• 8月7日・金曜日。炎暑続く。

    8月13日・木曜日。引き続いての炎暑。さらに、遠雷あり。

     

    2か月後の記事(7/9)には、こうある。研究者らによって、コロナウイルス関連の脳障害が流行する可能性がある、との警告が最近出された。新たなエビデンスによれば、COVID‐19は興奮、精神病、譫妄(せんもう)症を含めた重篤な神経病的合併症を誘発することがあるらしい。

    ロンドン大学の研究成果によれば、「43名のCOVID‐19の感染者らは、一時的な脳の機能障害、脳卒中、神経障害あるいはその他の深刻な脳障害を蒙った」。また、WHOは、「コロナウイルスは、先に想定された以上に空気感染によって拡大するかもしれず、パンデミックは依然進行している」との警告を発すると共に、「ウイルスは2m以上飛行する事がある」との国際的な研究者グループの最新の研究成果を紹介している。だがこれは、2mのソーシャルディスタンスをCOVID‐19に対する主要な防御策としてきた方針を根底から揺るがすものではないか。

    この度のコロナ疫病は、その多くは肺を侵す呼吸器障害を発症させるが、神経科医や脳科学者らは脳への影響を心配している。1918年のインフルエンザパンデミックの後にも脳炎の発症が多くみられたが(これについては、『流行性感冒 「スペイン風邪」の大流行の記録』内務省衛生局編でもしばしば認められる症例であったが)、今回、本症例がそれほどになるかどうかは、いまだ断定できないらしい。しかし、ロンドンのウェスタン大学神経科医・オウエン氏は言っている。この度、実に多くのコロナ患者が出たが、「1年後には1千万人が回復したとしても、その中で多数の認知障害者が発症すれば、仕事や日々の活動に支障を来たすようなことになるのではないか、と私は心配している」。

    今や、COVID‐19は次々、内臓器官を侵すことが分かって来た。「我われは、コロナはただ呼吸器関連のウイルスだと、考えていた。だが、違った。これは膵臓を侵す。心臓を侵す。さらには、肝臓、脳、腎臓その他器官を襲うのだ。こんな事は、当初は思っても見なかった。」これは、E・トポル心臓学者にしてカリフォルニア、スクリプス研究所所長の言葉である。

    どうであろう。ジャパンタイムズの2本の記事を目にしてさえ、COVID‐19の実態は、我々にはいまだ不明であり、即断は危険である。この先いかなる展開があるのか、注視していかなければならないのではないか。かような危惧から、あえて一文を草した次第である(この項終わり)。

  • 8月4日・火曜日。晴れ。長雨の後、一気の夏日に加えてコロナの再来。この事態に、わが体力では抗しきれず、青息吐息とはまさにこのことである。

    8月5日・水曜日。晴れ。昨日を越える炎暑に、気息奄々。

     

    もはや旧聞に属することだが、ジャパンタイムズにコロナウイルスについて興味深い記事が2本ある。1本は「ウイルスの症候リスト、大きくなるばかり」(5/9・土)であり、次は「研究によれば、COVID-19脳障害来たす」(7/9・木)である。いずれの記事も、現時点おいて、人類はいまだ当ウイルスの機制、行状等について正確なところは分かっていないようだと見る点で、趣旨は同じである。

    まずは5/9付の記事から。当ウイルスの複雑さは、それが惹き起す症状の多様性から窺われる。「インフルエンザと類似した風邪、頭痛、発熱を示す感染クラスターだと見られたものが、ここ3ヶ月で、脳から腎臓にいたる体内のほとんど全ての臓器を侵す症状のカタログへと一気に拡大した」。

    新型コロナウイルスが、免疫体系を総動員させて病原菌のみならず宿主である人体をも無差別に攻撃する、いわゆるサイトカインストームを生み、これによって血管の損傷から血栓や脳梗塞を来たす。

    その結果は、こうなる。患者のほとんどが示す、感冒状の症状を越えて、ほぼ30%が胃痛、嘔吐、急激な下痢症状の消化器系から、皮膚の損傷、神経系、さらには鋭い胸痛、呼吸困難、そして意識混濁の他に味覚・嗅覚の障害等が加わる。「我われは、今やすべての事を疑わなければならない、と考え初めている」とは、パリ中央病院の1医師の言である。またCDC(米国感染管理予防センター)の報告には、1%以下だが、脳卒中、発疹、結膜炎の症状もあるというが、ここに「症候リスト」の拡大が如何なるものであるかは明らかであろう(以下次回)。

