• 9月22日・金曜日。小雨。晩夏、初秋の実感の無いまま、早や秋深し。

    人の死の背後には様々な原因・理由があり、それらが特定されない不審死の場合、社会的に多少の耳目を引くものである。それが現下の重要人物となれば、のっぴきならない大きな社会問題になるのは避けられない。だがその死因が自殺と認定され、しかもその理由が病弱、精神的・家庭的困苦等全く個人的なものに留まり、それらが人々の得心をえられる程の整合性がつけば、一応、社会は納得し、それ以上の詮索は求めない。その限り、警察が捜査に乗り出すこともない。とすれば、自殺はその背後に蠢く闇にとっては、願ってもない死因となる。
    下山貞則の死もそのようにして解決されるべき死の筈であった。だがそうはならなかった。自殺・他殺の説が入り乱れ、原因は特定されずに「下山事件」として、今に至るも未解決のままとなった。ゆえにこれは、司法的には決着を見た「帝銀事件」とは対蹠にある、別種の未決事件である。しかし彼の死は「自殺」ではない。他殺、しかもそれは「暗殺」であった。この事は政府自身が認めたことである。時の総理・吉田 茂は言っている。「日本政府は一九四九年夏に発生した国鉄総裁暗殺事件は、一人の朝鮮人による犯行と断定した」(柴田哲孝『完全版 下山事件最後の証言』562頁。祥伝社文庫・平成29年)。なお、600頁に及ぶ本書は興味深くも恐ろしい書である。ここでは、GHQの管理下にあり、二重統治に喘ぐ当時のわが国の政治・経済・社会の暗黒面を抉り出し、そうした広範な視野のもと「下山事件」が解明されていく。しかも、同時にそれは、この事件にも深く関わり、他に密輸・暗殺も手掛けたと言われる、得体の知れない貿易会社「亜細亜産業」の重役が著者の祖父であったという、何とも凄まじい家族の物語でもあるのである。
    一朝鮮人の犯行とする吉田の言は、マッタクの出鱈目である。それは吉田自身も知っている。むしろ彼がここで言いたかったことは、当時取り沙汰されたGHQの事件への関与の否定であった。そんな事にでもなれば、漸く纏まりかけたサンフランシスコ講和条約は破綻し、これによって構築しようとする対ソ連に対する日米の防共政策は瓦解しようからである。とすれば、この事件に対する政府の対応の評価は難しい。本条約は、その後のドイツ、朝鮮半島の分断の歴史に徴すれば、わが国にとって計り難い恩恵をもたらしたことは争えないからである(以下次回)。

  • 9月11日・月曜日。強い日差しなるも、吹く風は秋。

    帝銀事件の翌年、すなわち昭和24年7月5日、国鉄総裁下山定則が国鉄本社に近い日本橋三越本店から忽然と姿を消し、翌日の未明、常磐線の北千住と綾瀬の中間辺りで轢断死体となって発見された。世に言う「下山事件」がこれである。

    事件はこれに留まらなかった。むしろ、これに誘発されるようにして、10日後には、三鷹駅構内で無人の電車が暴走し、多数の死傷者をだす「三鷹事件」、翌月の17日には、「松川事件」として知られる東北本線松川駅近辺での列車顛覆事件と連発するのである。特に本事件の場合、現場は丁度カーブ状になっており、その地点のレールから犬釘を抜き、継ぎ目板2枚とボルトも外されていたと言うから、顛覆はどうみても人為的に惹き起こされた事件とみる他はない。政府はこの二つの事件を、国鉄合理化の阻止を目論む、共産勢力の仕業として断罪し、当初、裁判もそうした方向で進んでいくのである。これを見ても、労使双方の関係が如何なるものであったかが、察せられよう。

    下山事件はその先駆けとして発生した。一か月前に就任したばかりの新総裁は、GHQの命を受け10万人規模の人員整理というとてつもない難題を背負わされ、折しも失踪事件前日(4日)に彼は30700人の解雇名簿を発表すると共に、その断行を宣言していた。それがいかほどの重圧であったか。ここには、外部からは伺い知れない、総裁の苦衷があったであろう。

    だからであろうか、失踪に至る数日前の総裁の挙動は、傍から見ると腑に落ちない、何か錯乱したもののように見えた。轢断死の一報を受けたとき、総裁は自殺に追い込まれるほどの重圧の最中にあったのだろう。こう納得した人が少なくなかったのも無理からぬことであった。そして、警察も自殺説で処理しようとしたのである(以下次回)。

