• 12月15日・金曜日。曇り。いよいよ押しつまる。今年の漢字は「北」であったが、私には「乱」が相応しい。さて、諸氏は…?

    言語とは、われわれ人間にとって何であろうとお考えか?ふつうそれは、「コミュニケーション」のための一手段、だが最も重大な手段だと思われないだろうか。言語は、モッパラそのためのモノだと。かく言う私は、そう思ってきた。しかし、それはどうも違うらしい。たとえば服は、本来、寒暖を防ぐ用具として発達しながら、しかし他方で自己主張やセンスの発露他、多様な手段として役立つのと同様に、コミュニケーションのための言語機能とは、そういう何か派生的なものであるらしい。だから、こうなる。「言語はコミュニケーション・システムとして進化したのではない…初期の言語はもっと…現実世界の構築、思考の道具として進化した」(87頁)との研究成果に基づき、著者は「統計的に言うと、言語が圧倒的に使われるのは内的 ― つまり思考のためだ」と言い切る(86頁)。そして、人間言語の構造、すなわち意味論、統辞論、形態論、音韻論(申し訳ないが、これらを解説する余裕、と言うより能力はない)において、「人間言語の中核的性質は、動物の意思伝達システムとはまったく違い、生物世界ではほとんど唯一無二のモノのようだ」(87頁)。

    言語が伝達手段というよりも思考の手段だ、という指摘は極めて重要である。われわれは言葉を介してしか思考できず、言葉を奪われたとき思考は成り立たない(この場合、発話は重要ではない。手話も同一の意味を持つとは、著者の繰り返すところである)。すでにジョージ・オーウェルは「1984」において、スターリンを模した独裁者が「ニュースピークス」なる新言語を国民に強制し、思考の単純化と愚民化を推進するという、独裁政治の暗黒を描いたが、この時オーウェルは言語の重要性を十分知っていたのであろう。

    では、このような唯一無二の言語体系の発達はいかにして可能であったか。言語の進化を扱おうとする本書の目的はここにある。結論的に言えば、それはアフリカの原野において、われわれ現生人類であるホモ・サピエンスが登場した時代に遡る6万年前の事であった。ネアンデルタール人から現生人類に至る長大な進化の過程でその脳内に生じた「突然変異」の結果であった。ここに著者はダーウィンの進化論と切り結ぶ。彼は人も知るように、突然変異を否定し、漸進的変異の累積により生物進化を捉えていたからである。

    著者は古生物学の進化過程を追いながら、特に人間の脳の進化を追究し、ネアンデルタール人の脳容積とホモ・サピエンスの容積は遜色ないものの、しかし後者の脳内における特異性、すなわち、脳内の言語を司る部位の「繊維束」の「環」が閉じられたことに着目するのである(205-214頁)。前者ではその環が開いたままであったと言う。

    以上、自分でも何を言っているのか分らぬままに、こんな一文を草してきたが、本を読むとは、書かれた全てを分からなければ読んだ甲斐がないというものでも無かろう。負け惜しみを言う訳ではないが、これまでの我が研究体験から言って、著者自身が自己撞着に陥り、ご自分でも何を言っているか分からぬ歴史上の第一級の思想書は幾らでもある。とすれば、凡人たるわれわれが興味のある本に出会い、分からぬままに分かるところを読み取り、ご自分の糧にする、そんな気楽さで本に付き合ったらいかがか。こんな思いであえて暴挙、いな恥を晒した次第である。

    以上をもって今年の書き納めとしたい。一年間、お付き合い頂き感謝申し上げ、来年もよろしく。皆様、よいお年をお迎えあれ。

  • 12月8日・金曜日。曇り。過日、ラグビー早明戦を秩父宮にて観戦す。昨年の雪辱を果たす快勝であった。かつて、明大ラグビー部の部長を三年間務めた身としては、久しぶりの快哉を叫ぶ。絵画館前の銀杏の黄葉、盛りを過ぎるも見事であった。

