2022年10月12日

10月12日・水曜日。曇り。この所気づいたことの雑感を少々記す。

 

前便の日付けを見て驚いた。なんと10日余りの休載である。その間、急な寒さに倒れ、連休も重なった。だが、何よりも本が読めなくなったらしい。英独の文章にあらず、日本語の本2、3頁を読むと早や眠りに落ち、根気と集中力がなくなったのである。もともと、頭のめぐりが悪いのは承知の上だが、その代わり粘り強さには自信があっただけに、驚いた。300頁ほどの本が2,3週間もかかるなど、もはや読書人ではない。これらはみな歳のせいなのだろうか。

かような次第で、考えはまとまらず、少しでも深みに達しようとの努力も失せたか、折角見つけた課題の周辺をうろつき回っているだけのような気がする。テレビで詰め将棋を見ても、ただ途方に暮れている有様だ。以前はもう少し分かったはずだが、見当もつかない。しかし妙なことに、それがあまり悔しくなくなった。「しょうがネ~や」でけりが付くから始末が悪いが、一方気軽でもある。昔なら、「コノヤロー、フザケルナ、俺ヲ誰ダト思ッテヤガンダ」とばかり、1,2時間はそれと格闘し、それでも埒が明かなければ、夢の中まで追いかけて行ったはずだから、それはもう尋常ではなかった。

これらの一切が若さであり、老いのあり様なのであろう。いま私は諦めることを学びつつあるのかもしれない。この程度のことを出来ようが、出来まいが、だからと言って世の態勢に影響を及ぼすわけでもない。ならば、程々にして、気が済めばそれで良かろう。これを達観と言えば聞こえはいいが、事はそれほど綺麗ごとでもなく、そうせざるを得ないからそうしているまでのことに過ぎない。

かくて私は枯淡の境地に近づき、穏やかな人格になったのか。まるで反対である。わが身に及ぶ利害得失にはいまだ並々ならぬ執着を持ち、それらが多少なりとも侵されるのではないかと思えば、その懊悩限りなく、それらの対策に夜も日も継いで明け暮れる。そんな折には、自分にもこんな情熱、と言うより浅ましさがまだあるのだとつくづく思い知る。と同時に、枯れることのむつかしさを改めて覚悟させられるのである。「日暮れて道遠し」。

 

 


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