• 8月3日・金曜日。猛暑続く。本日昼の長期予報によれば、この暑さは9月中旬頃まで続くとの由。茫然として言葉も無い。

    8月8日・水曜日。雨。今夕、13号台風、関東地方上陸の予報あり。

     

    (2)、すでに見た通り、わが国でも、水源を抱える山林が外国資本によって買収されるケースが報告されているが、それによって水利権を握られてしまえば、周辺住民の生活はたちまち危険に晒されよう。そうした実例がThe New York Times(Weds.July18.2018)に見られる。「ソーダは何処にでもある。糖尿病もまた」と題される記事がそれだ。メキシコのある都市(サンクリストバル)で、本病は蔓延しているが、それはコカ・コーラの飲みすぎによるという。その次第はこうである。

    当市は山岳地帯に位置する最も雨量の多い地域に属する。しかし、その住民は水道を存分には使えない。二日に一度、あるいは週に数回しか給水されない水道水は少量に過ぎ、また塩素分が強すぎて飲めたものではない。で、多くの家庭ではタンク車から別途に水を買う羽目になる。水に恵まれた土地にしては皮肉な話だが、人々は止む無く近隣地域の工場でボトリングされたコカ・コーラの厄介になるという訳だ。瓶詰の水よりも手軽に手に入るし、何よりもズット安い。もともと、メキシコは世界でも甘味飲料水の消費大国と言われているが、その中でも当市の住民は一日平均2リットル以上のソーダ水を飲むらしい。

    こうして住民の健康問題が出来する。糖尿病による死亡率は、2013年から16年の間に30%の上昇を見、心臓病に次ぐ第2位の死亡原因となった。因みに、本市を含むチアパス州の糖尿病の死亡者数は毎年3千人を超える。

    水よりもコーラの方が手軽だとは、より一層深刻な問題を呈する。ある医者の言葉である。「糖尿病は大人の病気だが、次いで子供にも憑りつき、われわれ全員を圧倒することになる」。こうして、糖尿病の蔓延と恒常的な飲料水不足に翻弄される住民たちは、今やその元凶(Culprit)をハッキリと悟った。市の外れに盤踞する巨大なコカ・コーラ工場である、と。

    工場側は、連邦政府との10年来の交渉の末、一日30万ガロン以上を取水できることになり、しかもそれに対する支払いは、260ガロン当たり10セント(ある科学者の試算)でしかない。何たる優遇ではないか。さらにそのカネは地方政府にではなく、連邦政府のものである。よってここではインフラ施設は壊滅的で、下水はそのまま地下水、河川に流れ込み、大腸菌やその他の病原菌に汚染されてしまった。

    かくて住民たちの怒りは沸点に達する。これに慌てふためいた工場側の弁明が、取ってつけたような単なる取り繕いに過ぎないのは何処も同じだ。曰く。この度の騒動に、驚いている。そもそも工場の取水は住民の生活水よりはるかに深い水脈からなされ、よって工場は住民の生活水に何らの影響も及ぼしてはいない。その挙句、住民たちの糖尿病は先祖以来の特異な体質によるのではないか、とまで彼らは言い放った。そして続ける。当社は地域経済にとって極めて重要だ、と言うのも、ほぼ400名の雇用を生み、州経済に2億ドルもの貢献をしているのだから。だが、「彼らは我々の純粋な水を着色し、TVコマーシャルでは、本品は命を元気づける呼び水だ、と宣伝している」との住民たちの反論に、さすがにこれは中止に追い込まれたのであった。

    最後に、ある婦人の痛切な言葉を挙げておこう。「最後は眼が見えなくなるか、手や足を失くすのでは、と心配なの。私、とても怖いわ」。

  • 7月24日・火曜日。猛暑。言うべき言葉も無く、ただただ、気息奄々なり。

    7月27日・金曜日。薄曇り。暑さやや和らぐ。とは言え30度を越える。

     