  • 9月5日・火曜日。薄曇り。秋晴れとは程遠い陽気が続く。

    帝銀事件については、関係図書を読むにつれ、その闇の深さと誰でもこうした罠に落とし込まれるのではないかとの恐怖を覚える。警察、検察、裁判所は一体となり、拷問まがいの取り調べから調書の改竄、証拠の捏造、それに基づく判決へと遮二無二突き進むが、ここには漸く掛かった獲物を是非にも真犯人として裁き、一刻も早く事件を決着させようようとの禍々しい意思を感ずる。それは、最高裁の判決により死刑囚となった平沢及び支援団体の必死の闘争と十数度の再審請求を、司法はことごとく棄却し、平沢の獄死後の今なお継続される請求運動からも見て取れる(この度第20回目の再審請求が出されるようである。浜田前掲書)。

    事件は明治憲法から現憲法への転換の直後にあり、しかも刑法は旧法がそのまま踏襲され、いまだ客観的な物証より自白が重視され、かくて刑事や判事はなりふり構わず自白を求め、誘導的かつ強迫的な取り調べに走る時代であった。現憲法は公務員による拷問禁止を謳っているが、その精神は一顧だにされず、ここにも平沢の不幸があった。そうした多くの不備や占領下での、しかもGHQの介入までも疑われる大事件をこんな短文でケリを付けられる訳も無く、関心の向きには清張はじめ手ごろな本もあろうが、ここでは平沢救出に全財産と身命を捧げ、遂には子息まで平沢の養子になった森川哲郎『ドキュメント「闇の昭和史」秘録 帝銀事件』(祥伝社文庫)を挙げておく。

    先に、帝銀事件には731部隊の関与があり、当初捜査本部はその線を追及していた、と言った。それがどの程度のものであったかを伺わせる文章が森川前書にあり、これを引用して、ひとまず我が帝銀事件考に始末をつけよう。

    「成智警部補の提出した報告書には、次のように書かれてあった。

    (一)帝銀の犯人は、自ら毒物を飲んで見せている。これは致死量の限界を知っている者だけにできる特異な技術である。

    (二)使用した青酸カリ溶液は、最低致死量である。

    この場合、初期中毒症状が発生するまで、一分ないし二分を要する。

    現場に引き止め策として、第二薬と称し一分後に単なる水を飲ませていることは、実験の経験者か、その実験データを検討した者以外に、知ることのできない秘密である。

    石井部隊以外の者にはできないのではないか?

    (三)最低致死量の青酸カリを五グラムの水に溶解すると混濁する。帝銀現場で用いられた第一薬は、混濁していた。

    (四)ピペットは、軍の特殊工作員の用いた駒込型ピペットであったが、その持ち方と飲ませ方が、軍で予防薬を飲ませたときと同じであり、軍医経験者か、同部隊要員以外にはあり得ない。

    (五)冷静沈着な行動ぶり、いかにも医者らしい雰囲気と風格のもとに、最後まで事を処したのは、殺人の実験者特有のものである。

    (六)結論として、この犯人は、七三一部隊出身者の容疑がきわめて濃厚である。

    この結論のもとに、警視庁は、全能力をあげて真犯人を追いつめていた」(73頁)。

    731部隊の線は新聞社でも追っていたようなのである。部隊の動静は米軍によって管理され、それはひた隠しにされていたが、遂にそれが漏れはじめた。読売新聞が突き止めた。そのとたん社会部次長大木氏が警視庁からの呼び出しを受け、急ぎ出向けば、米軍情報部のイートン中佐、藤田合同捜査本部長らからの、有無を言わせぬ厳命を受けた。「即刻に七三一部隊から手を引くように。」というのは「石井部隊は、米ソ戦に備えて、現在保護を加えて温存している状態である。これをアバキたてられては米軍は、国際的に非常に苦境に陥る。石井部隊全員も戦犯裁判に付さなければならない」(同211-2頁)。国家の大事の前には、一個人の命運など塵芥ほどの価値も無し、と言う事であろうか。それ故に恐ろしい話である。

    この話はこれで終えるが、しかし731部隊の魔手はこれでは済まなかった。それを知って、私自身慄然としたのである(以下次回)。

  • 9月1日・金曜日。曇り。10月頃の陽気とか。

    裁判長の尋問に答えて、判証人は、こう証言する。昭和23年9月、彼は藤田刑事部長私宅で持たれた毒物捜査会議に招かれ種々意見を求められたが、特に「死因判定の問題で私の推論的結論が受け入れられ承認され」た、と言う。この推論的結論は、予め送付された事件捜査経過や検査結果の報告書等からなる10項目に及ぶ文書を基に彼が割り出した結論である。そこには、東大・慶應法医学教室での死体解剖記録、警察本部科学捜査研究所及び木村健次郎東大教授による毒物分析結果報告書等が含まれていた。