    本書の冒頭は実に魅力的だ。「人は泣きながら生まれてくる。その泣き声は言語のめばえを知らせるものだ。ドイツの乳児はドイツ語の抑揚で泣く。フランスの乳児はフランス語の抑揚で泣く。これはどうやら胎内で獲得するもののようなのだ。生後ほぼ一年以内に、子供は母語の音声システムを身につけるようになる。そしてさらに何年かが過ぎると、そばにいる人と会話をしている。どんな人間言語でも獲得するという、ヒトという種が持つこのすばらしい能力―“言語機能―は、ずっと以前から重大な生物学的問題を投げかけている。たとえば、言語の本質とは何か。どのような働きを持つのか。どのように進化したのか」。

    人間はマッサラな、白紙のような状態で生まれ(ロック「タブラ・ラサ」)、その後の経験から多様な観念を獲得し、ひいては人格形成に至るという主張があるが、事はそれほど単純なものではなく、乳児はすでに多くのモノを背負って誕生するらしい。とすれば、妊婦の置かれた状態は乳児にとってすこぶる重大であろうが、これは本書とは関係のない別の問題である。本書は上で挙げられた主題の「三つ目の問題、つまり言語の進化」をとくに生物学的進化の視点から扱おうとするのである。

    まず、断っておかねばならない。以下は我が勝手な要約で、本書の正確・忠実なそれではなく(そんなことは全く不可能だ)、興味の向きには是非本書をご一読あれ、と申し上げておく。マッ、これは今に始まった事ではない、とは諸氏の既に周知のところであるから、当方としては安心しているのだが…。

    人間以外にも、かなり精度の高い言語的な伝達能力を持つ動物は、蟻や蜂の例を挙げるまでも無く幾らでもいる。ある種の類人猿は―チンパンジー―人間に類する言語能力さえあると考えられてもいるようだが、にも拘らず人間の場合そうした事例から質的・量的に隔絶したマッタク別個の言語体系を確立しており、そのような言語がどのようにして獲得されたのか、その構造がどうあり、よって言語は、人間にとっていかなる意味を持つのかが、次第に明らかにされるのである(以下次回)。

  • 師走・朔日・金曜日。曇り。早いものだ。これ以外の言葉は思いつかない。

    ノッケから恐縮ながら、次の文章をお読み頂こう。「最近ではコミンズとゲントナー、そしてエンゲッサー他が、この学習能力は単なる順序付け以上のものであることを示唆している。コミンズとゲントナーは、ムクドリが人間の音声システムを思わせる抽象的なカテゴリー形成能力を示すと報告している。そしてエンゲッサーらは、音素対立を持つ鳥の種を一つ――クリボウシオウストラリアマルハシ――発見したと主張している。種に固有の能力があることを指摘したのがコーエンだった。…」(22頁)。

    これはチョムスキー、バーウィック共著の『チョムスキー言語学講義』(渡会圭子訳・ちくま学芸文庫)からの一文である。オビには「人類進化にとって、なぜ言語が問題なのか?その本質を問う格好の入門講義。」とあり、これに引かれて手に取った。この分野のわが基礎知識たるや誠にリッパなもので、英・独語の在るか無しやのか細い文法と、はるか昔に習った日本語の文法的知識(❓)のその残滓くらいのモノでしかない。これを唯一つの財産として、多少の興味があると言うだけで、本書に挑んだという訳である。

    いくら「格好の入門講義」と歌われていても、これではとても歯が立つまいと予想の通りの仕儀ではあったが、しかし考えてみれば、これまでの我が研究生活なるものもこれに類したことで、了解不能な書物の数々をともあれ最後まで取っ付いて諦めないという訓練が功を奏したか、この度もまたとにかく最後の頁までたどり着いた。本文217頁に四日を要す。

