• 7月16日・火曜日。雨。過日、ふと知り合った若者の洩らした言葉が心に残った。「このまま梅雨が明けないで欲しい」。自販機に飲料水を補充して回る仕事であり、暑く成るにつれ、彼の仕事は大変になる。炎天下であれば、心身の消耗は並では無かろう。冷夏に幸いを見る人の反面、商売が成り立たない人がいる。特に秋の実りが心配になって来た。かくも世の中は複雑である。

     

    前回、市中心部から自動車を遠ざけ、自転車や公共の交通機関に代替させようとするイサカ市の取り組みをみたが、それに比べて朝日新聞(朝刊・7/11)の「細るバス網 遅れる施策」と題する記事はどうか。

    広島県安芸太田町での事である。2003年、JR線の一部廃線を受けてバス運行が始まった。広島市中心部から終着駅三段狭までの50キロの距離を、1日往復13便が繋ぐ。乗客の1人で、太田町から終着駅近くにある実家の農地に週3回通う婦人(80)がいる。夕方の乗客はほとんど自分一人で、「なんだから運転手さんに申し訳ない。廃止にならなければいいけど」。いずれ廃線は免れ難いであろうが、彼女の思いは切実であるに違いない。

    対して市中心部には6社もの会社が路線を競い、朝夕の混雑時にはバスも乗客も列をなす。しかし一台当たりの収益は落ちてきた。赤字路線には市からの補助があり、18年度では4億86百万円に及び、10年前の1.4倍と言う。勿論、市が無策であった分けではない。補助金の縮減や混雑の緩和を目指し、市が調整役となって、事業者間の重複ダイヤを整備し、そこで浮いた経費分や運転手、車両を郊外や山間部の路線維持に振り向ける対策をとった。「他社との調整ができれば、便数が抑えられることがわかった」とは広島バス担当者の言葉である。

    事は太田町の話だけではない。路線バス経営問題は全国的である。国交省によれば全国245社の路線バス事業者の内、17年度での赤字は3分の2に及び、その内8割超が地方バス会社である。「人口減で乗客が減り、バスの本数が減るという悪循環が続く。最近では人出不足による運転手の待遇改善も急務で、収益を圧迫する」。

    しかも問題はそれに止まらない。地方では、公共交通が充実した都市部に比して、自動車への依存度は高いが、この所の高齢者の自動車事故の多発による免許返納の圧力は高まる一方である。だが、代替する「生活の足」の確保は覚束ない。その先にあるのは、住民流出からコミュニティーの崩壊の危機である。

    地方再生を掲げる政府の対応はどうか。今年度の地方交通網の維持費に充てられる予算は、全国レベルで220億円に過ぎず、対して整備新幹線の工事費は792億円と言う。そして、これまでは競合バス会社が自由にダイヤを調整し、利益の一部を赤字路線の事業者に再配分すること等は、独禁法から厳禁されていた。この度それをようやく「条件つきで認める方針」が出された。これに対して、広島バス協会顧問・西川雅巳氏の言葉は歓迎しつつも、苦言に満ちたものであった。「すでに地域の足は細り、疲弊が進んでいる。もっと早く対応できなかったのか」。地元では、乗客数が急減した1990年代後半には、バス網の再編等の議論を進めていたからであった。これらを見ると、地方再生の問題の根は深く、多方面に及んでいると言わざるを得ない(以下次回)。

  • 7月11日・木曜日。雨。近頃、暑さがとみに堪える身にとっては、夏とは思えぬ肌寒い日々を良とするが、さすがに夏空が見たくなってきた。あと2,3日で梅雨明けとの報道あり。

     

    イサカもまた、度外れた石油開発の機運に対して厳しく反抗し、ついに環境を死守したと、クラインも評価している。その中心になったのは、先住民のとりわけ祖母の世代の女性たちであった。そして、ここでの闘いで先ず守られるべきは、やはり当市の豊かな水系であった。そのもとに、「森の街」イサカが誕生するのである。