    彼は登戸研究所元所員土方 博と共に会議当日、「帝銀毒殺事件の技術的検討及び所見」を提出し、「第一毒液を「青酸カリ」または「青酸ソーダ」あるいは両者の混合物」と特定した。ここに至る経過はともあれ、ここでは興味深い結論部分のみを引いておこう。「本件の毒物は…工業用のものと判断するを適当とす。これが理由は一般市販の青酸カリを溶解すれば大小差はあれ、どれも不夾雑物及び沈殿の少量混在す。…本毒殺事件に使用の毒物は純度悪しき工業用青酸塩で、入手比較的容易なものである」。つまり、平沢でも手に入り、純度の低い青酸カリであったがゆえに、その効力が遅効的になったのだ、と言いたかったのであろう。それにしても苦しい言い訳であり、半年前の彼らの見方とは何たる相違ではないか(以上は木下前掲書に拠った)。

    さらに、ここには東大・慶應の解剖所見の違いや、東大の報告の乱れ、また重要な会議が私宅でなされたという不思議さなど様々指摘されているが、それらは割愛しよう。大事なことは、何故に本部の捜査方針の突然の転換がなされ、それに合わせたような奇怪な対応が次々取られたかである。清張や他の研究者、あるいは平沢冤罪説の支援者が一様に指摘するところであるが、そこにはGHQの介入があった。GHQは犯人を庇ったのではない。恐らく、犯行は731部隊の生き残りの一人に違いないが、これが露見すれば、そこから生体実験の膨大な資料と引き換えに免罪した石井部隊との取引、人体実験の隠蔽等が全世界に知れ渡ることを、GHQは恐れたのであろう。平沢はそのための生贄になったのである。日本政府はそれを容認した(この項、次回で終了の予定)。

  • 8月28日・月曜日。晴れ。時に涼風そよぐ(前回の文章、若干だが、決定的な訂正あり)。

    平沢関係の本を読んでいくと(と言って、ほんの数冊だが)、妙な気持に捉われる。彼の逮捕から日本堂事件の発覚に至るまでは、何か悪い夢を見ているうちに、犯人に仕立てられた。これは不運な偶然が重なった結果に過ぎず、いずれ事実が判明すれば釈放される。これまで運命に弄ばれた彼の命運は、やがて賽の目が変わってきっと吉となる。その筈であった。しかし「日本堂事件」は、彼を死刑囚へと追いやった。これを契機に国家意思の万力が作動し、どう足掻こうとも彼はこの窮状から逃れ出ることが出来なくなった。最早それは、偶然ではなく、必然となったのである。国家的要請を果たすために、彼は無理無理に罪を背負わされ、その道を歩まざるをえなくなった。こんな思いをもたざるをえない。

    ここでは、使用された薬剤に関する証言者の変更についてのみ、一件、挙げておこう。捜査当局は当初から、事件の特殊性、毒物の手慣れた扱いに徴して、旧軍の細菌研究者を疑い、登戸研究所元所員にも捜査は及ぶ(昭和23年4月25・26日の事である)。その一人、杉山圭一は捜査一課小林・小川の両刑事に言う。「青酸カリでは危険でできないから、青酸ニトリールを使ったのが正しいと思われる」。これは同元所員たちの一致した見解である。

    そして、後に薬剤の判定について重要な役割を果たした判 繁雄も、当初、同様の語り口であった。引用しておこう。「帝銀事件を思い起こして考えてみるに、青酸カリは即効的なものであって、一回先に薬を飲ませて第二回目を一分後に飲ませて、さらに飲んだ者がウガイに行って倒れた状況は、青酸カリとは思えない。青酸カリはサジ加減によって時間的に経過させて殺すことはできない。私にもしさせれば、青酸ニトリールでやる。青酸ニトリールを飲ませた場合は、青酸は検出できるが他の有機物は検出できない」。この証言は警視庁捜査第一課・甲斐文助係長の『帝銀椎名町支店員毒殺事件・捜査手記』に記録されているが、しかしこれは公文書ではなく、甲斐係長の個人的メモの扱いであった。ここにも平沢の不幸があった。

    しかし、判は証人として、翌年の12月19日、長野地裁によばれ、証言を行うのである。裁判長は東京地裁の江里口清隆であり、帝銀担当の高木一検事が立ち会っている。そこでの興味深い証言はこうである(以下次回)。