• 2019年1月9日・水曜日。曇り、風強し。本日、仕事始め。

     

    明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。我が正月はただ賀状の返信に明け暮れ、松が取れる頃に終了となるのは、例年の通りですが、今年、この年中行事がともかくこなせた事に安堵する思いを、初めて味わいました。今年を以って終了、と言う賀状をしばし頂戴したからです。それは我が身も同じで、来年は突如そんな心境になるやも知れぬと思えば、今出来ることを、ともかく大事にしよう、これを本年のささやかな決意とします。

    さて、金沢の町づくりとその為の努力は、観光都市を建設し、そこから潤沢な財源をひねり出そうと意図した分けではまるで無い。順序は全く逆である。いくつもの市条例を重ね、市行政と市民や事業者らとの絶え間ない対話を通じ、何よりも住民にとって暮らしやすい町づくりを第一とし、こうして他ではない金沢「らしさ」の在る町が出来上がった。その結果、そんな町を見てみたい、行ってみたいと思う人々が訪れると言うことなのであろう。誤解の無いように、この点を特に補足しておきたい。

    以上、筆者が言いたかったことは、町づくりとは住民の理解と合意、それに基づく協力、支援が第一の要点であり、これを欠けば行政のいかに立派な指導や計画も画餅に帰する。この事は、先の村落の廃村についても繰り返し触れたことである。この点を改めて確認し、以下では今少し具体的に町づくりの骨子を辿ることにしよう。その手がかりを矢作 弘『縮小都市の挑戦』(岩波新書、2014)に求めたい(以下次回)。

  • 12月20日・木曜日。曇り。この三日間、孫娘の反乱は一先ず収束し、ともかく登校す。明後日より冬休み。この間、わが家は当人を含めて、次期の戦いに備えて休養します。ご心配の向きには、この場を借りて、ご報告かたがた御礼申し上げます。

    12月26日・水曜日。晴れ。昨日、付属Ǹ学園の理事会を終え、今年の大学関係の仕事を納める。残るは当欄のしまい方である。果たして、無事納まるのだろうか。

    12月28日・金曜日。晴れ。本日、クリエイトの仕事納め。よって当欄も今日中に何が何でもケリを付けねばならない。

     

    適度な広がりを持ち、一方で海に開かれ、他方に山々が囲み、清流浅野川、犀川の恵みと、そこから引かれた用水や細流が起伏に富む台地を清め、緑を育む。こうした環境の中で、そこに住まう人々を越えて、世界に共感される、掛け替えのない町・金沢が今にある。そのような町として存続し得たには、何よりもこれまで戦火を免れ、長い歴史の翻弄を掻いくぐり、無数に絡む因果の糸玉が現在に導いた多くの僥倖の結果であろう。

    同市を表層的に見れば、そう言えるかもしれない。そして、金沢の今が在るのは、恵まれた環境と歴史的、文化的遺産の故であり、要するに金沢は恵まれていたのである。他市がそれを参考にし、真似る事は出来ない。しかし、このような言葉や見方は、当市を現在にまで至らしめた住民たちの努力を無視した、不当な言という他はない。ここで言う住民たちとは、子供たちを含めた生活者、経済人、行政、各種表現者や研究者等々の全てである。

    今から4年前の2015年3月、念願の北陸新幹線が金沢まで延伸した。その後の観光客数はインバウンド(訪日外国人旅行)効果もあって、飛躍的に増加し、この3年間はいずれも1000万人台を維持している。これは開通直前の14年の2割増であるという。かくて、先ずは観光関連産業から始まる経済的波及効果は甚大であるに違いない。

    となれば、それを見越して、交通体系の改善、宿泊施設の増設、商業地域の拡大やそのための土地取得等が必要となり、行政は行政の立場から、経済界はその思惑から様々な計画が早くから練られてきたであろう。当然、対象となる地域や土地の経済価値は上昇し、歓光業とは直接関係の無い住民たちの資産や暮らし方にも陰に陽に影響したであろう。

    事実、そうした事態や可能性は、金沢に限らず、どの都市でも常に在る。経済発展の見込みと共に、市内外の資本がマンション、ホテル用の土地として買収に動き、地権者の側も事情次第で、渡りに船とばかりに手放すことは合理的な商行為であり、非難される言われはない。そんな土地が時至るまで駐車場やら空き地となって放置され、やがてマンション、雑居ビル街に変り果てる。こうした浸食は閑静な住宅地にまで及び、利を目指した出店と退店が繰り返され、空き家をうみ、町屋は食い荒らされるという次第である(山出前掲書15頁以下参照)。このような都市景観の変貌を、われわれはバブル期から今日にいたるまで限りなく目にして来たのではなかったか(例えば京都室町の危機と再生の物語りについて、佐々木前掲書185頁以下参照)。

