• 9月1日・金曜日。曇り。10月頃の陽気とか。

    裁判長の尋問に答えて、判証人は、こう証言する。昭和23年9月、彼は藤田刑事部長私宅で持たれた毒物捜査会議に招かれ種々意見を求められたが、特に「死因判定の問題で私の推論的結論が受け入れられ承認され」た、と言う。この推論的結論は、予め送付された事件捜査経過や検査結果の報告書等からなる10項目に及ぶ文書を基に彼が割り出した結論である。そこには、東大・慶應法医学教室での死体解剖記録、警察本部科学捜査研究所及び木村健次郎東大教授による毒物分析結果報告書等が含まれていた。

    彼は登戸研究所元所員土方 博と共に会議当日、「帝銀毒殺事件の技術的検討及び所見」を提出し、「第一毒液を「青酸カリ」または「青酸ソーダ」あるいは両者の混合物」と特定した。ここに至る経過はともあれ、ここでは興味深い結論部分のみを引いておこう。「本件の毒物は…工業用のものと判断するを適当とす。これが理由は一般市販の青酸カリを溶解すれば大小差はあれ、どれも不夾雑物及び沈殿の少量混在す。…本毒殺事件に使用の毒物は純度悪しき工業用青酸塩で、入手比較的容易なものである」。つまり、平沢でも手に入り、純度の低い青酸カリであったがゆえに、その効力が遅効的になったのだ、と言いたかったのであろう。それにしても苦しい言い訳であり、半年前の彼らの見方とは何たる相違ではないか(以上は木下前掲書に拠った)。

    さらに、ここには東大・慶應の解剖所見の違いや、東大の報告の乱れ、また重要な会議が私宅でなされたという不思議さなど様々指摘されているが、それらは割愛しよう。大事なことは、何故に本部の捜査方針の突然の転換がなされ、それに合わせたような奇怪な対応が次々取られたかである。清張や他の研究者、あるいは平沢冤罪説の支援者が一様に指摘するところであるが、そこにはGHQの介入があった。GHQは犯人を庇ったのではない。恐らく、犯行は731部隊の生き残りの一人に違いないが、これが露見すれば、そこから生体実験の膨大な資料と引き換えに免罪した石井部隊との取引、人体実験の隠蔽等が全世界に知れ渡ることを、GHQは恐れたのであろう。平沢はそのための生贄になったのである。日本政府はそれを容認した(この項、次回で終了の予定)。

  • 8月28日・月曜日。晴れ。時に涼風そよぐ(前回の文章、若干だが、決定的な訂正あり)。

    平沢関係の本を読んでいくと(と言って、ほんの数冊だが)、妙な気持に捉われる。彼の逮捕から日本堂事件の発覚に至るまでは、何か悪い夢を見ているうちに、犯人に仕立てられた。これは不運な偶然が重なった結果に過ぎず、いずれ事実が判明すれば釈放される。これまで運命に弄ばれた彼の命運は、やがて賽の目が変わってきっと吉となる。その筈であった。しかし「日本堂事件」は、彼を死刑囚へと追いやった。これを契機に国家意思の万力が作動し、どう足掻こうとも彼はこの窮状から逃れ出ることが出来なくなった。最早それは、偶然ではなく、必然となったのである。国家的要請を果たすために、彼は無理無理に罪を背負わされ、その道を歩まざるをえなくなった。こんな思いをもたざるをえない。

    ここでは、使用された薬剤に関する証言者の変更についてのみ、一件、挙げておこう。捜査当局は当初から、事件の特殊性、毒物の手慣れた扱いに徴して、旧軍の細菌研究者を疑い、登戸研究所元所員にも捜査は及ぶ(昭和23年4月25・26日の事である)。その一人、杉山圭一は捜査一課小林・小川の両刑事に言う。「青酸カリでは危険でできないから、青酸ニトリールを使ったのが正しいと思われる」。これは同元所員たちの一致した見解である。

    そして、後に薬剤の判定について重要な役割を果たした判 繁雄も、当初、同様の語り口であった。引用しておこう。「帝銀事件を思い起こして考えてみるに、青酸カリは即効的なものであって、一回先に薬を飲ませて第二回目を一分後に飲ませて、さらに飲んだ者がウガイに行って倒れた状況は、青酸カリとは思えない。青酸カリはサジ加減によって時間的に経過させて殺すことはできない。私にもしさせれば、青酸ニトリールでやる。青酸ニトリールを飲ませた場合は、青酸は検出できるが他の有機物は検出できない」。この証言は警視庁捜査第一課・甲斐文助係長の『帝銀椎名町支店員毒殺事件・捜査手記』に記録されているが、しかしこれは公文書ではなく、甲斐係長の個人的メモの扱いであった。ここにも平沢の不幸があった。

    しかし、判は証人として、翌年の12月19日、長野地裁によばれ、証言を行うのである。裁判長は東京地裁の江里口清隆であり、帝銀担当の高木一検事が立ち会っている。そこでの興味深い証言はこうである(以下次回)。