    牛歩の歩みながら、前回で一応「1章」に始末をつけた。であれば、直ちに「2章」に進むべきところ、今少し留まって、これまでの叙述に補注を付しておきたい。

    (1)、市町村の過疎化に伴い、インフラの維持管理の問題が極めて深刻であるとは、すでに触れたが、最近、水道事業について以下のような記事が出た(朝日新聞朝刊・2018、7/18、(日))。

    水道事業は原則的に「市町村が経営する」と水道法に定められており、施設の管理運営は独立採算制のもと各自治体に任されている。人口の増大から減少に転じていった市域では、市の拡張期に拡大した水道施設の維持に加えて、耐用年数40年と言われる水道管の更新の問題が迫ってきている。各地で頻発する水道管の漏水、破断はその前兆であろう(因みに2016年度の基幹部分の水道管耐震適合率は40%未満と言う・浦上拓也近大教授)。

    言うまでも無く、管理運営の諸費用は利用料金によって賄われるが、人口減少は必要経費を担保しない。また、水道料金は基本料プラス従量料金(使用量に応じて料金が加算される)の合計であるから、生活の縮小を伴う高齢化の地域では、使用される水道量は漸減する傾向にあり、基本料金内で収まり、それだけ事業収入の減少は不可避であるばかりか、それは加速度的に進むであろう。その結果は、水道事業の縮小から従業員の解雇、すなわちそれはその地域に根ざした技術者や技術の継承が途絶されるという一層深刻な問題に至るであろう。

    ライフラインに関わる施設は何であれ、一度建設されるとフル稼働しなくとも、必ず維持されなければならない。それに繋がる人々の生活が不可能になるからだ。特に地域の中心から外れた遠方の生活者にとっては、それは最後の命綱に等しい。だが、これに掛かる膨大な経費はどうする。こんな話がある。雪国では市町村道1キロの維持は年間90万円になるようだが、例えばメイン道路から「5キロ入ったところに高齢者が一人で暮らしている場合、その人のためだけに年間450万円の支出」に加え、「ごみ収集や水道管のメンテナンスの費用」も掛かる。こうした経費を「正当性ある行政サービスの一つ」だと言い切るには、様々議論がありそうだが(前掲『縮小ニッポンの衝撃』169頁)、それ以前に、既述の通り、自治体にはそれほどの余力はもはや無いのである。

    水道施設についても、事情は同じ。諸課題に対応する経費は水道料金ではとうてい賄えず、自治体がそれらを引き受けることは出来ない。それに見合った料金の値上げをはかれば、相当の金額に跳ね上がるだろう。

    それは特に小区域を対象とする公営の簡易水道(給水人口101~5000人を対象とする小規模水道であり、2018年度現在では全国に2千箇所ほど在在する)の場合に顕著である。というのは、施設の維持管理費に対する利用者の水道料金は小人数で負担する分、その上昇は避けられない。その他に、水質、水量、簡易水道施設の設置場所等の条件に応じて、管理費は変わってくる。事実、この場合の料金の地域差は顕著であり、例えば、最高額は千曲市樺平地区の6535円に対し、最低額の鹿児島県三島村300円(家庭使用量、月10トンの料金)との比較差は22倍である。これは極端な事例であるが、生命に関わる水道の問題は、それだけで転居能力のある住民の離散を招くのではないか。そして、これは水道に限らず、下水、道路、橋梁他生活上のインフラ施設の全般について言えることである。

    つまり、生活基盤の劣化していく地域では、それ自体が住民生活の困難、不便に直結し、それが住民の減少と更なる基盤の劣化を来たすという悪循環を免れがたい。そうした循環の環を断ち切り、新たな再生への道をどう切り開くのか。これが本稿の課題であるが、しかしまだその方向は見えない。

  • 7月12日・木曜日。晴れ。西日本の惨状、目を覆う。町村や市街化の在り様、現状について多々疑問あり。

    7月20日・金曜日。晴れ。命の危険を及ぼすほどの猛暑、と気象庁は言う。しかも連日。

     