    そのような環境の中で創られた街は、すでに示したように(242頁)、周辺市域と連携しながら、基本的な生活は十分維持される街であった。当市の経済はその中でほぼ自足し、だから大都市の経済圏に必ずしも依存する必要がない。

    そのためには、食は地元産食品を優先し、こうして地産地消のシステムを成り立たせた。これはただ地域農業の支援策に留まらず、すべての住民に健康な食品を提供することでもある。これを可能にしたのは、まずは化学肥料の使用を制限し、食品破棄物を統合的に管理し、「ゴミゼロ」を目指して「ゴミを黄金に変える」「黒い黄金―堆肥化」の取り組みであった。ここにイサカが自らをエコビッレジ(「自然に即した村」と言ったほどの意味か)と呼ぶ理由もあろう。

    しかし、エコビッレジの理由はそれに止まらない。ソーラーシステムを駆使した住宅や共同住宅は、二重窓や気密性の高い建築技術と相まって、燃費効率の良い、夏涼しく、冬暖かい住居を可能にした。さらに小型の街は巨大エネルギー装置を必要としない。水力、ソーラー、風力発電でエネルギーは十分賄える。さらにこの街は、小なるが故に「すべてが徒歩圏内の街」に向けて、交通手段は自転車や公共の交通機関を主とし、脱・自動車社会を目指しているかのようである。市圏はそれを意識して、その拡大化を排し、ここに「暮らしやすい街」が誕生する(以下次回)。

  • 7月5日・金曜日。曇り。本日、76歳の誕生日前夜。と言って、特別の事もなし。蒲柳の身ながら、よくぞ今日まで生き永らえた。振り返れば、あれこれ思いあぐみ、ただ時間を食い潰し、そして、今に至ったとの思いのみ。

     

    以上は、地球レベルで進行している環境破壊のほんの一端に過ぎない。だが、それでも全生命の生存にとっていかに深刻な状況であるかを考えさせるに十分であろう。しかもそれらの破壊は、もはや巨万の富を手にした者たちのさらなる富を求めて止まぬ、「狂気」そのものの経済活動の結果であると言うに及んでは、これを放置し、沈黙することは出来ない。そんな事をすれば、彼らを是認し、加担することになるだけである。自らを蛆虫におとしめた者は、踏みにじられても文句は言えぬ、とはカントの言ではなかったか。

    先進国にとっての現在の課題は、もはやこれ以上の経済発展を目指すことではない。冨者に偏在する富の分配の問題である。そのための法整備に先進各国は共同して取り組み、また折角の対策をすり抜け、無に帰するようなタックスヘイブン(税避難地)を許さない対応を急ぐべきである(志賀 櫻『タックスヘイブン―逃げていく税金』岩波新書・2013)。同時に、経済発展のない経済社会においても、あるいはそこでこそ、人は充実した、真に豊かな生活を送り得ることを示す経済社会の構想が提示されなければなならないだろう。

    だが、そのような構想と実践は、すでに本稿においても幾つかの文献を挙げて示したように、今に至るまで世界中で試みられ、多くの成果を上げてきている。イサカ市の試みもその一つである。こうして我々はまたイサカに戻ることになった(以下次回)。

  • 6月26日・水曜日。晴れ。早や夏至越え。向こう半年、太陽は最も苛烈な燃焼と共に、日一日とやせ衰えるか。例によって、前回の文章、やや手を入れた。

     

    では、戦いは何故「水を守る運動」となるのか。水、ここでは地域の水系の重要性を最もよく知るのは、北米大陸では先住民たちであった。後の移住者たちはその意味の広さと深さを彼らから教えられる。山から発する細流は互いに結ばれ合って丘を潤し、大河となって海にそそぐ。逆に、鮭を初め海からの回遊魚が川を遡上し、こうして世界は一続きとなる。川は命の水と共に暮らしの糧をもたらすばかりではない。「私たちの魚、動物、植物、民族、その暮らし」を支え、その水系に集住する各氏族や部族を繋ぎ合わせる紐帯でもある。「相互に結びついた水域は命の動脈であり、その流れはこれらのコミュニティーのすべてを共通の目的で結びつける」からである(クライン・下・462頁)。

