• 11月30日・金曜日。晴れ。本日、霜月晦日。明日よりは師走。この一年もまた日々の必要に明け暮れ、振り返ればただ茫々たる思いのみ。

    12月4日・火曜日。晴れ。過日の健康診断の結果によれば、軽度高血圧との事。かような言葉自体初めて知った。確かに頭脳明晰とはいかず、疲れやすく、根気も失せつつある。これを歳と言うべきか、病の兆候とみるべきか。

     

    では、歴史や風土に沿うとは、どういう事であろうか。このような問いを発して、以下少しばかり具体的に考えてみたい。まず、筆者がここで言う歴史・風土とは、人々の生活が気候や地形といった自然環境の要因に大きく影響されながら、しかし同時にその時代の学術・技術を駆使し、人々は自然環境に対峙し、これを生活改善に向けて改変しようと努力する。このような努力の蓄積を通して培われるその地域の生活様式の全体だと考えたい。

    この全体の中には、当然、人々の暮らし方、考え方、衣食住の在り様の全てが含まれる。和辻の風土論が自然決定論的であるとすれば、ここでは人間の側からする改変力をむしろ積極的に重視しようとする。

    こうした視点の転換は、科学技術の自然界に対する圧倒的な支配力を目の当たりにしている現在では、特に注視されなければならない。この点は、ここでの論題から逸れるが、やはり一言しておきたい。と言うのも、人類の獲得した現在の科学技術とその発展は、我々に歯止めなき自然支配への欲求を掻き立て、このまま自足への自制心を欠き、欲求のままにふければ、我々人類は地球を破壊し、丸ごと食い潰してしまうのではないか、そんな恐怖すら覚えさせる勢いだからである。この意味で、1972年に出された『成長の限界』なるローマクラブの警鐘が改めて想起されなければならない(以下次回)。

  • 11月15日・木曜日。晴れ。過日、東京有明医療大学 付属鍼灸センターに2時間余を掛けて出向き、この歳にして初めて鍼灸治療を経験した。NHKの特別番組に触発され、ことに西洋医学との融合もはかるとの治療方針に惹かれたからである。初体験の印象としては、効いた。週一度通院することにしたが、様子を見て、いずれ経過を報告したい。例によって前回の文章に手を入れる。

    11月21日・水曜日。晴れ。鶴巻公園の銀杏今なお青々とし、他の落葉樹は紅葉せぬまま落ち始める。その葉無惨な茶色にくすみ、この冬の暖冬を告げる。気候の変調明らかなり。今週月曜日、二度目の鍼灸治療を受ける。今回は、やや痛苦を覚えたが、体調は改善されているように感ずる。

     

    先に、地域再生を目指した「町づくり」について、考慮すべき項目を6点にまとめて提示した。勿論、これは筆者の私論に過ぎず、これで尽きるなどと言える代物ではない。読者には、これを手掛かりにご自分の「町づくり」論の枠組みを構想して頂ければ、と思う。

    以下では、最後に付した5、6の項目に対し若干の説明を加え、必要な限りで他の項目との関連を考えつつ、ここでの「町づくり」論についてヨリ具体的なイメージが持てるよう努めたい。

    新たに加えた点は、地域の歴史・風土とその文化性であった。この2項目は互いに溶け合い、結局は一つの項目に纏められるものであるかも知れないが、ここでは分けて考えてみたい。

    まず前者から始めてみよう。ここで私が言う歴史・風土とは、今日の地域を現在のように造り上げた重要な要素であり、ある意味これは地域を生み育てた入れ物だと考えたい。とすれば、なぜこの地域がこのようにあり、他のようには成らなかったかが分かり、それ故この地域がこのような特徴を持つということを、人々が理解できることになる。

    地域はそこに住まう人々によって維持され、彼らの創意、工夫や努力に拠ることは言うまでもないが、同時にそうした人々の活動は、初めから彼らの置かれた歴史的・自然的な環境に大きく制約されてもいる。和辻哲郎は、だから『風土―人間学的考察』で人間理解の一つの方法として風土に着目したのであろう。そして、こういう考え方は、私見では、ある人間を理解するためには、彼の育った環境と幼児からの精神史を知らなければならないという、フロイドの見方を想起させられるのである。

    してみると、地域の今後の展開や改革は、そうした歴史的・風土的な環境を無視し、あるいは断絶させる、何か暴力的な仕方で断行することには、無理があろうし、その維持は長期的には不可能ではないのか。たとえばここで、砂漠のど真ん中に忽然と出現させたラスベガスや中近東の最近建設されているような、全く人為的な都市を考えれば、ドウか。そのような都市は、その存続のために飲料水や燃料その他生活上のインフラ施設の維持のために膨大なエネルギーを要するばかりか、永遠にそのような努力を続けなければなるまい。しかし、そのような事が今後も可能なのであろうか。私にはこれらは、まさに砂上の楼閣に見えるが、それはそう見える、我が眼球の障害故なのであろうか(以下次回)。