    では、集落の縮小化に絡む住民たちの「話し合い」では、何が中心になろうか。まず集落の地形全体を俯瞰し、住民たちの年齢構成および人口の推移を押さえる。その上で、彼ら自身にとって、この土地に住み続ける、或いは住みたいという将来的な生活環境の維持や保全のために、住民たちが担うことになるはずの負担を考量する。その負担は出来るだけ永続的にならざるを得ないだろう。このような話を詰めて行けば、「担い手の減少に応じて、維持管理が難しい場所を住民自らが選び、集約すべき」区域が決まってくる。そうして、「森に返すエリア、集落全体で保持・活用するエリア」が確定されよう。要するにこれは、「集落の守るべき範囲に線を引き、青写真を描いていく作業」であるが、同時にこの青写真は、誰に強制された訳でもない、住民たちが選び取った将来的な地区像である(147頁)。

    都市計画には、ゾーニングと言う計画区域を目的に応じて商業、工業、住宅区域に区分し、規制する手法があるが、以上はそれに等しい作業であろう。それを住民たちが主体的に行うことが重要である、とは作野、林両氏の言葉である。

    もちろん、以上の全てが上手くいき、住民たちの願った通りの集落で生活が送れるようになったにせよ、それは彼らの故郷の永続を保障する事にはならない。一度消滅の危機に瀕した集落が再生するなどということは、これまで見てきた理屈から言っても、またそこに至った経緯からみても、ほぼ不可能に近いからである。

    ここで大事なことは、住民たちが集落の存続を夢見て、必死に努力したにも拘わらず疲れ果て、いつの間にか四散し、結局は消滅を免れ得ないという「最悪のパターン」を避けることである。そして、消滅と言う同じ結果を受けようと、集落維持のための各自の負担を軽減しながら、無理をせずに今の生活を充実させ、住民自身が得心して幕引きを図っていく。それが可能になるためにも、住民たちの合意形成は何よりも欠かせない手続きなのである。

    消滅に対するこのような姿勢は、より積極的な意味を持つことになる。いよいよ離脱を目前にした時、住民たちはある纏まりをもって他地域への移転を考え、実行できるからである。こうして彼らのその後の生活は、互いに助け合った仲間と共に送ることが出来よう。それがいかに心強い事であるかは、震災等で共同体から引き離された高齢者たちが、孤立した生活の中でたちまち変調していく事例を思い起こせば、明らかである。そして、このような集団移転のケースは未だ少数ながら、アンケート調査によれば、1、日常生活の便利さ、2、医療・福祉サービスの向上、3、自然災害や積雪などの不安の軽減、の理由によって移転は積極的に評価されているのである(167頁)。

    消滅の危機に直面している集落やその住民たちは、今この事実に向き合い始めている。研究者たちも、以前であれば集落の「消滅」などと言えば袋叩きにあったようだが、その手の研究会や会合には、そうした住民たちや代表者が参加するようになってきたという。

    ここでは、これまで集落の「縮小」とその在り方について述べてきたが、しかしそれを言い立てる事がここでの本旨ではない。ただ、少子高齢化の流れは、現在のわが社会では否定すべくもない厳然とした事実であり、これを無視したからと言って、事態はいささかも変わらない。であれば、この縮小を正面から見詰め、それを積極的に捉え直し、そこから新しい社会の在り方を探っていくことは出来ないか。この再生の物語を考えたいがために、まずは「縮小」の構図を捉えようとしたのである。そして、それを踏まえた再生の物語は、我々の生き方にも触れる別種の地平へと我々を引き出すことになるであろう(この項、と言うより「1章」と言うべきか、ひとまず終わり)。

  • 7月10日・火曜日。炎暑、マイッタ。

     

    結論的に言えば、集落の縮小化、さらには集落一体としての他地区への移転、という当事者には切ない覚悟を要する決断、選択肢が迫る。集落の存立がギリギリのところにある限界的集落(住民の高齢化率50%以上、20戸未満)、それどころか消滅さえ迫る危機的集落(高齢化率70%以上、10戸未満)において、その存続を目指した必死の努力といえども、それは冷厳な眼から見れば、単なる抗いでしかない。高齢者の五月雨的な、しかし着実に進む地区住民の減少は、もはや回避できないからである。

