• では、人はどんなふうにして、その絶ちがたい思いをサッパリとするのか?その見事な例を、お目にかけよう。わたしの友人の話である。間違ってもらっては困る。私ではない。これはもう、キッパリと申し上げる。

    男子なら、タマ算を知らぬものはいない。誰でも皆、きまって左右に一つヅツ与えられ、これは古来より変わらぬ万古不易の法則として、だからそれを当たり前のこととして、ダアレも疑うことはない。誰かそれを疑ったりしようものなら、それは大変。こいつはどっか頭が変か、もしかしたらナ―んか、タマに支障があるのか、イヤイヤ、もっと重大な、人には言えぬ秘密があるんじゃなかろうか?何ぞ、カンぞとあらぬ疑いがかかるは必定。とくに若いモンがそんな嫌疑をかけられたら、それだけで彼の将来は、ジ・エンド。何故にそれ程の重大事が、かかるタマに負わされるのか?子供のころより、ナンシタル者メソメソシタリ、挫けたり、あるいは途方に暮れて泣き言をいおうものなら、それこそ世界のすべて、すなわち親父、センセイ、ガキ大将、はては母親までもがよってたかって、責め立てる。お前は男だろう、タマがついているんだろう、何を情けないことを言ってんだ、となる。これは、彼への励ましなのだろうか?あるいは虐めなのだろうか?それにしてもワカラン。どおしてこんな、シツケなのか教育なのか知らんが、やり方がわれわれの世代にはまかり通っていたのだろう。これはいまだに通じる仕込み方なのか。私は大学のウエイトリフイングの部長を長いことしていたが、そこでもこんな事がまかり通っていたのかも知らん。

    だから、である。これほどの威厳のあるタマに、何か不都合なことが起こってみたまえ。当のナンシは居ても立ってもいられるものではなかろう。事実、私は人に頼んで、スマホとやらで調べてもらったのだ。そおしたら、ジャアーン、いたのです。二つ玉でない人が。二十歳前後のその彼が、不安の極みの中で、こう訴えているのである。僕はドウやら、タマが三つらしいんです。どお成っちゃうんでしょう。大丈夫なんでしょうか?ここから広がる彼の想像、不安、イメイジの世界に付き合ってみたまえ。彼の内面の世界は、もはや絶望、生きる甲斐もうせ、それはさながらダンテがウエルギリウスに連れられて、地獄の門を潜るとき読まされた文言そのものではあろう。「汝、すべての望みを捨てよ」。

    しかし、わが友人は、言った。あのな、おれの右タマはな、綺麗なアアモンド型の、シッカリしたラグビイボオルなんだけれど、左はナンカそこに括れみたいなもんが入って、形が崩れかかってるんだ?このまま粉々になって、土星のようになったら、どおなっちまうだろう?と言いながら、でも彼の顔は、さして深刻でもない様子なのである。モウ、俺も古希を超えた。今更ジタバタしたって、始まらねえ。こうサッパリとしたもんだった。

    つまり、事を受け入れ、欲を捨てれば、人は静かになれる。ただそれは、己が体力の限界を突き付けられ、それは逃れられぬと思い知らされるときに初めて可能になることだ。若い身空では、そうはいかない。多くの未練と欲望と、何よりも有り余る可能性が、かれをとらえてはなさないからだ。しかし、年寄りにはそんなものは無縁だから、かえってあっさりとしていられる。ここに、年を取るということの強さがある、といいたいのだ(6月18日水曜日・雨)(この項、おわり)。

  • 6月11日水曜日。本日も雨。だからというわけではないが、今日も前回の話におつき合いいただこう。年を重ねれば、人は自然に熟するというものでもない。では、なぜ近頃の年寄は、いつまでたってもガキっぽく、なにか諦めのつかない、枯淡の境地にはほど遠いのだろう?しかし、これはなにも今に始まったことではなさそうだ。私がこれまでお付き合いいただいた、多くの先輩諸氏の、それはもうエライといわれた先生方でも我儘ほうだい、し放題の、といってご乱行とまではいかないが、―――そこまでいけば、コッチとらもモちっと尊敬もできようものを――マッ、私くらいの迷惑を人様におかけして、別段これといってお恥になることはなかった。ものの本には、そんな御仁はいくらでも出てくるから、今の年寄だけがことさら劣ったものとして、悪しざまに言われる理由もあるまい。

    では、一体なぜ、年寄りたちは、6,70歳になっても、耳従い、規矩(きく)をこえずと孔子が説いたごとき、静寂な湖水のような生活に入ることができないのか?ヤレヤレ、やっと、本題にたどり着いた。ここに至るまでに、すでに1時間—?ああ、疲れた。モウ、止めようかな。ナンか、バカバカしくなってきた。今日は老眼鏡を忘れて、眼も痛くなった。でも、これで帰っては、ミンナにナンか言われそうだから、もう少し頑張ろうかな。

    その答えは、こうだ。ある種の、といってそれは多くの場合でもあるのだが、年寄りたちは、諦める、格好よく言えば、諦念、断念の念を知らず、いつまでも未練たらしく、己が若き日の思い、希望、あの時の力等などにしがみつき、今でもそれが可能だと思い違いをしているからではないか。己を見つめよ。キミは、昔だって、大したことは出来やしなかったではないか。そのなん分の一の能力が、いま残っているというのか・・?ありやなしやのカネや権力?を駆使してみたところで、心からの共感と得心がなければ、人は動くものではない。そんな結果はたかが知れている。第一そんな大それた願い事を人にやってもらって、それが成就したとしても、今の君の人生上にどんな利益、意味があるというのか・・?君は後、一体、何年生きるというのか。まさか、永遠ではあるまい。そんなことに執着し、その行く末にハラハラ、ドキドキならまだしも、イライラしながら、眼を三角にし、ありったけの腹を立て、命より大事なカネの心配に明け暮れるという生活を、おくりたいのかい(つづく)。