  • 11月2日・金曜日。晴れ。本日より本論に戻って、10月9日・火曜日の論述に繋げたい。ほぼ一か月の思考の中断により、話の接ぎ穂を得るに、当方にもやや戸惑いあり。

    11月6日・火曜日。雨。本日、世界が固唾をのむアメリカ合衆国の中間選挙の投票日である。トランプ大統領の2年間の政治的成果が問われ、その結果は全世界に対し甚大な影響を及ぼす。諸外国がこれほど注目する選挙は、近年希ではなかろうか。なお、前回の文章にかなり手を入れた。

     

    私がこの記事に惹かれたのは、ここには「人口減少時代のまちづくり」のヒントなりエッセンスが詰まっていると感じたからである。以下それを要約しておこう。

    1.地域の自然資源の徹底的な活用が先ずあげられる。両町の場合、それは森林から切り出した豊富な樹木である。建材や各種木工用の製材加工から木酢液の抽出さらにバイオマスとしての活用などである。特に下川町では、そうした取り組みから温水や暖房用の熱源を引き出し、少なからぬ予算の節減をみた。のみならずシイタケ栽培が軌道に乗り、大手製紙会社の薬用植物研究所を発足させたようである。

    2.域内での生活に展望が開けると、自然の中の暮らしに惹かれた移住者が見込まれるばかりか、現に「昨年度は転入者が転出者を21人上回」る成果を見た。この点を評して、国谷裕子氏は言う。「地域の資源を上手に使って外から人を呼び込むことで、町の持続性を高めている」。

    3.こうした域内資源の地産地消をベースにした経済的仕組みを整える事で、地域は基本的な経済的自立への道を歩み始める事が可能となる。この事の意味は重要である。周辺都市圏への不必要なまでの依存が縮小され、都市経済の事情に左右されにくくなるからである。そうした町の意志と覚悟は、三井物産の子会社が提案した大規模なバイオマス発電への協力を拒否した町議会の姿勢からも明らかである。これを受け容れれば安価な熱源の購入が見込まれたのにである。反対派によれば、「これまでの地域に根ざした仕組みが取って代わられ、町内で利益が回らなくなる」との危惧があったからである。つまり、会社提案にのれば、町は結局会社に依存せざるをえないことになり、そこから上がる利益は町には還元されないこともあり得る。のみならず、経済事情によって、会社の撤退と言った深刻な場面に、町は逢着するかも知れない。

    4.最後に、これら一連の取り組みは、全て住民を主体にして実行されたことであり、その重要性はこれまでも様々な地域のリーダー達によって異口同音に語られたことであった。ここでも当プロジェクトに反対した町議は言っている。「住民といっしょに将来を考える必要がある。今回こういう形で立ち止まったのだから、対話を積み重ねたい」。

    以上の項目に5.地域の歴史・風土、すなわちその地域が今日に至った成り立ちと、この点と重なるが6.文化性を加えれば、「町づくり」についての考慮すべき基本的な論点は摘出されたことになろうか。ただしこの点は改めて考えてみなければならない。

  • 10月15日・月曜日。曇り時に雨。秋色愈々深し。本日は突然ながら本論を休載したい。前職の政治経済学部より『政経フォーラム』連載の「OB近景」なるコラムに我が近況報告の依頼(締め切り今月末)を受けたためである。以下はその下書きであるが、お付き合い頂きたい。

    10月19日・金曜日。曇り時に小雨。承前。なお前回の文章に多少手を入れる。

    10月22日・晴天。前回の文章の推敲。興味のある方はご一読あれ。思考の進みが分かります。

     

    「サプリ漬け何かが効いてまだ動き  みつお」    金子光男

    タイトルは数年前の賀状に付した川柳から取った。チョイト鈍くなったが、今の所何とか動けてはいる。大学監事と会社役員の「二足の草鞋」を履きながら。ただ用のない暇の折々は酷いもので、昼寝だか夕寝だか分らぬ長い惰眠にふけり、か細い読書で日を過ごす。以下では、この会社役員なるものの「奮闘記」を記して近況報告に替えさせて頂こう(監事職も気の抜けぬ職務ながら、大方のご推察の通りだからである)。

    会社は(株)中央クリエイトと言う。補償・建設コンサルタント、各種計量証明・測量業務を主とし、今期18年、15億円ほどの年商である。東京本社(早稲田)を初め北陸、中部、関西地区に支社を置き、社員は現在116名(契約社員14名を含む)を数える。補償業務部門での業績は毎年業界トップ5を下らない。なお、当社は日本音響学会、交通工学研究会、社会環境学会に属し、技術系の会社としては当然の事だが、それでも私から見て中々勉強熱心な会社であると言っておこう。