    こうした見通しが持てず、なお将来に希望をつなごうとするのは、現に見ている現実を直視せず、迫り来る結果に対する危機感の欠如に過ぎない。掛け替えのない故郷の存立に心血を注ぐ住民たちが、コンナ身も蓋もない指摘、批判を浴びせられたらどうであろう。とてもヒトとは思えず、鬼にも見えたに違いない。だが、そのオニがいたのである。島根大学、作野広利教授その人であり、この指摘をまともに受けたのは鍋山地区の秦会長であった。

    会長は作野教授のアドバイスを受け、先ずは地区内を再見分し、その結果を「空き地を茶色、農地を緑色、空き家を赤色」として地図に塗り込んだ。こうして、地区内では「荒れ地」が予想以上に浸食しているという現状が把握できた。つまり地区内の可視化がなされ、日々見て知っているつもりが、初めて客観化された。そして、「分かっていたとは言いながらも、地図に塗ってみると、改めて実感させられ」たのである。

    このようなマッピングはさらに進み、会長はこれを基に住宅や田畑の集約を含めた集落の将来像について、住民たちとの議論の場を持ちたい。というのも、「かなり大変な話し合いかもしれないけれど」、それこそ人任せでない自分たちが残し、今後とも住みたい集落作りの第一歩だと思うからでる。

    これに対する作野教授の言葉はさすが専門家である。「村を縮めるような話」には反発が付き物だが、いよいよダメになってからでは何もできない。その結果は「どんどん住づらくなって、ますます人が減っていくこと」になり、残った住民たちの集落維持はさらに困難になる他はない。こうして四散し、集落が消滅していくケースは野たれ死ともいえる、「最悪のパターン」(林直樹金沢大学准教授)(166頁)であろう(以下次回)。

  • 7月3日・火曜日。熱風、炎暑にまいる。

    7月6日・金曜日。雨。台風、全国に豪雨禍もたらす。本日、わが誕生日。75歳となる。ただ馬齢を重ねるのみ。

     

    両地区の住民の努力は必死であり、真摯であったことは疑いない。にもかかわらず、将来の展望は開けてこない。この現実を前にして、当事者たちは一体如何なる対応を取りうるであろうか。もう一度言う。住民たちが直面しているのは、彼らにとって掛け替えのない故郷の消滅の危機である。それは手足をもがれるほどの痛みと喪失の悲しみであるという。であれば、徒おろそかに扱える分けも無かったのである。

    しかしこのような痛みと喪失の事例は、当地に限らず、今や全国的な事象であろう。たまたま島根県の場合は、それがよりハッキリと、先駆的な形で出てきた。それ故「縮小ニッポンの未来図」とも称されたのであろう。すでに、増田寛也編著『地方消滅 東京一極集中が招く人口急減』(2014)が書かれており、本書は世に広大な衝撃を与えたが、島根県の諸例はそれを裏書きするような内容であった。

    そして、そこから引き出された結論はこうであった。以下、そこでの要約を記して、本項の結びに替えよう。

    考えてみれば、自治体が域内の、しかも高齢化の進む地区住民に「地域住民組織」の設置を呼びかけ、本来行政の担うべき業務を代替させるなどという政策(?)を持ち込まざるを得なかったことは、ある意味、行政の放棄と非難されてもやむを得ない。事実、「なんで今さらお役所の仕事を俺たちがやらねばならないんだ」、「手切れ金だけ渡して行政は何もせず、責任逃れをするつもりか」(158頁)との声も上がった。しかし、それほどまでに地方自治体の疲弊が深まってきた、という事であろう。

    ここには中央政府と地方自治体の法制上の関係改善や財政制度の見直しと言った積年の諸問題等、検討すべき多くの問題があり、これらに手を付けずしては抜本的な解決は不可能である。ただこれについては別の機会にゆずり、ここでは当面の問題に移らなければならない(以下次回)。