• 11月26日・火曜日。雨。中野学園理事会の帰途、落合駅経由で出社。会議が比較的短時間で終了したためである。

     

    以上の記述からも、東京はじめ大都市圏が、どのようにして地方や近隣地域から住民を吸い寄せ、その結果地方の過疎化を助長するか、その経過の一端が垣間見られないであろうか。多少の繰り返しになるが、要約すれば、以下のようになろう。まずは、都心における高規格かつ利便性の高い住宅への旺盛な需要があり、それに惹かれて、大手開発業者も参戦した巨大な都市計画・開発が企画され、動き出す。高層マンション街はこうして出現するのであろう。

    購入者から見たそうした住宅の魅力は何か。第一に、職住の接近による通勤地獄からの解放である。その二は、都市に集積された多様な利便性や文化的な生活の享受であり、中でも教育施設・医療機関の充実は大きな魅力であるに違いない。第三は、尽きざる就業機会や商機の可能性と増大があろう。さらに、取得した住宅や居住環境の持つ圧倒的な快適さであり、それらは居住者に何がしかのプライドを付与することは先に見た通りである。

    こうして大都会の中心部ではより高い利便性と経済性を求めて、再開発の波が果てしなく続く。そこではオリンピックのようなビッグイヴェントの企画、招致も絡んで、破壊と建設が一層巨大化し、それらの事業は全体として何処か目的地に向かったものなのか、或いはそれはただ経済の停滞を来たしてはならないためだけの事業なのか。はたまた、これらは建設のための破壊なのか、破壊のための建設なのか、にわかには断ぜられなくなってきた。そんな印象を禁じ得ない。

    だが、そうした大事業によってその煽りを受けた地方では、一体何が起こっているのであろう。こうした事態の一端を、佐久間 充『ああダンプ街道』(岩波新書2011)によって見ることにしよう(以下次回)。

  • 11月12日・晴れ。

    11月20日・火曜日。晴れ。先月末より、わが体調芳しからず、先週はほぼ順天堂医院での検査の日々であった。幸い、検査結果は概ね正常値内に収まるものの、注意を受けた項目も増え、いよいよ店じまいの日も近いと知る。それにしても得心ならないのは、血糖値が糖尿病の値に接近しているとの指摘である。日々、節食と粗食を旨とし、贅沢とは無縁な生活ぶりを誇ってきたのだから。なお、以下は11月1日の項に続く。

     

    こうして地域社会の絆が、まず分断される。そこで育まれてきた仕事上の関わりや、住民たちの生活上の多様な仕来り、「祭り」のような娯楽を基に、「連綿として培」われてきた「共助」の意識やその実践(竹村公太郎氏・柳見沢宏氏。『朝日新聞・水害大国に生きる』2019/11/12)、あるいはその地域の伝統や文化ともなった生活基盤が失われてしまう。その結果、人々は互いに知らない個々へと分解され、都市の何処でも見られる砂漠化が広がるのである。しかしこのような社会は、巨大地震・津波あるいは想定外の災害に直面した場合、どれだけの適応力を持ちうるであろうか。

    しかも、今やこれらの脅威は、いつか起こるかも知れないと言った単なる将来的な問題でないことは、過般の度重なる台風・水害によって、身をもって教えられたことである。生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれたとき、日頃から培われた相互の絆こそ、最後の命綱であるとすれば、それらを失った社会は、地域全体の脆弱性と劣化を齎す他はなかろう。とすれば、これらを切り捨て、眼前の利と効率性を優先させた都市計画の在り様は、地域の自然や歴史を無視し、それは詰まるところ「長期的、戦略的な都市計画の欠如」という問題に帰せられるようにも思われる。そのような都市生活に隠された問題が、ある時、時限発火装置のように突然起爆し、そこに住まう住民たちに多大な困苦を強いることになるかも知れないからである。これについては、先の竹村氏の言葉を是非掲げておきたい。

    「長期的には土地利用の制限と言った荒療治も必要です。川沿いの野放図な土地開発が、最近の被害拡大につながっていると言えます。浸水想定区域の利用制限などに手をつけない限り、根本的な解決にはつながりません」。治水対策に心血を捧げた方の提言であるが、埋立地区の月島界隈の開発がこれに答え得るものであるか否か、問う必要は無いのであろうか。

    以上とは別に、「長期的都市計画の欠如」の問題は、高層マンションの維持、管理及び立替等が問題になる時、一層のっぴきならない形で現れることになる。この点でのマーティン氏の指摘は深刻である。そもそも、わが国のタワーマンションの歴史は高々30年ほどに過ぎず、「将来的な補修費について、どれ程の費用と時間を要するかは、誰も知らない。さらに、あるオーナーがその費用を賄えず、またなすべき事柄について、合意が得られない場合、どうなるのであろう」と言う問題がある。