    まず、本書中に出てくる研究者や膨大な文献、その成果の意味等々について、私はマッタク知らない。であれば、冒頭の文章が分かろうはずも無く、そして、この手の文が延々と続くのである。だが訳文は、私の直感では、名訳である。分野は多岐にわたり、素材の難易度は半端ではない。これをよくぞ完訳されたと、訳者の能力と努力とに敬服する。しかし解説は無く、訳注も本文中の簡単な補足を除いて一切ない、ただいきなり本文が出てくるという素っ気なさには、正直マイッタ。しかし、読了して思うに、解説、訳注を付そうとすれば、精度にもよるが、本書は優に二、三倍の分量にならざるを得なかったであろう。

    本書は以上の通りであるが、それにも関わらず、私のような全くの門外漢であっても理解できる。勿論、多様な問題領域や細部における論議、その意義いかんなぞ分かるはずも無いが、著者が説いてやまない、またこれだけは解れと主張する論点はそれなりに理解できるのである。それが本書の力であり、訳者はその事を十分承知していたから、余分とするところを省くことが出来たのであろう(以下次回)。

  • 11月13日・月曜日。晴れ。風穏やか(例の通り、前回の文章やや手を入れた)。

    11月24日・金曜日。晴れ。先週末、大学の仕事で沖縄に行く。1泊2日の旅であった。若者の多くは半そでの軽装であり、夜半、帰京すれば、寒波。列島の長大さを改めて知る。

    イシグロは「記憶」を説明するのに、本作に限らずスナップ写真の例を引く。焦点は鮮明だが、その周辺はボヤケル。思い出す映像は鮮明であるが、しかしそれがどの脈絡であったかは定かで無い。こうして組み替えられる記憶は、その度に本来の意味を少しずつ変えることになろう。記憶の変容、捏造への一歩であろうか。

    記憶とは、ごく簡単に言えば、まず頭脳に刻まれた過去の経験を時に応じて思い起こしたり、これを使用したりする過程、その機能を包括的に示す言葉である。その過程や機能はそれぞれ記銘・保持・再生として区分される。つまり、ある事が脳に刻印される=記銘され、それが保存される=保持され、時に応じて意識化される=再生される、そうした過程・機能である。これらの過程は基本的に、誰にとっても同一のもので、相違はその範囲や種類や数量にあるようである(Britannica Concise Encyclopediaより)。さらに、これもまた誰でも知っているように、すぐに忘れられる短期記憶と、忘れようにも忘れられない長期記憶の別があり、そのメカニズムもそれなり説明されるが、ここでは割愛しよう(そんな難しいことは私には説明できないから)。ただ、時間と共に何でも忘れてしまうという訳ではなく、逆に鮮明になる事柄もあるということも多くの人の知るところである。

    いずれにしろ、記憶の変容の免れ難いことは、今更言うまでもない。にもかかわらず、記憶が人間にとって重大な意味を持つことは、これもまた論をまたない。第一に、自分が自分として意識され、保存されるのは、恐らく記憶をおいて他にないからである。昔の写真を見て、己の変容ぶりに今更ながら呆然とする日々ではあっても、にも拘らずかつての自分との連続の中に今があると得心し、安心できるのもこの記憶の故であろう。記憶喪失者を主題とする映画や小説に中で、一度もそんな体験のない者であってもこれに恐怖し、不安を覚えるのは、すでに事の重大さを知っているからではないだろうか。それは自分の立っている土台の崩落、瓦解にも例えられる程の不気味さであろう。

    しかし、そうなると、ここで奇妙な難問に逢着するような気がするが、ドウであろうか。過去から今に至る自分を保全する最大の縁は記憶である。しかしその記憶は大小様々に変容され、時に捏造さえされているそうした代物だという訳である。ではそんな記憶に包まれる自分とは、果たして一体何者なのか。自分はこうだと信じてはいるが、それはやはり捏造された別の何者なのかもしれぬ。これもまた不気味な話ではないか。確かに、記憶を訂正し、再生を促す写真や手紙、残された無数の記録があるが、しかしそれとて配列、脈絡を変えれば、全く別の意味や図像を呈するのは、これまた誰もが知るとおりである。イシグロは記憶のそんな危うさをそっとした、何気ない文章の中に忍ばせるのである。イジワルな人だ。

