2017年8月8,10日

8月8日・火曜日。蒸し暑く、不快極まりなし。連日の記録的な豪雨はもはや日常なのか?破壊軍団・台風五号、なお東北地方を狙う。

8月10日・木曜日。台風後、涼しいような、暑いような名状しがたい日和なり。

私がこんな危惧を持つのも、もう20年ほど前に読んだ、だからあやふやな記憶に過ぎないのだが、渡辺一夫の次の一言、「キリスト教の草創期に、ローマ帝国からあれほどの弾圧を受けなければ、中世でのキリスト教は異端に対しはるかに寛容でありえただろう」と言う趣旨の言葉が、未だに引っかかっているからである(大江・清水編・渡辺一夫著『狂気について』岩波文庫・1993)。こんな知見を私が自然に持ちえるはずがなく、だからこれは氏から教えられたに違いない。そして、「汝の敵を愛せ」と説いたイエスの教えが、しばしば変節し、苛斂誅求を極めた理由を教えられた思いがしたのである。

中国、朝鮮半島に対する50年前のわが国の振る舞いは、私にこの事を思い起こさせるのである。幼児期における性的抑圧や異常体験は長じてその人の人格に甚大な影響を及ぼし、満たされなかった欲求が嫉妬となり、あるいは自分に加えられた理不尽な懲罰に対する復讐心が周囲の弱き者、差し当たっては子供や老いた親に向けられるという話はよく耳にするところである。民族の歴史にも同様の問題を抱えることはないのだろうか。その国の困窮期には忘れられた自国の過酷で屈辱的な歴史は、そこからようやく回復し、順風の発展を謳歌する頃、改めてそれが想起され、そして過去の苦しみが噴き出し、怨念となって燃え上がる。わが国に対する、現在の韓国・中国の対応は、私にはそのように見えるのである。

だから直ちに、双方が深刻な対立関係になるという訳でもないだろう。ここ数年間の日中・日韓の鞘当は、私としても不安であり、不快であった。しかしそれらは、互いの国内問題をその対策上外交問題に転嫁する、言わば政治的マヌーバーに過ぎず、十分承知の上でのやり取りとして、その限りでは抑制的であったようだ。事実、それによって決定的段階にまではならなかった。しかし、そうした一連の事件は、互いの不信感を醸成させたことは間違いない。そして、何に依らず火遊びは常に危険だ。ボヤがどこで大火になるか知れたものではない。盧溝橋事件はそんな一例ではなかったか。またその意味では、この二三日のトランプ・金正恩のやり取りはチキンレースの様相を帯び、非常に危険である。

現在の日中関係にはそんな心理的、政治的な下地がある。ここに尖閣絡みか、南シナ海かはともあれ、領土問題が主題になれば、話はさらに深刻になろう。そこでは常に煽情的、過激なナショナリズムが台頭し、両政府の抑制を突き破り、制御不能になる可能性は大いにある。かくて日中は抜き差しならぬ隘路に嵌り、ついに戦争に突入したらとの思いは消えない。その足音は密やかだが、不気味な高まりをみせ始めている。その時こそ、日中戦争下のわが国への怨念、復讐心が一気に燃え広がるのではないかと、私は恐れるのである。

私は改めて問いたい。現在、わが国は中国、韓国はじめ周辺諸国から許されてあるのだろうか。日中の関係は、今や経済力・軍事力共に、戦前とは逆転し、とくに昨今の中国は、ようやく準備が整ったとばかり、我々に昂然と牙をむき始めているように思うだが、それは私の杞憂に過ぎないのだろうか。これが単なる杞憂であれば、日本国民にとって、それほど幸いなことはないのだが。今後の日本政府の外交力が真に問われているのではないか。

 

初めに戻って、731部隊の暴虐は、敗戦直後、米占領軍によって完全には把握されていなかった。部隊の細菌研究とそのレベルは知っていたようだが、まさか人体実験までは想定してはいなかった。それには、部隊が爆弾投下までして施設全体を無に帰そうとした徹底的な証拠湮滅、破壊工作が功を奏した面もあった。だから、石井四郎は当初、米軍の尋問にも差しさわりのない程度に答えて安心できた。しかし、ソ連軍の捕虜となった石井部隊の枝隊によって事態は全世界に暴露される。ソ連軍から戦犯として石井他責任者らの引き渡しを強要された占領軍は、部隊の蓄積した膨大な人体実験の現資料と交換で彼らの犯罪行為を免責したとされる。勿論、この一連の暴虐行為は中共政府の知悉するところであると共に、その惨状を再現した施設や資料館もあり、それらは反日教育の一環として活用されているようである(以下次回)。


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