    創業者は竹馬の友・朝日健介である。彼とは文京区立小日向台町小学校1年1組から6年間、同じ1組の同級生として過ごし、爾来、付き合いは続いてもはや半世紀を超えることに。因みに、同校は荷風の母校であるとは坂上博一先生の大著『永井荷風論考』(おうふう 2010)で教えられた。荷風と同窓とは誠に嬉しく、小日向台に位置し歴史ある同校の事、調べれば誠之小には及ばぬまでも、多くの偉人を見るのではなかろうか。

    このアサヒが創業の折、「カネミツ、手伝わないか」とボソリと言った。戯れに(但しかなりメジカラを込めて)、「給料は」と訊けば、「出す」。面白そうだし、一も二も無く承諾する。と言って、当時私は歴とした専任教授の身である。二つの専任職はありえない。折しも社外役員が取りざたされた頃でもあり、その流れに乗って社外監査役として収まった。

    今やその私が社内一番の古株となった。アサヒは既に身を退き、大株主として鎮座する。にも拘らず、いまだに私は業務の内容をほとんど知らない。監査役当時、2ヶ月ごとの役員会に出席するだけで良かったのだから。今にして思えば、役員会での私はかなり大部な配布資料と各役員の報告に対し、知らぬを良い事に怪しげな質問と難癖を付けていただけのような気がする。アサヒはこれを苦笑まじりに見逃し、役員たちも大学の先生の言う事だからと許して呉れたのだろう。大学退職後、晴れて役員として本社に通い出す。勤務の日時は決まっていない。その日の都合と私の気分や体調次第になる。何しろ、後期高齢者ですぞ。それでも最低、週1,2回は出社し、出たからには勤勉かつ誠実(?)に、せめて3,4時間は働いていると、申告しておこう。

    本社に顔を出すようになったからと言って、突如、私が業務に精通し出した分けではない。現場に出たこともないのだから、それも当然である。だが、社内でブラブラされては社員は困ろうし、邪魔になるばかりだ。その位の分別は私にもある。そこで私は一大発起し、「金子光男の手紙」なるブログの発信に思い至った。見たことはあっても、触ったことはないパソコンに、古希を超えての挑戦である。まさに「70の手習い」だ。これぞ大決心と言わず何と言おう。こうしてオッカナビックリ、根岸社長の手ほどきを得ながら始めること、早や5年。何とか文字だけは打てるようになった。アトは何も知らない。

    発信される手紙の内容はドウか。今日まで当社の宣伝めいた文章は一度も書いたことはない。仮に書けと言われても、何も知らない身としては、書きようもなかろう。だから「心に浮かぶよしなしごとを」徒然に記すばかりであった。来し方の研究の要約やら関心を引いた書物の書評、評論、政談等々を綴ってきたまでである。となれば、やはり多少の読書は必要になる訳だ。そして、今は「社会のたたみ方」と題する論文(?)に取り組んでいるが、少子高齢化に喘ぐわが国社会の向かうべき将来像を、私なりに描いてみたいと思ったからである。

    かくも我儘な「手紙」が当社にとって何か役立ち、給料に見合う仕事になっているのであろうか。流石の私も気になって、そう洩らせば、根岸社長の返答が素晴らしい。「仕事に関係のないお話のお陰で、業界とは全く無縁の方々にもクリエイトの社名が知られるようになりました。また、毎週、ブログが更新される事で信用もつき、これまでお付き合いのない会社からも引き合いが来るようになりました。もしかしたら、先生が一番の働き手かもしれません」(社長、確かにそう言いましたからネ。今更、忘れたといっても駄目です)。

    それにしてもである。もしもこの言葉がお世辞ではなくホントであれば(我にもなく弱気だが、とてもホントとは思えない)、現実の出来事には汲み尽くせないほどの内容と意味が込められているのだと、改めて思い知らされた。私がこの事実を学んだのはリッケルトやヴェーバーからであったが、彼らの教えはここでも正しい。この手紙にそんな意味が潜もうなどとは、夢にも思ったことはないのである。とすれば、今日までの我が振る舞いの危うさよ。それらが思いがけない形で周囲に迷惑をかけ、あるいは誰かを励ましたかもしれないと思うと、何か落ち着かない気にもなる。そして、唐突ながら、杉田水脈衆議院議員には、とくとご自分の文章の怖さを学ばれる事だ。

    だが、こう言ってはきたが、実は私は「手紙」ばかりを書いて来た分けでも無いのである。役員会では、確かに自らの職務を果たしている。曰く。若い役員たちを叱咤し、社員教育の重要性と仕組み造りは独壇場である。当社は今、各種の資格試験に取り組もうという社員を資金的に支援し、資格取得者には給与に反映される制度を整えた。その成果は徐々に出始め、意欲的な社員が増えて来ているようにも思える。あるいは、経験の浅い会社故の制度的不備等の目配りも怠らない。これらについては、大学時代でのわが行政的な経験がそれなりに役立ち、翻ってそれは現在の大学監事の職務に幾分なりとも反映されているかも知れない。と、やや自慢めいたことを言わせて頂こう。