  • わがパソコンの腕前は、一向にはかどらない。それも道理。一週おきに休んでいては、進歩の仕様がないではないか?しかも、週に一度の二時間足らず、ときたモンだ。これではまるで、どっかの大学の英語の授業のようなものだ。週に一度、大先生が選んだテキストの2、3頁ほどの分量を、指名された4、5名の学生が後生大事に、数行ずつ訳させられる。こうして学期は終わる。クラスに4、50名いるとして、学期の間に各人が読んだ量は、ナント、10行たらず・・? かくて立派な大学生並みの語学力がつくというわけだ。モチロン、教授がわにも、それなりの理屈はあって、チャンと理論武装はされている。学生たる者、自ら学ぶべし。仮にも、人からの教えを乞うべからず。ジャア、彼らは何のために教授先生としているのだ?決まっている。いなければ、メシがくえん。言っておくが、これは断じて、わが前職の大学のことではない。

    今日もまた脱線。こんなことを書くつもりはまるでなかった。前回の続きのはずであった。何もかも満ち足りたこの時代にあって、だれでも皆、安直に、苦労もなく、すべてのことが手に入れば、人はいつ、ドンナ風に己の心を鍛えればよいか?であった。ノッピキナラナイ、逃れられない他者との我儘に付き合わされる悲劇に出会って、人は泣く泣く成長するのだろう。シンドイといえば、シンドイ話だ。

    だがしかし、である。こんな仕組みが成り立つとすれば、たとえば上司の我儘もある規範の中に納まり、受け手もそれを良しとする、そんな範囲があるのではないのか?何事も瞬時に、易々とできるように見える時代では、ダーレモ心が練れていないわけだから、上司もまた、則を超えた要求、我儘を押し付け、部下を必要以上に苦しめることになりかねない。これでは人は成長どころの話ではない。かえって,折角の人材を壊してしまう。いや、これらはすべて、これまでのわが行状にたいする心かなる反省である。

  • 5月21日・水曜。このところ、水曜のたびに雨が降る。時に、雨は恵み、慈雨ともなるが、これを受けるこちらの気分次第で、印象はまるで反対だ。何事もそんな具合に、心の動き、気の向くままに、同じ事柄が晴れたり、曇ったり、あるいは青になったり、赤になったりされては、天気は何とも思うまいが、それに付き合わされる周りはタマッタものではあるまい。とくに、相手が上司であったり、得意先やら、はたまた、アアソウカイ、ソレデハサヨナラ、ゴキゲンヨウ、ってな具合に行かない相手であれば、なをのこと始末が悪い。だがものは考えよう。そんな相手を持てばこそ、人は成長するもの。昔の人は言っている。若い時の苦労は金を払っても、負え、と。
    この言には、一理ある。今の若いモンは、と殊更にエラソウナ事を言うわけではない。その心算もない。いつの時代も、若者は年寄りたちからあれこれ言われるのが通り相場だ。それを言う年寄りたちも、変わりはなかった。むしろ、ここで私が言いたいことは、こうだ。現代は、何事も安直に手に入り、我慢がない。その必要もない。他人の持っているものは、なんでも欲しがり、それが無ければ、何かとてつもないものを失ったかのような喪失感に苛まれ、さらには自分の劣等性を突き付けられたような悲壮感を持つ。それでいて、部屋には入りきらないほどのものであふれている。これを何と表現すべきだろう?・・確か、誰かが言っていた。「豊富の中の貧困」。そして、そんな心情は、老若を問わぬ。己れ自身の心の鍛錬。別けても老人のそれこそが、問題だ。私はこの年になって、つくずく思う。私は熟していない。若いといえば、聞こえはいいが、要するにそれは未熟ということ
    だ(次回に続く)。

  • 5月14日・水曜日。二週間ぶりにパソコンにむかう。三回の訓練の成果は灰燼に帰する。嗚呼!ナンタルことか。何となく手におぼえた感触は、ほとんど消え失せ、ホトンド初めからやり直しだ。それにしても、世の人々はエライ。こんな機械?を、いとも簡単に操り、まるで手足のごとし。いろんなキーが無限にあり、その一いちがその役割を持ち、それらのすべてを覚えているらしいのだ。のみならず、これを駆使して、何事かを言わんとす。いや、これはもう立派というほかはない。
    私とて、複雑なことがまるで出来ないわけではない。何しろ、自慢じゃないが、これでも日本将棋連盟から四段位の免許を允許されている身だ。こんなパソコンごときにオタオタしてたまるか。とは言え、である。F1からF12まで並んだキー諸君、insertやらHomeやらそのほかゴタゴタと立て込んでおるが、君たちは一体なんなんだ。書いたと思えば、分けのわからんことを打ち出してくる!俺はソンナ事を言わんとしているのではない。オマイはワイをおちょくっとるんか?という次第である。
    が、マア、意に染まらぬものほど、可愛い、ということもある。猫好きはかの我儘が無性に愛おしいらしく、内田百間は家出の猫に、身も世もあらず懊悩の極みに落ちた。私には、理解を超えたことではあるが、彼の心はこのパソコンの手習いをとうして何となく分かる。本日はこれまで。