    周知の通り、マンションは住民自ら管理組合を造り、ひな形に基づく規則によって自主運営されている。その最大の課題は、修繕費と解体費の問題である。マンションの寿命は、ほぼ4、50年と比較的短く、14、5年ごとに外構の補習をし(第1ラウンド)、次いで内装のライフライン、エレベーター等より高価な修繕費が不可欠となる(第2ラウンド)。最後に解体の問題が来るというわけである。

    だが、タワーマンションの場合はその巨大さと世帯数の故に、それ固有の問題を抱えるようである。川口市(埼玉県)にエルザタワーなる55階建て、185mの高層マンションが平成10年に建設され、この度第1ラウンドの補習がなされた。総額12億円、各世帯185万円(650世帯)を支出したが、これは当初の2倍の金額になったそうだ。また、工期は通常のマンションでは数か月ほどが、2年に及び(2015年3月開始)、さらに足場の問題がこれに重なる。50mが限度で、あとはゴンドラを使用し、強風の際は中止に追い込まれたと言う。解体問題は改めて言うまでもない。中型のマンションでも難しいとは、すでに多くの報告があるからである。

    今一つ忘れてならないのは、多数の新住民が一挙に流入し、住み着くことによって生ずる、学校等の教育環境、交通・各種インフラ整備、小児科他の医療機関の諸問題の対応が挙げられよう。

    では、こうした巨大な都市計画に対する代案は無いのであろうか。巨大プロジェクトに疑義を呈する住民代表は言う。植栽を施した静かな並木道の通る、3階程度のアパートメントの区域を開発することだ。これこそ月島に馴染みの街づくりである、と(この項、終わり)。

  • 11月8日・金曜日。晴れ。近所の鶴巻公園の広葉樹は流石に色づき、落葉し始めるが、緑を留める大樹も多し。過日、台東区のロータリクラブに招かれ、30分の卓話を行う。題して「縮み社会は甦るか」(浅草ビューホテルにて)。時間が短いだけに、緊張頻りであった。そのレジメを以下に掲げておこう。

    11月6日・水曜日。於・浅草ビューホテル。

    縮み社会は甦るか?     金子光男

    1. わが国の将来的な人口推移(グラフ参照・河合雅司『未来の年表』8頁)(講談社現代新書)より。

    移民政策を取らなければ、人口減少は止まらない。

    2. 19世紀から20世紀にいたる経済構造の大転換とその意味。R/J.ゴードン・高遠・山田訳『アメリカ経済  成長の終焉 上・下』(日経BP社)より。

    例えば、「馬と鉄道に代わる自動車―発明と漸進的な改良」。連続的な革新的技術の誕生。そこから生み出される長期的な社会の変革、終わりなき需要と経済成長の達成。

    これに匹敵する技術革新、経済発展は、現在、見通せない。IT産業、経済のグローバル化の革新性と限界。

    3. 水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)より。

    金利ゼロ=利潤率ゼロ=資本主義の死。

    4. では、そうした社会の中でどう生きるか。

     

    卓話要旨。金子光男

    現在のわが国出生率(1.42人)を前提に、また移民政策を取らないとして、今後の人口数を推定すれば、2100年時点での国民は半減し5千万人ほどになると言う。これによって見るに、年々、生産力、需要は縮小せざるを得ない。

    さらに、人口減少をカバーし、経済発展を支える技術革新の質の問題を見ると、AI、IT産業が重要である。これらはたしかに情報、通信分野を主としながら生産分野にも革新的な変革を呼び、生活改善とそれによる巨大な需要を惹き起こしていることは間違いない。しかし、それとても、19世紀から20世紀にかけた経済・社会の大革新にはとても及ぶべくもない。これがゴードンの結論である。

    こうした主張は、水野和夫氏の所論によっても裏付けられるようだ。氏によれば、現在の金利ゼロの現象は利潤率のゼロを意味し、経済活動は単純再生産以上には出ないことの結果である。

    これらを勘案すると、わが国社会の今後の趨勢は縮小していくのではないか。われわれが初めて直面するこうした局面に対し、ではいかなる生き方、生活があるのだろうか。

  • 10月25日・金曜日。雨。前回の台風は聞けば、アラスカまで達したとか?海水温が高く、消滅し無かったようだ。これが本当であれば、地球の温暖化は今や危険水域に達していると見なくてはならないだろう。前回の文章、やや手を入れる。

    11月1日・金曜日。晴れ。霜月朔日とは言え、東京周辺の気候は霜どころか、紅葉の気配もなく、汗ばむほどだ。昨日の首里城の炎上にはただ茫然とし、言葉を失う。ノートルダム大聖堂の焼失が重なった。東京オリンピックの混乱があるかと思えば、トランプ米大統領の弾劾裁判に向けた調査が始まる。何もかもタガが外れ、地球が混迷への道に迷いこむ予兆でなければ良いが。