  • 7月20日・月曜日。晴れ。打ち続く豪雨と梅雨寒の後、一転して蒸し暑し。体調の変調を来たし、土日の両日、臥す。本日はパソコンの調子悪く、仕事にならない。よって、資料整理日とするが、机上の新聞紙は山となり、もはや何故これらが残されているか皆目不明で、整理の意味をなさない。いずれ、一括して破棄することになろうか。情けない。

    7月29日・水曜日。雨時どき曇り。コロナ問題については、8月より再開したい。現在、『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録』(内務省衛生局編、東洋文庫・大正10年刊・平凡社・令和2年刊)と格闘中である。ほぼ1か月を要する読書であったが、これが以下の叙述に生かされるか否かは、全く不明である。

     

    一昨日、山本寛斎氏の突然の訃報に接し、一驚させられた。氏とは一度だけだが、小一時間ほどの歓談の機会を得、わが心に残る方であっただけに残念である。私が明治大学付属高等学校・中学校の校長の折、NHKで放映された当校の応援団部の活動に感動され、部活を見させてほしいとの事でわざわざ本校まで足を運ばれた時の事であった。飾らぬお人柄と親しみには、その後も何故か折に触れ思い出されたものである。

    不思議なことだが、この一週間ほど前に、何の脈絡もなく同氏の面影がふと脳裏に浮かび、はて、その後どうされているか、と思い出した矢先の事であった。これもまた虫の知らせと言うものなのであろうか。だが、一度きりの関わりしかない方から、そんな知らせを受けるとは妙な話で、根っからの唯物主義者なら、単なる偶然と切り捨てるところであろう。だが、最近の私にはそうも行かない心根があって、なにか現世を超えた世界の存在が気になり出しているからである。それだけ己が生の行く末が見えてきたのであろう。

    あの世の有無は、生きている人間には分からぬことながら、自身の生を律するには在った方がよかろう。かつて本欄で触れたことだが、731部隊に所属していた医官が、自ら関わった当時の陰惨な人体実験を思い出すと、「死が怖い」と涙ながらに訴えた話がある。生前の悪行の報いを、延々と受けなければならないからである。『往生要集』には、そんな地獄の責め苦の凄まじさが山とあるが、こんな事を知れば、尚更である。そして、こうした苦悩を寛解させる力こそ御仏や神のものであろうが、それに縋れるか否かが定かならぬところが、また悩ましいのである。わがこれまでの人生行路の決算もまた…、これは未決定にしておこう。

    寛斎氏の訃報から、思いがけない方へと話が及んだが、最近の我が心底にはこんな思いが潜んでいるのであろう。末尾に当たり、改めてここに、同氏のご冥福を心よりお祈り申し上げる。

  • 7月3日・金曜日。曇り時々雨。前回の文章に手をいれた。前回は粗製乱造の気味があり、情けない。文章は日を置いて推敲してこそ、何とか読めるようになるのだ、こう毎回、思い知らされているのだが。

    7月6日・月曜日。雨。本日はわが喜寿の誕生日なるが、佐藤愛子氏の『90歳。何がめでたい』が、分からなくもない心境である。とは言え、動ける間は、周囲に大いに迷惑をかけながら、ジタバタとやって行きたい。

    7月8日・水曜日。曇り。この所、事務所には来ているのだが、何やかやあって「手紙」は進まない。今日こそ、ケリを付けたい。

    7月10日・金曜日。曇り。前回の文章に手を入れ、多少は輪郭が出てきたか。残りの時間は溜まった資料の整理に充てた。

     

    本書は450頁に及ぶ、かなりの大著である。一名「仕事事典」と名乗るだけあって、プロの物書きの他に、耳にはするが、それら仕事の実際と苦労が如何なるものか、筆者には見当もつかない職業人からの文章が多数掲載されていて、中々面白い。以下はその一例である。製紙会社営業部、ミュージシャン、ライブハウス店員、映画館副支配人、女子プロレスラー、ホストクラブ経営者、葬儀社スタッフ、馬の調教師、水族館職員、舞台人、メディアアーティスト、占星術家と言った面々である。他にも、少女期に大変な苦労を負った中国からの女子留学生による、アルバイト生活の健気な記録もあるが、とてもその一々を紹介することは出来ない。

    以下では、先のソーシャルワーカーとの関連で「ごみ清掃員」の日記の一端を記すにとどめたい。東京在住の男性。43歳の芸人ながら、生活のために清掃員として働く。恐らく、派遣労働者なのであろう。だが、その職務は重大である。「例えば二週間、ごみ回収をおこなわなかったらどうなるだろう。街はごみであふれ、衛生的にも防犯的な面でも壊滅的な現実が待ち受けているだろう」。

