2017年8月14日

8月14日・月曜日。雨。早や夏の終わりを感ずる(前回の文章大幅に手直しした)。

この話はこれで終わりにはならない。帝銀事件をご存じであろう。昭和23(1948)年1月26日、帝国銀行椎名町支店で起こった青酸化合物による強盗殺人事件である。子供を含む行員16人が薬物を飲まされ、4名の重体者と12名の犠牲者を出し、強奪された被害額は16万4千円のほか1万7千円の小切手であった。事件の残忍さと被害額の大きさが日本中を震撼させたのはいうまでもない。ただ、当事件の経過については松本清張『小説帝銀事件』(角川文庫・1961)やこれをベースとした映画もあり、ここでは触れないでおこう(というよりも、これに関わればまた大変なことになるので、御寛恕を)。

事件現場は犠牲者や重体者の病院搬送等に追われて、やむを得ぬこととは言え、現場の保存はほとんど叶わなかった。また、確たる物証を欠き、捜査は当然、難航する。その中で犯人に繋がりそうな物証は、3点しかない。まず事件の翌日、強奪された小切手が安田銀行板橋支店で換金されるが、そこに記された裏書人の筆跡(現場検証の遅れにより、被害の全容が明らかになる直前に、犯人はいち早く現金化していたのである)である。次いで、帝銀事件の前年(10月14日)、安田銀行荏原支店で類似事件があったことを警察は掴んだが、その際当支店に残された「松井蔚」(まついしげる)なる一枚の名刺が2点目である。最後に、帝銀事件の丁度一週間前に三菱銀行中井支店でも類似事件が発生しており、そこで残された「山口二郎」なる名刺である。いずれの事件もその骨格・手口は類似しており、さらに安田、三菱に現れた人物は同人であることが、その後判明する。そこから帝銀の容疑者もこれと同一人であろうと判断されたのである。なお、帝銀支店には名刺は残されておらず、犯人が持ち帰ったものと推定された。

残された名刺の内、山口姓は事件直前に銀座で作成されたものであることは突き止められたが、注文主は偽名であり、それ以上の進展はなく打ち止めとなった。松井蔚は実在し、軍医として東南アジア方面に赴任したことのある、現在は「厚生省予防局」に属する医者であった。彼は件の名刺を百枚作っており、その内使われずに残ったのは7枚であった。かなり几帳面な人物であったようで(と清張は言う)、交換された名刺の殆どは整理されていた。この事から、名刺の捜査は「松井蔚」に絞られ、かなり広く、深く伸びていった。

松井本人への調査も厳しかったが、その容疑はやがて晴れる。自分の名刺を使って犯行に及ぶものはイナイ。そこで捜査は名刺を交換した相手先に向けられ、62枚が回収された。彼らは松井の名刺を使用しなかったということで、無罪となった。さらに事件後に手交された名刺が9枚あり、この部分もシロとされる。よって、計78枚分が容疑から外され、残る22枚の相手方が問題となる。しかし、8枚は全く不明であり、14名分の手交先は必至の調査で何とか判明するが、だが彼らからは松井の名刺は回収できなかった。その一人に平沢貞通がいた。彼はそのゆえに容疑者の一人としてリストに挙げられることになるのである。

十四分の一(あるいは二十二分の一)と言う、誠に薄い容疑の線ではないか。しかも彼が受け取った「松井蔚」の名刺はそれを入れていた手提げ鞄ごと三河島の駅舎で盗まれ、その時点で警察に届け出たと証言している。警察も確認済みであった。にも拘わらず、彼は結局、獄に繋がれ39年後に獄死するのである。こんなことを言いたかった分けではないが、脱線ついでに、運命に魅入られるとはそういう事かと思わざるを得ないエピソードを一点記して、本題に行こう(浜田壽美男『もうひとつの「帝銀事件」二十回目の再審請求「鑑定書」』講談社選書メチエ・2016参照)(以下次回)。


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