2021年8月2日

8月2日・月曜日。晴れ。前回の文章に通ずる憂慮を、朝日朝刊「声」欄に読んだ。佐藤康子氏の「五輪強行 開戦時の日本を想起」(7/31(土))である。「反対という多くの声」を無視した五輪強行は「いつか来た道をたどるのではないか…と強く危惧」されると共に、「コロナ禍は、日本という国が国民のために存在しないということを明らかにしてしまった」と手厳しい。本日は、この指摘をうけながら、下記の問題を取り上げた。

 

先ず、次の文章をお読み頂きたい。夏野剛なる御仁がABEMAニュース番組に出演したときのことである(7/21)。子供の運動会や発表会が無観客なのに五輪だけ観客を入れたら不公平になるとの意見に、こう言い放つ。「クソなピアノの発表会なんかどうでもいい。それを一緒にするアホな国民感情に、今年選挙があるからのらざるを得ない」。「そのうち誰かが金メダルを取ったら雰囲気変わると思います」。ちなみに、同氏は出版大手のKADOKAWA社長であり、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会参与を務める人物である。

KADOKAWAによると、当発言は「社長として大変不適切なもので、当人も深く反省し」、よって役員報酬の月額20%を3か月返上されるそうである(朝日新聞7/29(木)・朝刊より)。以下は、「朝日」の文章が夏野氏の発言を基本的な点で正しく伝えている、と前提した上でのわが主張である。

まず、伺う。社長として反省するとは、いかなる意味であろうか。かような発言は、いかにもKADOKAWAの評判を落とし、今後の業績等にも影響をおぼしかねず、これを深く憂慮し、3か月間の報酬2割分を返上するとういう意味なのであろうか。とすれば、非難された人々への反省は皆無となるが、それで宜しいか。

たしかに、子供たちの運動会や演奏がオリンピックや世界の奏者のそれに遠く及ばぬことは、言うまでもない。であればこそ、大金をはたいて足を運ぶのだろう。だが、及ばぬ内容は、多くは積み上げられた技量、経験等であり、対象に向かう情熱やひたむきさは、いずれもそれほど変わるものではあるまい。むしろ、子供たちの場合、欲得や地位や名声から自由な分、はるかに純真であるに違いない。

子供たちは昨日まで出来なかった課題を乗りこなし、そこで感ずるリズムや身体的躍動に感激し、充実と達成感を覚え、次なる難所へと挑戦する。苦悩と共に味わう成長の喜びは何物にも代えがたい宝であり、それをそばで見守り、励ます師匠や親たちは、そこから自分たちの無限の喜び、生き甲斐さえ引き出すであろう。これこそが芸術やスポーツの真の力ではないだろうか。

それを「クソなピアノの発表会」と面罵する夏野氏とは、いかな芸術・スポーツ観をお持ちなのであろう。KADOKAWAと言えば文化事業を担う一大出版社ではないか。氏にとっての芸術・スポーツとは、それに向かう心情はどうあれ、ただ完成された形式美を備え、カネになりさえすれば一級品ということになるのであろうか。とすれば、それは何とも貧相な文化観ではないか。しかも、人を見下し、何とも思わぬ倨傲な人格が、わが国の文化事業の代表者の1人であることに、愕然とせざるを得ない。

ホイジンガによれば、芸術・スポーツのいずれも神の御前に捧げる遊びに端を発する。だからいい加減なのではない。日常の仕事を越えた直向きさ、真剣さをもって捧げられる。ここには世俗的なカネや地位、名誉など入り込む隙は無かったはずである。それらは全て、その後の経過に纏わりついたものであろう。

ここで、恐らく夏野氏には思いも及ばぬ一事を紹介しておこう。現在、将棋の永世名人の資格を持つお1人が述懐されたことである。将棋に倦み、疲れた日々にあった頃、小学生の将棋指導に招かれて、子供たちがひた向きに打ち込む姿勢と情熱に打たれた。そして、かつての自分を思い出し、改めて将棋への意欲を取り戻したと言う話であった。ひとは、その気になりさえすれば、誰からでも学ぶことはある。「教えつつ学ぶ」とは、そういうことである(以下次回)。


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