度ごとに、それが契機となって、こうした大惨事を繰り返さなければならない社会の脆さ、その不幸を、我われは今、とくと考えるべきであろう(以下次回)。

  • 6月1日・月曜日・雨。地下鉄の冷房に当たったか、やや寒い。時に思う。これはサービスなのか、ていのいい拷問なのか、と。

     

    言うまでもなく、介護一般がそうであるが、殊に訪問介護業務ほど「ソーシャルディスタンス」と相容れない仕事は無かろう。介護とは、まさに「利用者の家で風呂や食事の介助、おむつの交換など」に携わることであり、「人との間隔を約2メートル」空けては仕事にならない。また、高熱のある利用者の要請に、事業者側はさすがに「病院で診断を受け(てもらわ―筆者注)なければスタッフは出せない」と訴えるが、「担当のケアマネジャーは「利用者の生活があるので行って下さい」と譲らない」と言ったケースもある。

    そうした仕事に直接携わる職員の実感は、わが身に置き換えた場合、何とも耐え難い苦しみである。「利用者の家族に陽性者がいても私たちは知るすべがない。他人の家でサービスをする怖さが理解されていない。スタッフはみんな団結して取り組んでいるが、燃え尽きないか心配だ」。

    元々、介護職は人手不足の上、離職者の多い職種と言われるが、そんな中での一人の脱落は、仲間に大変な重圧を負わせる事は誰でも知っている。であれば、一同「団結」して励まし合い職務に当たる他ないが、そうした精神的・肉体的な緊張がいつまでも維持されるわけがなく、ここでも物流業界と同様の困難・苦しみがある、と言って置きたい。

    この度のコロナ禍が我々に突きつけた問題は(それは現在の社会制度と人間の心情の在り様をあぶり出した)、他にも多々あり、中でも現在の医療現場が直面する惨状は、上記にも増したそれ特有の悲惨さであり、是非にも見ておくべきであるが、これはいずれ報告することにして、今は棚上げにしておく。ここでは、先に見たスーパー、コンビニ、物流、介護といった社会を支える業界の従事者(「エッセンシャルワーカー」)について纏めておきたい。

    すでに見たように、彼らは(米国の黒人も含めて)経済的弱者に留め置かれており(その一つに正規・非正規という雇用形態の違い、そこから生ずる身分的・経済的な格差等の問題がある)、結局は仕事の現場がどうあれ、しかもそこには様々な危険のある事を知悉し、それゆえ覚悟しながら、仕事に向かわざるを得ない人々である。今日・明日を生きるために、他の選択肢を取り得ない人々である。使用者側の意志は、そうした彼らの弱点を掴み切り、しばしば無情で、利用しつくすのは、上に見た。だから資本主義は悪だ、と言って済ませられたのは3、40年ほど前の話だ。現在みるいわゆる社会主義国家の、より以上の惨状、暴力性、冷酷さはいまや誰でも知るところである。

    事は、社会・経済体制の是非の問題では全くない。我々の社会体制のままでも、関連法規の整備や社会保障等の改正によって、十分現在の問題に対応することができる。というよりも、そうした政策や対策を積み上げていく事でしか、この窮状は脱しえないであろう。特に格差問題については、大きくは現行の所得税制の改正を挙げておきたい。そして喫緊の課題として、「正社員と非正社員の不合理な差別の解消をめざす「同一労働同一賃金」の関連法」の完全実施に加え、「最低限の生活を営める資金を市民に直接給付する仕組みの拡充」(近藤絢子・東大社研研究所教授)の整備が考えられる。要するに、事態のこれ以上の放置は、最後は社会を支える基盤の崩落を来たすことになろう(以下次回)。

  • 5月29日・金曜日。晴れ。この度、明治大学監事を今月末で退任する。一期4年間の務めであった。今年、77歳の身としては、良い潮時だが、これで大学とは縁切りか、となると何がしか寂しさは残る。だが、これは未練だ。まだボケてはいない(と思う)。一日平均8千歩ほどの脚力もある。このエネルギーを今後は当社の発展に捧げたい。今後とも宜しく。