    しかしコンナ自慢話以上に、クリエイトに関わることで、私はこれまで実に多くの事を教えられてきた。長年、経済思想史の講義のために、社会諸事象の問題について、ジャンルを問わず、多少なりとも本を読んできた心算である。しかし現実が示す生々しい事例は、時に教科書的な知識を越えた凄味がある。殊に建設業界内部の仕来りや関係、役所からの仕事の発注、応札の仕組みを知れば(しかもそれは各自治体によって多様である)、規制緩和とその浸透性はドウなのか、と考えざるを得ないような不思議な場面にしばしば遭遇させられる。さらに、現場における金融機関との交渉の機微などは、単なる預金者の立場からでは伺えぬ事態であろう。

    最後に、世の経営者に申し上げたい。社業の発展を願うなら、是非とも歴史家を迎えなさい。歴史家なぞ使い物にならん、と言う莫れ。「歴史家に七徳有り」との言葉があるのをご存知か。曰く。達意の文章、類いまれなる記憶力、浩瀚な知識に透徹した洞察力そして時代を見抜く先見性…(あと2つは忘れた。となれば、わが記憶力は類い稀ではありません)。かくてたちまち御社の問題点を捉え、時代に漂流する社の進路を定め、向かうべき港にシカと導いて呉れるであろう。ここまで見越して私に声を掛けていたならば、アサヒは確かに偉かった。

  • 10月5日・金曜日。雨。過日、仕事で久しぶりに金沢市に行く。金沢城を中心にした保存と開発の街造りから多くを教えられる。本稿のような問題を抱えていればこそ、そのような所に目が向いたのであろう。

    10月9日・火曜日。晴れ。

    まず、SDGsとはSustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の略字であり、「すべての国連加盟国が2030年までの達成を目指す、貧困や教育、環境など17分野にわたる目標」と説明される(なお、政府のこれらに対する対策は「持続可能な開発のための2030アジェンダと日本の取組」http://www.mota.go.jpを参照)。その内、両町の活動は、特に森林の持続可能な利用と経営を通じて森林資源の荒廃や枯渇を阻止し、こうして環境を保全しようとする分野に属するが、同時にこの活動はそのまま町の再生にもつながるとしたのであろう。と言うよりも、町の再生には政治や行政の動員力を考えれば、SDGsは強力な梃子になりうる。であれば、これを積極的に利用した町造り、と言った方が適切であるかもしれない。

    では、その具体的な取り組みとは何か。上記のように、両町は北と南に位置するものの、いずれも消滅すら意識せざるを得ない山間の町である。人口は下川町3340人(平成30年)、小国町7420人(平成29年)であるようだ。両町に有るのは森林ばかり。下川町は、町域の90%がトド松、カラ松の森林で占められ、小国町の場合は8割と言う。多雨多湿のお陰か良質な小国杉が育ち、さらに当地では、杖立温泉のような湯治場も開けている。

    わが国の林業が立ち行かない、と言われてすでに久しい。安価な外国産木材の洪水的な流入に押されたためである。山から人が消え、間伐もままならず、山は荒れた。両町もその例に漏れない。殊に下川町(以下は同町のみ触れておく)では、頼りとした下川鉱山、三留鉱山の閉鎖(1980年代)がさらに苦境を増した。こうした中で、同町はすでに1950年代から林業を産業基盤にしようと、町有林を買い増し、林道等の整備に取り組んできた。かくて、「町は森林資源を守るため、植林→育成→伐採を60年で一回りさせる「循環型森林経営」という手法」を確立させた。

    それに至る道が平坦でなかった事は、上記の通りであるが、ともあれ現在は下記のような状態を維持するまでになった。「切り出した木はすべて使い切る。」それは製材、木炭、ガーデニング用品、殺菌剤用の木酢液の抽出にいたる。森林バイオマスによる熱供給は、現在、11基のボイラーを稼働させ、役場、学校等に暖房や温水を供給し、灯油に比して年間予算の1900万円を節減させた。さらに地元の資源による「熱の自給率は公共施設で約7割、町全体で5割にのぼる」。他にも「森のある暮らしを求めて移住者」がふえ、昨年度は転入者が転出者を21人上回った。確かに、こうした結果が「地域の資源を上手に使って外から人を呼び込むことで、町の持続性を高めている」と言えるほどの成果として誇れるものであったかどうかはともあれ、しかしここには町再生にむけた多くの示唆があることは確かであろう(ここでは割愛したが、小国町の場合も考え方や論理は同様であると見たい)。