    であれば、金沢市の場合、すでに半世紀も以前に「秩序あるまちづくり」を目指した指針造りに動き、1968(昭和43)年、全国に先駆け「伝統的な環境の保存を定めた「金沢市伝統環境保存条例」を制定」(山出前掲書84頁)し、これ以降現在まで19条の条例を積み重ねて(同書115頁)、今日に至った。金沢城公園、兼六園は言うに及ばず、茶屋町、寺町武家屋敷の保存はそうした努力の成果である。

    だが、これが成果として実るためには、市民や経済界等からの同意と支援、むしろ人々のより良い町を造りたいとの積極的な意志がなければなるまい。環境保存のためにはある程度の私権の制限から産業活動の規制の承認に至るまでの「自制の論理」を、自らに課すことだからである。企業市民宣言は言う。「企業も地域を構成する重要な一員であるとの認識を持って、経営合理性のみを追い求めるのではなく、よって立つ地域の『まちづくり』に貢献する」と。そして、それに貢献するのは企業ばかりではない。子供たちから大学生も加わり、また商人・職人、芸術に関わる多様な表現者、金沢大学他の技術者、研究者らもそれぞれの立場から参画するのである。

    最後に言っておきたい。金沢は、環境を守り、歴史・伝統の良さを知り、その保全に情熱を注ぐが、それは決して旧套を墨守し、その単なる保管を目指すというのではない。そんな姿勢からは、国内はもとより世界が注目し、繰り返し訪れたいという町が生まれようはずも無い。歴史に学び、その神髄を現代に甦らせ、日々進化するダイナミズムを持てばこそなのであろう。そうした息吹を、山出氏や佐々木氏の語りは確かに伝えてくれるのである。

     

    これを以って本年の我が『手紙』の書き納めといたします。一年間のご愛読(?)に感謝し、来年もまた宜しくお願いいたします。皆様、良いお年をお迎えください。

  • 12月7日・金曜日。曇り。前回を読み直し、我が思考の停滞、言うべき事柄を言い得ていないもどかしさを感ずる。

    12月13日・木曜日。曇り。同居の孫娘(小2)、登校拒否に陥り、わが家一同の懊悩は限りなし。マイリマシタ!

     

    さて、本題に戻ろう。以下では山出 保『まちづくり都市 金沢』(岩波新書 2018)、佐々木雅幸『創造都市への挑戦』(岩波現代文庫 2018)が大いに参考になる。因みに、山出氏は元金沢市長、佐々木氏は元金沢大学教授であり、ご両人とも金沢を良く知り、愛すること人後に落ちないが、金沢を素材にした諸説を通じて個性的な町とはどのような事か、またそれはドウ造られ、維持されるかについて、多くを教えられるからである。

    殊に山出氏の「歴史の多層性」と「文化の多様性」の指摘は、ここでの論題に深く関わる、と言うよりもそれに引かれて、筆者はこの問題に想い至ったと言うべきであろう。その主張をごく大雑把に要約すれば、ほぼこんな事になろうか(興味のある読者は、是非本書を一読されたい)。

    金沢が位置する自然環境をベースに、そこに住まう人々が今日にいたるまで積み重ねてきた営みの全てが歴史として刻み込まれている。その始まりは利家の能登から尾山(後の金沢)への入植とされ、1583年のことであった。爾来430年の間、戦火を見ないという、世界史にも稀な平和都市で在り続けている(それに並ぶ都市はチューリッヒのみと言う)。だからであろう、例えば金沢城は「石垣の博物館」と言われるように、各時代になされた改築や修復時の石組みの特徴が今に留められているそうだ。

    だが、ここで言いたいことは、こうした石垣がただ残っているということではない。各時代に育まれた生活が多層的な層をなして、この石垣のように、現在にまで伝えられているということである。お蔭で、当市は「他の都市に類例をみないほど多種多様」な顔を持つ文化都市になりえた。金沢の衣食住に見られる生活様式の水準の高さはその結果であろう。つまり、武家時代に築かれた武士としての品格や仕来りがある一方、それ以前の一向信徒によって開かれた自治集落の記憶、さらに当初は武士を顧客とした工芸品は物造りへの拘りと高度な技術を生み、武士たちの貧窮時を助けた商人たちの活動は、武士的な品や矜持を職人や商人層に受け継いだ。かくて、金沢らしい文化や生活空間が育まれていったと言う(以下次回)。

  • 11月30日・金曜日。晴れ。本日、霜月晦日。明日よりは師走。この一年もまた日々の必要に明け暮れ、振り返ればただ茫々たる思いのみ。

    12月4日・火曜日。晴れ。過日の健康診断の結果によれば、軽度高血圧との事。かような言葉自体初めて知った。確かに頭脳明晰とはいかず、疲れやすく、根気も失せつつある。これを歳と言うべきか、病の兆候とみるべきか。