     

    前回の問題をもう少し引継ごう。現下のコロナ禍が、われわれの社会の奥深くに潜んで、普段は気付かずにいる弱さや矛盾をさらけだした。その姿を多少とも残すことは記録的価値があるばかりか、今後の参考にもなろうからである。資料は朝日新聞・5月10日(日)・4面「ニュースワイド」である。

    ここでは「エッセンシャルワーカー」と言われる、市民生活を支える人たちの仕事ぶりが主題である。コロナ感染は、まず人々の外出を制限し、住居内に押し込んだ。同時に、飲食店、商業施設の休業を強いることになった。だが、人々の生活は続く。食糧他の生活物資は確保されなければならない。これはデフォーの時代とて変わらない。当時は召使や奉公人に命じて、それらは調達されたのである。

    現在、その役割を果たすのは、物流業界である。ネット等で購入した物資はこうして届けられる。「コメ、野菜、冷蔵食品、生活用品」など、「ありとあらゆるものを届けている」大手宅配業者のパート女性は、それらの「荷物を配り終えるまで朝から午後10時過ぎまで」かかる重労働を連日強いられたと言う。普段の搬送代金が一日2万円前後であるのに、10万円近くになるという事実からも、尋常ならざる繁忙さである。当然、彼らの感染リスクは高まるが、しかし会社からのマスクの支給は無く、自前で確保しなければならない状況から、その労働環境の過酷さが分かろう。

    だが、それ以上に苦痛なのは、お客との直接の応答である。「玄関先に荷物を置くことを提案したら、ある男性から「おれは感染していない。中に置いて」と言われた。ある女性からは「配達員は汚いので、宅配ボックスを設置したいから補助金が出ないかと区役所に相談したの」とひどい言葉があった。(家にこもる―筆者注)うっぷんを晴らすかのように「(代引きの)お札につばをかけてやろうか」と別の男性から言われたことも。冗談のつもりだったかもしれないが女性は本当に怖かったという」。

    こうした仕事に疲れ果てて休む同僚もいるが、しかし蓄えに事欠き、稼がなければ暮らせない配達員に対し、上司は見透かしたように言う。「飲食店の人はいま働けなくて困っている。仕事があるだけマシでしょう」。たまにはお客からの感謝や励ましも受けたり、また社会への献身として、この仕事が「美談」にされるが、ことはそれでは済まない。このまま放置すれば、われわれは社会の基本的な土台の一つを磨り潰すことになりかねない。

    これに劣らず身につまされるのは、介護事業関係の仕事である(以下次回)。

  • 5月22日・金曜日。曇天。昨日は冬日のような寒さであった。

     

    例えば、次の記事を読んでみよう。「米の死者 世界最多迫る」(朝日新聞・4/12・日)では、この時点での死者数は1万8千人強、その内の4割がNY州であり、それ故知事は「理解超える」事態と呻いたのである。中でも深刻なのは、「黒人らの死亡率」の高さであり、この事情は他州でも変わらない。そして、ワシントンポストの分析によれば、黒人の多い郡のコロナ感染率は他に比して3倍、死亡率は何と6倍にも達すると言う。そこに存する厳然とした「社会的格差」の故である。

    「黒人は都市の中心部に住んでいることが多く、公共交通機関を使う頻度も高いため、人との接触は避けられない。また、普段から医療が十分でなく、貧困が原因となる糖尿病や心臓病、ぜんそくなどの基礎疾患を持っている割合が多い。レイ氏(ブルッキングス研究所研究員―筆者注)は「彼らが不摂生というわけではない。身の回りに健康でいるための資源が不十分なのだ」とコメントする。/職業も関係する。米国はマイノリティがバス運転手や食料品店の店員、ビルの管理人など、社会を支える「必要不可欠な職業」についている割合が高い」。