     

    だいぶ間が空いたが、先を続けよう。事柄は、一外人記者から見た月島界隈の開発問題であった。前回、武蔵小杉のタワーマンションの困窮をみたが、同じ問題はここでも発生しよう。しかも当地は隅田川河口の埋立地区だけに不安はつのる。

    先に摩天楼の商業ビル、マンション群と言ったが、そも超高層ビル、マンションの定義はまちまちの上、ビルとマンションでは異なるようである。ことに後者は建築基準法では18階以上58m以上を言うが(因みに、超高層ビルとは15階以上または100m以上『広辞苑』より)、現行ではそれを遥かに越え、現在計画中の超高層マンションには180mを越える例も珍しくない。都区内ではすでに124棟6万戸を数え、この数値は全国300棟・11万4千戸の内52.5%に及び、これらに加えて高層商業ビルが建ち並ぶ訳であるから、都市景観が様変わりするのも当然である。

    さて、この度の月島の開発計画では、2024年完成予定の高さ190m、50階建て、750戸、総延べ床面積14.5万㎡の巨大マンションの建築が提示された。こうして昔ながらの下町風情は一挙に消滅することになる。Gentrifiedの語がつかわれた文意は「月島は巨大マンション計画によって高級住宅化される地区にあり」、だからこれまで生活していた人々には、止む無く転居を余儀なくされるという市街美化の歴史に常に付きまとう、何とも言いようのない哀惜の感を禁じ難い。事実、そこに暮らす住民たちは「以来、地代は高くなり、この場所から出て、どこかもっと安いところを見つけなきゃ」と顔を曇らせるのである(以下次回)。

  • 10月16日・水曜日。曇り。

     

    まず、この度の台風被災地の皆様方に心よりお見舞い申し上げたい。今なお曇天から漏れ出しそうな雨は、細やかであっても被災地には恐怖である。「雨よ、降るな」と祈るのみ。これは、他人ごとではない筆者自身の祈りでもある。

    13日未明の豪雨はわが家周辺の道路を冠水させ、栗橋辺りでは利根川の決壊が危惧された。市に問い合わせれば、決壊は春日部一体で1,2mほどの冠水となる事から、現在避難所を準備中である、整い次第避難勧告を出すとの事。冗談じゃない。深夜3時、体調不具合の上、30㎝余りの水路の中をかなり遠方の避難所までどうするんだと、暗然とするばかり。同時に被災者の方々の思いに繋がった。結局、決壊は免れたが、単に幸運であったに過ぎない。次はどう転ぶか分からない。今後も温暖化は続き、しかも悪化しそうだと言うのだから。

    都内では、多摩川の越水、内水氾濫(川の水位が上がり、下水道を逆流して市内冠水を惹き起こす事)を来たし、周辺地域を困窮させた。こうした事態は豪雨の際には珍しいことではなく、20年ほど前であったか、下水道から河川に放流された汚水が逆流し赤羽駅近辺を汚臭が覆ったことがある。また、19世紀末のベルリン市では、下水道の整備によって汚濁、汚染から解放されるが、豪雨の折、シュプレ-川に放流された汚水の逆流の被害を受けた。一つの文明の利器が、思いがけない形で人々の生活を侵害する事例である。

    恐らく、ある技術に潜む全ての不備や欠陥を予測し、予防することは人間には不可能であるに違いない。航空機や関連施設の発展の歴史が示すように、一つひとつの失敗に気づかされ、改善される他ないのである。進歩とはその積み重ねの結果であろう。だから技術の進歩は何処までも未熟であり、完成はありえない。その事をシカと心に留め、安心してはいけない(その意味で、原子力関連の技術は不幸である。事故は時間的、空間的に甚大に過ぎ、失敗は許されない。だから失敗は在ってはならず、最後は無いこととされて「安全神話」に繋がった。かくて改善の道は絶たれる他はないだろう。これについての畑中洋太郎氏の言は不気味である。「万一の際に、格納容器を守るために内部のガスを外に逃がす『フィルター付きベント』の実施テストは義務付けられていない。放射性物質を外部に出すからという理屈です。日本の原子力業界は今も安全神話という特有の『気』に包まれているように思います」(朝日新聞・朝刊・「失敗を直視せよ」・2019/10/18)。

    だが、直接その被害を被った人々は不幸の極みである。罪とがもなく、突然、災難に叩き落されるのである。この度の事例で言えば、浸水のために武蔵小杉のタワーマンションで生じた電気系統の破綻がもたらした生活上の困苦は、誠に同情を禁じ得ない。報道にもあったが、何故自分たちだけがコンナ悲惨に遭わなければならなかったのか。これに答えられる人は恐らくいない。誰もがこのような惨事に見舞われる可能性があるからである(本日はこれまで)。