    ところで、記憶は個人のモノだけではない。民族や国家の記憶もある。となれば、これはもはや無意識の変容などと言う無邪気な話ではなく、アカラサマナ捏造、偽造には事欠かない。そんな手口の一端は、ここでも帝銀事件や下山事件の際に見たところであり、ましてや国家の威信が賭かれば際限はなかろう。そして、この問題に直結するのかどうか自信もないが、イシグロは『忘れられた巨人』の中で、民族の記憶の問題を扱う。今回の話はこれを論ずる導入として始めたものであったが、例によって脱線が脱線を呼び、主格が転倒してしまった。もはやこれを扱うエネルギーも失せた。よって、この話はこれで仕舞いとしよう。

  • 11月7日・火曜日。本日立冬。鶴巻南公園のユリノキの大樹、見事に黄葉す。

    カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞に触発されて、この半月ほどをかけ、遅まきながら五点の作品を読んだ(全冊ハヤカワ文庫版による)。前から氏の令名と主題には惹かれるものがあり、いつかはと思う内に日延べとなっていたのである。

    初の長編小説と言われる『遠い山なみの光』は私には難解で、池澤夏樹氏の解説により何とか追いついたような気がする、そんな読書感であった。当然面白みもない。『日の名残り』には大いに惹かれた。ヒトラーに引き回されるヨーロッパ列強の外交交渉に加えて、その裏舞台となる政府高官の私邸で展開される極秘の会合、会食の在り様が執事の目線から丹念に描かれ、恐らく表舞台には現れない高度に政治的な意思決定の過程の一端を教えられる。その一点だけでも私にとって興味深い作品である。同時に、往時の英国貴族の広壮な邸宅の運営、主人と執事、そして彼と他の使用人らとの間の厳格な階層関係やそれぞれの職務についても同様である。

    このような外交の舞台をしつらえ、微妙な問題を美味な飲食と優雅な雰囲気の内に溶け込まし、事の速やかな成就に心を砕く。これこそが第一級の執事の心組みであろう。であれば、彼は心酔する主人が担う国家的な任務の遂行のために、己を捨て全身全霊をもって仕えねばならない。同じ屋敷に仕える父親が、たとえ死の床にあろうとも、心を煩わせずに仕事を果たす。これぞ、彼の求めて止まぬ執事の「品位」なのである。そして、主人へのそのような奉仕を通して、自身の国家や歴史への貢献を自負し、深い満足を覚えるのである。であれば、彼には、自らの個人的な愉しみや娯楽はありえず、彼に心を寄せる女中頭の思いにも気付かぬまま、早や「名残り」の日々を迎えてしまった。

    物語は、主人公である執事による彼女への回想と邂逅を求めての旅路から始まる。つまり、本書のテーマは執事としてこれまで過ごしてきた人生の「記憶」への旅路でもあった。彼がすべてを擲って尽くした主人は、戦争が終わってみれば、ヒットラーの都合のいい手駒でしかない素人外交官にすぎず、ドイツに協力した戦犯にも等しい二流の人物であった。とすれば彼の人生は、彼の思う栄光に満ちた、生きるに値するものでありえたのか。こうして実人生と記憶との軋み、そこに生ずる両者の歪み、いやあの時は「そうではない、こうであった」との記憶の捏造や変容、しかし今更取り返しのつかない、何とも痛恨の痛みが己の生の奥底に蹲る。そうした人生上のシクシクと刺すような記憶の痛みは、特に名残りの日々を迎えるような歳になってみれば、誰もが覚える一事であろう。イシグロはこのような逃れ難い記憶の残酷さを抑制的な語り、淡々とした筆致で突きつけてくるのである(以下次回)。