    雨の日の作業は、ごみが舞い上がらず、ウィルスが流されると思えば何となく「恵みの雨」にも見えてくる。落ちた箸、散乱するティッシュを拾い集めるにも、恐怖が襲う。「見えないものというのはこんなに怖いのかと初めて知った。しかし怖いからと言ってごみの回収を止める訳にはいかないので、責任感一点で回収を続ける。」家庭からでるごみに紛れた自宅療養の医療破棄物の怖さは格別である。マスクをした作業の息苦しさもこたえる。そんな時には、思わず軍手のままマスクを摘まんだり、雨に濡れた顔を軍手で拭ってしまうことも時にある。「気を付けなければ。誰も責任は取ってくれない。自己責任だ」。

    「殺意を覚える時がある」。分別されないごみには、袋に入ったビンや缶を取り出し、その場に置いていく事になるが、それがまた怖い。「袋を破れば見えないウィルスが飛び出すかもしれないと思いながら破く。…出す方は一本くらいわからないだろうとなんて思いながら可燃ごみに缶を混ぜるが、全ての清掃員は全部わかる」。

    要するに、作業そのものが感染の最中にいるようなものである。だから、清掃員の別れの挨拶が、「また生きて会いましょう」とは、冗談とは言えない真実味があるだけに何とも言えない辛さが募る。しかも彼らの現状は、こうである。関西の清掃員からのメールである。「もしコロナにかかったら、命をかけて働いているのに無収入になる現実はおかしいのではないか…。僕も家族がいてます。この言葉が僕の胸に刺さった」。

    行政経費の削減と民間活力の活性化を錦の御旗として、行政の為すべきすべての業務を民間に任せ、元請業者は下請けにおろし、最終的には、いかなる条件や待遇でも引き受けざるを得ない、生活困窮者にこれらを押し付ける仕組みが出来上がって、もう何年になろうか。しかもここでは、業務に対する「責任感」と誠実さまで要求されながら、確たる保証も無い上、用済みとなれば直ちに切り捨てられる。こんな酷薄な制度が今後も、差しさわりなく存続していけるものなのであろうか。その間に拡大した身分的、経済的な格差と蔑視を思う時、取り換えしの付かない間違いを犯しているように思えてならないのである(この項、終わり)。

  • 7月1日・水曜日。曇り。本日は年後半の初日である。新たな心で立ち向かおう、と意気込むには、国内外を覆う暗雲が巨大に過ぎる。世界のコロナ感染者は1000万人に達し、収束どころか拡大している、とはWHOの警告である。中国、朝鮮半島の政治状況、そして我が国自身のぬぐい難い閉塞感が、これに重なる。こんな時には、CDで上質の落語を聴くのが一番か。

     

    昨日、注文しておいた、気になる本がやっと届いた。左右社編集部編『仕事本 わたしたちの緊急事態日記』(左右社・2020)である。言うまでもなく、自分の日々の生活は誰かの仕事によって支えられている。だが、それが当たり前すぎて、改めてその事に思いを寄せる、そんな気持ちすら忘れ去って何年になろうか。或いは、その仕事に対してはそれなりの対価を支払っているのだから、それで済んでいる。だから、別段、それ以上の事を考えるまでもない。

    しかし、こんな思いが募れば、筆者もまた、この所見てきたエッセンシャルワーカーに対する、人々の心ない態度と変わらないものになりかねない。イヤ、すでにそうなっているのか。そんなわが心根を見透かしたように、本書の表紙のタイトルを取り巻くようにして付された、「何に対しても私と関係ないって思ったら 終わりじゃん?」との一文が突き刺さる。

    本書の誕生はこうである。この度のコロナ禍は、働き方の変容はまだしも、仕事そのものを消滅させるという、多くの酷い事態をもたらしたが、こうして蒙った仕事上や生活上の危機を、人々は一体どう乗り越えようとしているのであろうか。この事に思い至った左右社編集部は、緊急事態宣言の出された当日、77人の多様な職業の人たちに、そうした日々の最中を記した日記を書いてくれるよう依頼した。それを構成してなったのが本書である。

    それゆえここには有名・無名、また年齢を問わない人々の生の生活が、それを支える仕事の苦悩と共に記されており、期せずして本書は「ひとつの仕事は、誰かの生活につながり、その生活がまた別の人の仕事を支えている。本書は仕事事典であると同時に、緊急事態宣言後の記録であり、働く人のパワーワードが心に刺さる文学作品」ともなり得たのである(「はじめに」)。この一文の中に、筆者は前回、ただ提起したのみで、答えられなかった問題の回答を、一つ見る思いである。如何なる職業であれ、社会につながり、誰かを支えているのである。それ故に貴く、どれも疎かにされてはならない、と(以下次回)。