    その水系がフラッキングや採鉱、パイプラインや石油・ガス精製の巨大装置或いは輸出ターミナル等の建設によって寸断され、汚染にまみれるならば、広範な地域住民たちの生存の破壊、消滅は逃れられない。

    加えて、ここには大量の水の消費と汚濁がある。その結果、「オイルサンド油田と改質プラントの周りには、宇宙からでも見えるような巨大な鉱滓「池」があるのだ。またシェールガスであれシェールオイルであれ、フラッキングにおいても従来の掘削よりはるかに大量の水が必要である。…「従来のフラッキングで使用された水量の70から300倍に当たる」。使用後、こうした水のほとんどは放射性と有毒性を帯びる。2012年、フラッキング産業はこうした排水を、アメリカだけで約1兆リットル生みだした。『ガーディアン』紙によれば、これは「ワシントンDC全域が深さ6.5メートルの有毒な沼に沈む量」である」。「しかも今日、世界中の淡水資源が危険にさらされている。実際、採掘事業に利用される水は…近年フラッキングが大幅に急増しているテキサス州など、数年にわたる干ばつですでに枯渇しかけている帯水層に由来することが多い」(同上・464頁)。この結果はどうなる。将来、真の水飢饉に直面した場合でも、住民たちはもはや飲料水・生活用水は得られず、彼らの生存は極度の危険に晒されることになる(以下次回)。

  • 6月14日・金曜日。曇り。今週の多忙にはマイッタ。いつ頃だったか定かでないが、「未病」なる言葉を知った。病気ではないが、さりとて健康でもない。わが体調をこれ程的確に示す言葉もない。そして、昨今、天秤のバランスが傾き始めたには、来月6日、76歳を迎える身としては、やむを得ない仕儀である。前回の文章に手を入れた。

    6月21日・金曜日。晴れ。

     

    最新の技術を駆使した、陸海を問わぬ地中深部への「最後の一滴」を求めて止まない人類の介入は、大気圏や地球表面の全てに甚大な被害をもたらしている。今さら挙げるまでもないが、温暖化による気候激変、南洋諸島の消滅すら危惧される海面上昇、繰り返される制御不能な巨大豪雨と過去に例のない干ばつ、山林崩壊や海洋汚染等など、人類は現在、自らのタガの外れた無制限の経済活動の結果として、自然界から地球規模での容赦ない復讐を受けている。それはまさに、最後の1ドルまでも巻き上げなければ収まらない人間の「狂気」の結果である。クラインはそうした人間―特に石油・天然ガスと言った巨大企業、資本―の強欲に対して、身を賭して果敢に挑戦したのであった。

    彼女の戦闘の根幹にあって、そこで守られるべきものは「生命」であり、これを育む環境であり、これに根ざす生きてあるものたちの生存であろう。地球温暖化はこの生命の営みの場、すなわち環境を無に帰する危険がある。どころか危険は眼前に迫っている。そして、その元凶である先端技術に身を固めた巨大企業・資本が、彼女の戦うべき敵手となった。

    資源開発企業はガスや石油を「最後の一滴」まで絞りつくした後は、変り果てた荒涼とした大地をそのままに、別の原産地へと去っていく。その土地に対する愛着は微塵もない。破壊のままに彷徨う放浪者、これが彼らのありのままの姿なのであろう。しかし、他方でそこに生きるものたち、人間や動植物にとって、その土地は命を支える掛け替えのない場であり、不可欠の条件である。景観と歴史が一体となった、子孫たちに受け継がれる舞台でもある。たしかにここにはカネやそれによって手にし得る富はない。しかし、ここは「現在の経済では計るすべのない豊かさ」に満ち、だから「私たちはそんなに貧乏というわけじゃない。お金はないかもしれないけれど、きれいな水もあるし、健康だし」と、生活の安心と誇れるものがある。これらが失われる事は恐怖であり、抑えがたい怒りに駆られる。それゆえ、これを死守しなければとの闘争が激烈になるのは当然であった(クライン・下・461頁)。その戦いは「水を守る運動」として展開される(以下次回)。