2022年10月31日,11月04,07日

10月31日・月曜日。晴れ。

11月4日・金曜日。晴れ。今年も残すところ、二か月となる。

11月7日・月曜日。晴れ。前回の文章をかなりの加筆訂正した。

 

ジャパンタイムズ(10/29)で「インドネシア漁業部門、海の温暖化により打撃被る」を読んだ。小見出しには「高波、凶暴な嵐、今年の出漁はしばしば危険に瀕する」とある。これを読むだけでも、その内容はほぼ理解できる。事実、その冒頭の一文はこうだ。「スサントは漁の4時間後、自分の獲物―ボラ4尾―を見て、頭に衝撃を受け、呆然とする」。海水温度の上昇により珊瑚の白化が進み、魚の生息環境は劣化する。多くの魚は死滅し、あるいは冷温の海域を求める多様な魚群の移動はやむを得ない。その結果は、燃料代も回収できないような釣果となる。といって、遠洋漁業は小型漁船では、高波や暴風を思えば、とても出来ない。彼ら漁師たちの生活苦は容易に察せられよう。

「インドネシア政府の予測では、17,000以上の島嶼からなるこの国の経済損失は、2024年度、気候変動の結果により115兆ルピア(74億㌦)近くの経済損失を被るが、こうした損失の70%は海洋、沿岸部門である」。

事は単なる経済損失の問題ではない。こうした海洋民族の生活の場が失われるのだ。世界の島嶼域が高波に浸食され、水没の危機に晒されているとは、今に始まったことではない。さらには、南北両極の巨大な氷塊群が崩落しはじめ、ヒマラヤ、アルプスの氷河も薄くなり、北方の永久凍土が溶解しているという。そこに閉じこめられていた細菌、ビールスが放出され、将来的にはこれまで知られていなかった感染症の蔓延が懸念されてもいる。これらに加えて、大森林の自然火災や急速に進む地表の砂漠化、そして河川や湖水の水位低下の問題も甚大である。

人類はこの数十年来、世界各地で生じているこうした自然災害を目の当たりにして来た。しかも近年、その規模と激しさは増すばかりである。これらは我われ人間行動の結果であるとは、諸科学の繰り返し指摘し、合理的に思惟する限り、それらを否定することはもはやできない。こうした深刻な事実を突きつけられながら、人類はいまだそれに真剣に向き合おうとしていない。なるほど、各国政府は2050年までのCO2排出削減の目標値を提示しているが、それらは経済成長の見合いの中でのことであり、成長を犠牲にしてまで維持しようとどこまで覚悟しているか覚束ないからだ。

結論はとうの昔に出ている。途上国は別にして、先進国の場合、経済成長はもはや必要ない。これによって更なる地球へのダメージを軽減できるからだ。しかもそのことを、J・S・ミルはほぼ170年前に明言していたが、その後科学技術に裏打ちされた生産力は飛躍的に成長し、誰でも十分な生活を享受する身となったのである。それが出来ないのは生産力ではなく、適正な分配の問題であることは各種データの教えるところであろう。「新しい資本主義」とは、このような文脈で考える他はないと言いたい。

こうした反成長主義的論調は、今筆者が初めて言うことではなく、すでに多くの論者の説くところであり、ここでは一点、斎藤幸平『人新生の「資本論」』(集英社新書・2020)を挙げておこう。かくて先進国の経済成長に歯止めをかけ、同時に途上国には環境浄化の技術移転を図ることだ。であれば、つまらぬ領土問題で、核を含めた戦争など論外であろう。そんなことに明け暮れているうちに、地球本体が燃え尽きればどうなるというのか。

しかし、この適正な分配はどうしたら達成されるのであろうか。私見では、まずは各人が眼前の享楽に溺れた強欲を抑制し、足るを知る心をどう育てるかにあるように思える。ミルが言うように、そうした経済成長を追うのではなく、その労力と情熱を学問、芸術あるいは趣味に振り向け、生活上の精神的な充実、満足を目指すべきなのであろう。こうした主張は、古来から形を変えながら様々説かれてきたが、にも拘らずこれがいまだ実現されないところが、我われ人間の限界なのかもしれない。「欲にきりない泥水や」(中山みき『お筆書き』より)と言うわけである。とすれば、我われは成るようにしか成らず、つまるところ地獄の業火の中で滅びることになるのだろうか(この項、終わり)。


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