2023年08月18,23,25日

8月18日・金曜日。晴れ。
8月23日・水曜日。晴れ。
8月25日・金曜日。晴れ。
前回の文章の後半を加筆し、そこでの映像をやや鮮明にしたつもりである。
こんな小咄はどうか。5年後のある日の会話からである。「あの頃(つまり現在)は涼しかったなぁ。なにせ、暑いと言っても、まだ30度代で、40度なんて日は、あってもチョボチョボだったからな。」「チゲーネー。そんな日は、テレビでニュースになるくらいだった。今じゃ、45度だって、普通なんだぞ。コリゃ、いい加減、クルッチマワー。」「神様、助けてクンなせー」。キットこうなる。

猛暑日が続き、往生しているが、それとは別にこの一週間、夏風邪を引いてほぼダウン。咳はいまだに取れず、本日(8/18)、病み上がりの中、ようやく出社に及ぶが、足元がおぼつかない。ばかりか、息が上がるようだ。たった3,4日歩かないだけで、これ程の弱り様では先が思いやられる。寝たきりになったわが身を思えば、なおさらのことである。こんなことを、先回りしていくら心配しても詮無いことは、重々承知の上だが、そうせざるを得ないのが、これまた人の定めなのだろう。人とは利口そうでいて、案外、おろかな生き物に違いない。起こるかどうか分からない先々を心配し、現在を犠牲にするなんぞ、人間以外の生き物にはトンとあるまい。だが、それを用心、慎重と言い、これぞ人間にのみ備わる叡智とたたえるヒトもいる。
筆者は断じてそうは思わない。人がそれほど利口で、立派であれば、なぜこんな馬鹿々々しくも惨たらしい戦争を繰り返し、目先の欲に目がくらんで貴重な大森林を破壊し、海洋汚染を放置できるのか。プーチンはソ連時代に失われた領土を取り戻し、ピョートル大帝の再来を目指してこのたびの戦争を仕掛けたとは、あちこちで聞く話だ。習近平は台湾は中国の核心的利益であり、必要なら核兵器を使ってでも取り戻すと息巻いているらしい。あんな島一つのために、どんな犠牲も厭わないとは、何とも立派な叡智ではないか。筆者にはそのいずれも、大権力者の欲と勝手なゴタクにしか思えない。
近代人が未開民族だと馬鹿にしてやまない太古以来の諸民族は、自分たちのために犠牲となる樹木や獣の殺害に対し、深い敬意と謝罪、感謝を表し、そのために入り組んだ儀式を執り行わなければ相すまなかった。生物は勿論、川や岩など周囲のすべてのものには命や霊が宿ると信じ、それゆえの畏敬の念を持していたからである。そうした感情、生き方は、驚くことに、時代や場所に応じて多様な形をとりながら、地球上のすべての人間たちの間で一様に認められるらしい。そして、近代科学が迷信、無知蒙昧として殲滅するまで存続したのである。そのお蔭で、母なる大地は、ほぼ19世紀くらいまでは何とか、あらゆるものを育む豊かさと荘厳さを保持することができたのであった。そうした物語りを、J.G.フレーザーは1890年に刊行した大著『金枝篇』において、委細をつくして紡ぎだした(古川 信訳『初版 金枝篇』上・下、筑摩書房2003)。
本書を読む限り、彼らの振る舞いは、時に残忍、ときに滑稽に見えながら、己自身を超えた存在に対する畏怖の念は変わらずにあった。であるからか、彼らは、自然界をただ自分たちのために利用し、支配する対象とみなすのではなく、周囲の動植物と同等の存在として、自然の内に包まれるようにして生活することができた。と言うより、そう生きざるを得なかったのであろう。
馬鹿はどっちだと訊きたい。未開人なのか、近代人なのか。現在の我われにとっての自然界とは、畏怖どころか、単に科学的に分析し、これを徹底的に利用できる道はないかと探る対象に過ぎない。さらに、何でもかでも処理できる多様で巨大な技術体系の確立と一層の完成を目指してやまず、我われは歴史上でもっとも豊かになり、頂点に立つのだと己惚れる。ここには、その活動を制御すべき歯止めが有ろうはずも無い。だがその結果はどうだ。熱風が吹き荒れ、海洋は煮え立つ。陸地は焼けただれて河川は細る。無数にあった湖沼は干上がり、広大な森林が消滅する。山も陸も深海まで掘り尽くし、なおその強欲は留まるところを知らない。こんな人間が仕出かした所行の結果、人はみな地獄の巨釜(おおがま)の中で踊り狂うようではないか。その映像は、ヨハネの黙示録に描かれた禍々しい様相そのものと化している。
このままでは、人間ばかりか、地球全体が壊れる。


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