  • 8月25日・金曜日。相変わらずの蒸し暑さなるも、鶴巻公園のプラタナス、唐楓の葉僅かに色づく。秋近し(前回の文章、やや手直しする)。

    平沢には魔が取り憑いたのであろうか。三菱銀行でのほんの一瞬の出来心が、その後の命運を決した。名刺の件も、考えてみれば馬鹿馬鹿しい限りである。22分の1が、何故平沢に絞られたのか。名刺にこだわるなら、山口姓であろう。この注文主こそ真犯人ではないのか等々。それ故、捜査本部もそこそこの尋問で彼を釈放するはずであった。

    先にも言ったが、本部の線は別にあった。その理由は犯行の手口そのものの中にある。閉店直後、椎名町支店を訪れた男は、防疫班の腕章を付けており、支店長に厚生省技官の名刺(犯行後持ち帰られた)を差し出しながらこう切り出す。「近所の相田宅から使用する共同井戸がもとで4名の赤痢患者が出た(これは事実であった)。その家人が本日、当店で預金を引き出しているのが分かった。追って、GHQのホートク中尉の指示で消毒班が来るはずだが、その前に予防薬を飲んで貰いたい」。こう告げて、17個の湯飲みを用意させ、二瓶の薬液を取り出した。まず、第一薬をそれぞれの湯飲みにピペットで二回ずつ入れると、一個の湯飲みを取り上げ、飲みかたを指導する。これは歯に触れると琺瑯質が溶けるほど強力であるから「舌を前に出して薬を包み込んで、喉の奥に流し込むように一気に飲」み、あとで中和剤を飲んで貰う、と言いながら自ら飲み込んだ。

    16名はそれに倣って、薬を飲むと、口の中がヒリツキ、争って中和剤なるものを飲んだ。それでも口中は収まらず、嗽の許可を求め、洗面所、風呂場へと駆け込むが、途中バタバタと折り重なるように倒れ込み、悶絶すると共に青みがかった液体を吐きながら息絶えた。その間、2分ほどである。この凄惨な場面は、映画からもよく分かる。

    ここで注意したいことは、先ずピペットで16個の湯飲みに微量の致死量を正確かつ迅速に配分する技術である。犯人も同じ薬を飲んでいるのである。だから周囲の人々は疑念も持たず指示に従った。一歩間違えれば、彼も同じ目に合うはずであった。これは特殊の訓練と豊富な実践を経なければ出来ることではなく、テンペラ画家の平沢の及ぶところではなかろう。

    次いで、死亡に至るまでの状況からみると、殺害の薬物は青酸化合物に違いないが、青酸カリとは考えにくい。青酸カリの場合、服用後ほぼ即死に近く、2分間の猶予はないそうだ。こうした遅効性の薬物は、スパイにとっては殊に有用であった。逃亡の時間が稼げるからであり、誰が仕掛けたかは直ちに判明しがたいからであろう。であれば、そうした毒物の開発が急がれたが、わが国の場合、登戸研究所で開発され、731部隊も中国で実験したという青酸ニトリールがある。帝銀で使用されたのはこれではなかったかと部隊関係者は見ていた。あの薬の飲ませ方は、含んだ薬を思わず吐き出させないようにするためであった。石井四郎もあれは自分の部隊の誰かではないかと言ったという。

    警察はその線を追求し、すんでのところまで迫っていた。しかし、捜査はその直前で頓挫する。それは何故か(以下次回)。

  • 8月18日・金曜日。曇り、蒸し暑し。過日、NHKの「731部隊」特番の再放送を教えられ、録画によってこれを観た。やはり映像の力は違う。よくぞ製作し、放映したものだ。これが我が第一印象であったが、番組関係者の今後を思わざるを得ない。時代はそれを予感させるからである。また、収集した資料の膨大さに目を見張る。是非、その展示、閲覧の可能性を開いて欲しい。

    8月21日・月曜日。曇りのち、晴れ。蒸し暑く、不快。(なお、8月14日・月曜日の記述は大いに訂正する。誤解、誤記のため)。

    平沢は天覧画を供するようなテンペラ画の大家であった。が、奇矯なる人でもあったようだ。その経緯はともかく、しばしば嘘と誠の境が混濁し、周囲からは虚言癖のある人間として見られていた。それだからであろうか、彼には人には言えない、露見すれば犯罪者となる秘密があった。帝銀事件から遡る事2ヶ月前の11月25日、彼は小切手を換金するため三菱銀行丸ビル支店にいた。折しも、預金を引き出そうと当行に来た女性事務員が、受付番号を落としたのに気づかぬまま、フイと外出する。まさにその時、当の番号が呼ばれ、平沢は素早く拾い、「一万円と預金通帳と印鑑を受け取」り、さらにあろう事か、通帳の改竄に及んで、預金額を40万円にまで増額する。これをカタに借金を計画し、小切手に替えて銀座の日本堂時計店から宝石の購入を画策する始末であった。いずれも未遂に終わる事件であったが、これが後に言う「日本堂事件」である(浜田壽美男前掲書、52頁)。