     

    では、歴史や風土に沿うとは、どういう事であろうか。このような問いを発して、以下少しばかり具体的に考えてみたい。まず、筆者がここで言う歴史・風土とは、人々の生活が気候や地形といった自然環境の要因に大きく影響されながら、しかし同時にその時代の学術・技術を駆使し、人々は自然環境に対峙し、これを生活改善に向けて改変しようと努力する。このような努力の蓄積を通して培われるその地域の生活様式の全体だと考えたい。

    この全体の中には、当然、人々の暮らし方、考え方、衣食住の在り様の全てが含まれる。和辻の風土論が自然決定論的であるとすれば、ここでは人間の側からする改変力をむしろ積極的に重視しようとする。

    こうした視点の転換は、科学技術の自然界に対する圧倒的な支配力を目の当たりにしている現在では、特に注視されなければならない。この点は、ここでの論題から逸れるが、やはり一言しておきたい。と言うのも、人類の獲得した現在の科学技術とその発展は、我々に歯止めなき自然支配への欲求を掻き立て、このまま自足への自制心を欠き、欲求のままにふければ、我々人類は地球を破壊し、丸ごと食い潰してしまうのではないか、そんな恐怖すら覚えさせる勢いだからである。この意味で、1972年に出された『成長の限界』なるローマクラブの警鐘が改めて想起されなければならない(以下次回)。

  • 11月15日・木曜日。晴れ。過日、東京有明医療大学 付属鍼灸センターに2時間余を掛けて出向き、この歳にして初めて鍼灸治療を経験した。NHKの特別番組に触発され、ことに西洋医学との融合もはかるとの治療方針に惹かれたからである。初体験の印象としては、効いた。週一度通院することにしたが、様子を見て、いずれ経過を報告したい。例によって前回の文章に手を入れる。

    11月21日・水曜日。晴れ。鶴巻公園の銀杏今なお青々とし、他の落葉樹は紅葉せぬまま落ち始める。その葉無惨な茶色にくすみ、この冬の暖冬を告げる。気候の変調明らかなり。今週月曜日、二度目の鍼灸治療を受ける。今回は、やや痛苦を覚えたが、体調は改善されているように感ずる。

     

    先に、地域再生を目指した「町づくり」について、考慮すべき項目を6点にまとめて提示した。勿論、これは筆者の私論に過ぎず、これで尽きるなどと言える代物ではない。読者には、これを手掛かりにご自分の「町づくり」論の枠組みを構想して頂ければ、と思う。

    以下では、最後に付した5、6の項目に対し若干の説明を加え、必要な限りで他の項目との関連を考えつつ、ここでの「町づくり」論についてヨリ具体的なイメージが持てるよう努めたい。

    新たに加えた点は、地域の歴史・風土とその文化性であった。この2項目は互いに溶け合い、結局は一つの項目に纏められるものであるかも知れないが、ここでは分けて考えてみたい。

    まず前者から始めてみよう。ここで私が言う歴史・風土とは、今日の地域を現在のように造り上げた重要な要素であり、ある意味これは地域を生み育てた入れ物だと考えたい。とすれば、なぜこの地域がこのようにあり、他のようには成らなかったかが分かり、それ故この地域がこのような特徴を持つということを、人々が理解できることになる。

    地域はそこに住まう人々によって維持され、彼らの創意、工夫や努力に拠ることは言うまでもないが、同時にそうした人々の活動は、初めから彼らの置かれた歴史的・自然的な環境に大きく制約されてもいる。和辻哲郎は、だから『風土―人間学的考察』で人間理解の一つの方法として風土に着目したのであろう。そして、こういう考え方は、私見では、ある人間を理解するためには、彼の育った環境と幼児からの精神史を知らなければならないという、フロイドの見方を想起させられるのである。

    してみると、地域の今後の展開や改革は、そうした歴史的・風土的な環境を無視し、あるいは断絶させる、何か暴力的な仕方で断行することには、無理があろうし、その維持は長期的には不可能ではないのか。たとえばここで、砂漠のど真ん中に忽然と出現させたラスベガスや中近東の最近建設されているような、全く人為的な都市を考えれば、ドウか。そのような都市は、その存続のために飲料水や燃料その他生活上のインフラ施設の維持のために膨大なエネルギーを要するばかりか、永遠にそのような努力を続けなければなるまい。しかし、そのような事が今後も可能なのであろうか。私にはこれらは、まさに砂上の楼閣に見えるが、それはそう見える、我が眼球の障害故なのであろうか(以下次回)。