2022年11月28日,12月05日

11月28日・月曜日。曇り。師走目前。まさに「光陰矢の如し」。また一つ歳をとる。そんな感慨からか、ボケて手遅れになる前にと、こんな辞世の一首をひねった。当人は洒落のつもりだが、案外、終活の一つなのかもしれない。

これを為しあれはなさぬもすべて夢目覚めぬままに逝きしわれかも   みつお

12月5日・月曜日。雨。今年一の寒さという。

 

前回、ウクライナでは、迫る厳冬を前に、ロシアの砲撃によって電力、水道等のライフラインが破壊され、生存の危機すら覚悟せねばならない状況にありながら、市民はそれに屈せず、しなやかに生活を維持して、ロシアへの反撃の意思を見せつけていると報告した。だが、そうは言っても、現在も続くロシアの一連の都市砲撃は、ウクライナ国民のそうした戦意を砕きかねないところにまで迫ってきたように見える。ウクライナ危うし。

ニューヨークタイムズが日々伝える惨状は、読む者の心身を締め付ける。水道関連の破壊は、上下水道の途絶により、即伝染病の市中蔓延を呼び込む。電力の圧倒的な不足は暖房、生活施設の停止と共に、住民の多くを一箇所に密集させ、これが感染症の温床となる。過日の記事には、子供の手術のさなか停電し、急遽、手回しの発電装置に切り替えたとあった。当然、緊急必要以外の手術は中止である。また、技術者たちの修理班が創設され、砲撃の合間を縫っては、終日、各施設の修復に当たり、稼働させているが、市民生活はまさに綱渡りだ。すでに世界が知り、戦慄した占領各地域での露軍の犯したむごたらしい拷問、惨殺とは別に、ウクライナが強いられているもう一つの悲惨である。

これが、戦争である。陰惨な死傷と困窮、無数の破壊の結果、戦意は止み、終結に至る。ロシアからすれば、だから早く降伏せよ、それが人道主義に即したことだ、と言うのだろう。

確かにそうかもしれない。これ以上の惨状は沢山だ。もうやめて欲しい。ウクライナよ、よく戦った。世界はウクライナの勇気と戦闘に深甚の敬意を払う。だから、矛を収めよ。と、こう言うのは、簡単であろう。だが、これを認めてしまえば、世界はどうなる。結局は、絶対的な武力を持つ強国の横暴と理不尽な理屈だけがものをいう世界となる。それで良いか。それにしても、国家の保全は、結局、武力に尽きるということなのだろうか。ここでは、これまで説かれてきた様々な教えや理想など、ただの空疎な言葉にしかみえなくなる。

こんな救いがたい世界の状況を見せつけられて、出口のない憂鬱といら立ちのさ中にあって、昨日、ニューヨークタイムズ(12/3-4)の「キーウ、フラッシュライトによる生活」なる記事を読む。その冒頭のみを紹介しておこう。「ウクライナの首都中のエレベーターには、停電の折には緊急の電力供給用として電力は蓄電されている。各銀行は、長引く停電にも顧客の現金は安心して出し入れできる旨のメッセージを送信した。国立管弦楽団は、火曜の夕刻、蓄電池を電源としたランタンの灯るステージで演奏会を開き、先月、ドクターたちはフラッシュライトを頼りに手術を行ってきた。/これがキーウである。3.3百万人の住まう現代の栄える欧州の首都、だが今は戦火に疲弊し、電力、水道、携帯電話、セントラルヒーティング、インターネットのサービスを絶たれて苦闘する都市となった。」それにも関わらず、「市民たちは工夫して」生活をやり繰りしているのである。強靭な彼らの精神に、鞭打たれるのは筆者のみではあるまい(この項、終わり)。


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