    平沢が逮捕されるのは事件から7か月後の8月21日である。捜査本部は、当初名刺の線上から捕えた平沢を本ボシとは見ていなかった。その後の調査でも、依然確たる物証は出ず、何より椎名町店の生き残った行員の第一回の面通しで、彼だと証言した者は誰もいなかった。この点では、他の二行の行員も同じであった。総じて犯人像としてはあまりに弱く、本部は別の線を本命と見ていたのである。それでも彼の逮捕に至ったのは、浜田氏によれば、居木井為五郎なる警部補の憑かれたような凄まじい捜査にホダサレ、一旦は彼の顔を立ててやろうというところがあったようだ。

    その流れが一気に反転するのは、日本堂事件が露見したからである。この被害者たちは一致して彼が犯人であることを証言した。当初、平沢はこれを否認するものの、ほどなく自白し、自らの罪を認めると共に、その後これについて争うことはなかった。ただし、これを機に本部の見方は激変する。今や彼は騙り者であり、虚言者となった。帝銀関係のこれまでの証言は否定され、以降、彼は真犯人として、時に拷問まがいの厳しい追及に晒されるのである(以下次回)。

  • 8月14日・月曜日。雨。早や夏の終わりを感ずる(前回の文章大幅に手直しした)。

    この話はこれで終わりにはならない。帝銀事件をご存じであろう。昭和23(1948)年1月26日、帝国銀行椎名町支店で起こった青酸化合物による強盗殺人事件である。子供を含む行員16人が薬物を飲まされ、4名の重体者と12名の犠牲者を出し、強奪された被害額は16万4千円のほか1万7千円の小切手であった。事件の残忍さと被害額の大きさが日本中を震撼させたのはいうまでもない。ただ、当事件の経過については松本清張『小説帝銀事件』(角川文庫・1961)やこれをベースとした映画もあり、ここでは触れないでおこう(というよりも、これに関わればまた大変なことになるので、御寛恕を)。

    事件現場は犠牲者や重体者の病院搬送等に追われて、やむを得ぬこととは言え、現場の保存はほとんど叶わなかった。また、確たる物証を欠き、捜査は当然、難航する。その中で犯人に繋がりそうな物証は、3点しかない。まず事件の翌日、強奪された小切手が安田銀行板橋支店で換金されるが、そこに記された裏書人の筆跡(現場検証の遅れにより、被害の全容が明らかになる直前に、犯人はいち早く現金化していたのである)である。次いで、帝銀事件の前年(10月14日)、安田銀行荏原支店で類似事件があったことを警察は掴んだが、その際当支店に残された「松井蔚」(まついしげる)なる一枚の名刺が2点目である。最後に、帝銀事件の丁度一週間前に三菱銀行中井支店でも類似事件が発生しており、そこで残された「山口二郎」なる名刺である。いずれの事件もその骨格・手口は類似しており、さらに安田、三菱に現れた人物は同人であることが、その後判明する。そこから帝銀の容疑者もこれと同一人であろうと判断されたのである。なお、帝銀支店には名刺は残されておらず、犯人が持ち帰ったものと推定された。

    残された名刺の内、山口姓は事件直前に銀座で作成されたものであることは突き止められたが、注文主は偽名であり、それ以上の進展はなく打ち止めとなった。松井蔚は実在し、軍医として東南アジア方面に赴任したことのある、現在は「厚生省予防局」に属する医者であった。彼は件の名刺を百枚作っており、その内使われずに残ったのは7枚であった。かなり几帳面な人物であったようで(と清張は言う)、交換された名刺の殆どは整理されていた。この事から、名刺の捜査は「松井蔚」に絞られ、かなり広く、深く伸びていった。

    松井本人への調査も厳しかったが、その容疑はやがて晴れる。自分の名刺を使って犯行に及ぶものはイナイ。そこで捜査は名刺を交換した相手先に向けられ、62枚が回収された。彼らは松井の名刺を使用しなかったということで、無罪となった。さらに事件後に手交された名刺が9枚あり、この部分もシロとされる。よって、計78枚分が容疑から外され、残る22枚の相手方が問題となる。しかし、8枚は全く不明であり、14名分の手交先は必至の調査で何とか判明するが、だが彼らからは松井の名刺は回収できなかった。その一人に平沢貞通がいた。彼はそのゆえに容疑者の一人としてリストに挙げられることになるのである。

    十四分の一(あるいは二十二分の一)と言う、誠に薄い容疑の線ではないか。しかも彼が受け取った「松井蔚」の名刺はそれを入れていた手提げ鞄ごと三河島の駅舎で盗まれ、その時点で警察に届け出たと証言している。警察も確認済みであった。にも拘わらず、彼は結局、獄に繋がれ39年後に獄死するのである。こんなことを言いたかった分けではないが、脱線ついでに、運命に魅入られるとはそういう事かと思わざるを得ないエピソードを一点記して、本題に行こう(浜田壽美男『もうひとつの「帝銀事件」二十回目の再審請求「鑑定書」』講談社選書メチエ・2016参照)(以下次回)。