    わが国の状況も同じである。朝日新聞4月22日・(水)(夕刊)には「生活支え手 疲弊」の見出しと共に「コンビニ店主「感染、明日は我が身」」の文字が刺さる。スーパー、コンビニ、ドラッグストアが該当する。

    特にスーパーについてのコメントが悲痛だ。都が外出自粛を要請した3月下旬には、買いだめに走るお客の対応に追われ、疲弊の度を深めている。切れ目ない商品の配列、品揃え他、ビニールシートで遮断されたレジでは、お客の声が聴きずらく、つい顔を近づければ「近づくな」と怒鳴られ、在庫の有無を聞かれ「無い」といえば、「探してもいないのになんでわかる」となじられる。殺気立つ客の理不尽さには、わが身を含めて顧みるべきだが、スーパー協会の担当者の言葉には身がつまされる。「スーパーは人がいないとやっていけない業種。当たり前の存在ではなくて、緊急事態の中で食品を切らさないように日々頑張っている。そういうことをお客さんには理解してほしい」。

    それにも増して深刻なのは「派遣・契約社員「やむなく出社」」、「身重でも在宅許されず 国は介入及び腰」、「新型コロナで訴え相次ぐ」(朝日新聞4/27・(月)朝刊)の記事である。殊に出社に難色を示した妊婦の訴えに、「契約終了におわす相談窓口」の扱いがいかにも「ぞんざい」であったとの一文は、派遣・契約社員の在り様とその弱さ、それゆえの嘆きを改めて突き付けている(以下次回)。

  • 5月19日・火曜日。雨模様。梅雨寒と言うにはまだ早いか。前回の文章、かなり手を入れる。

     

    再び言う。疫病が鎮静化したのは、医薬ではない。遠方への移転か屋内生活の維持である。それ以外の手立てとしては、屋内の換気と消毒がある。室内の空気の入れ替えは、生体として直感的に取られた方法であろう。他方、消毒は細菌学の遥か昔の事ゆえ、今から言えば、ほとんど祈祷や呪術的な要素と絡みついた代物でしかない。「密閉した部屋で芳香剤や香木、安息香、松脂や硫黄を焚いたあとで、火薬を爆発させて一気に換気する人がいた。昼も夜もずっと、しかも何日もぶっ通しで盛んに火を焚く人もいた。2,3の市民はわざと自宅に火をつけた。おかげで家はすっかり灰になり、ばっちり浄化できた」(311頁)。恐らく、火が細菌を焼き尽くすという発想ではなく、宗教的な火の浄化力に結び付けられてのことであろう。実は、室内での燻蒸による消毒法は19世紀中葉まで見られ、ベルリン市のコレラ蔓延に際しても盛んに取られた方法でもあった。

    他には、偽医者や「あやしい薬」の数々がある。「ロンドンは藪医者や贋薬売りであふれていたけれど、ぼくは誰にも耳を貸さなかった。そしてペストの流行を終わってから二年間、街にこういう連中がいるのを見ることも、うわさを聞くこともほとんどなかったが、…あの連中はすべて疫病にかかって一掃されたんだと想定して…ほら見ろ、神罰が下ったんだ、わずかな金を巻き上げるためだけに、哀れな民を「滅びの穴」へと陥れたせいだと」(308頁)人々は言い募っていたほどである。ここにも今に繋がる原点がある。

    では、さきの「滅びの穴」とは何か。街にあふれた死人を、夜間に荷車で回収し、放り込むために、街外れの寺院に掘られた大きな穴の事である。祈りも葬儀もあったものでは無い。かくて、昼間のロンドンは一見清潔に保たれ、秩序も維持された。この事を、デフォーは市当局の行政能力として高く評価する。だが墓掘り人、死体回収人は感染者に直接触れざるを得ず、最も感染リスクを負った人々であり、だから「命知らずの」連中と呼ばれた。彼らはまた貧苦に喘ぐ最下層の人々であった。ここに社会階層の断裂が、命のやり取りを巡って抉り出されるのである。この構図は今日の状況そのものである(以下次回)。