11月5日・木曜日・秋晴れ。
これをごく簡単に言えば、「いわゆる評価の無い生は無意味か」ということである。そもそも、この世に生れ落ちた生は、今や時代からも、社会からも己が目的、使命を負わされていない。それは、時代や社会が目指すべき目的を持たないからである。社会事象はそれぞれの因果律に従って転変、変転して留まるところを知らない。ヴェーバーは言っている。「この社会は疲れることはあっても、飽きることはない」。急速に発達した科学技術がこの流れを加速する。そうした社会の中で、人々はさしあたり生きんがために、衣食住の確保に夢中になり、それこそ懸命に働かざるをえない。だが、その行方はしらない。社会の行方と同様に。かくて多くの人たちは、人生の意味を問う暇もなく、あるいはそれに煩わされることもなく、人生の黄昏へと引き渡されるのであろう。
この生はまた、絶対的な孤独の内にある。共同体が解体され、そこから捥がれるようにして都会に引きずり出されてた人々は、見知らぬ人たちの海の中に投げ込まれるのである(都市生活者の比率は優に6、7割を越えるだろう)。デュルケームが「社会的アノミー」と呼んだのはこれである。かつては家族が人々を繋ぐ最後の役割を担ったが、今やそれも怪しい。人口数の減少する一方で、世帯数の増加がそれを証明しているからだ。つまりそれは、独り暮らしの単身家族(?)が増大した事を示しているのである。これに貧富の落差が加われば、我々が現在生きている社会の姿を垣間見られるだろう。
このように、ただ単に因果の連鎖の社会の中で、人々は無目的に右往左往する生き様を(勿論、目の前にぶら下げられた目標や課題に取り組まざるを得ないことは、言うまでもないが)ニヒリズムと呼ばずして何と言おう。しかし、人とはそんな具合にして生きられるものなのだろうか。自分の生は、ただ無意味に日々を投げ出すようにして送るだけなのだ。こう達観して過ごせるものなのだろうか。このように人生を徹底的に無意味化して、生き抜く人はいかにも勁い人だと思う。
しかし、多くはそうは行かないのではないか。たしかジッドは『知の糧』か『新しき糧』で言っている。生が無意味であればこそ、自らその生に意味を付与し、目標を与え、それを生きる、と。ヴェーバーはそうした人をこそ「文化人」と呼んだと思うが、いずれもニーチェを突き抜けて行き着いた答えではないか。これは確かに、知的な精神の応答であって、凡人のよくなしうるところではないようにみえる。だから、人はその孤独と日々の重圧に打ちひしがれているようなときに、スッと寄り添って悩みを共有してくれているかに見える、怪しげな宗教団体に取りこまれてしまうのかも知れない。しかし、それでも私は言いたい。人は誰でもその人なりのやり方で、自身の生を意味づけ、それに得心することが出来るであろう。むしろ、自ら立てた目標、志が己を励まし、駆り立て、その人生を活き活きと生き抜く事を、可能にするのだと思う。大事なことは、そのように生きる人々をそのものとして受容できる社会の広さではないか。人を区分けし、上下をつけ、挙句は排除するような社会では、恐らく誰にとっても生きやすい社会にはなるまい。それは、人間関係をガチガチに囲い込むのではなく、個々人の個性を受け入れ、柔らかく繋がりあう社会である。こんなささくれ立った社会であればこそ、必要な社会のあり方だと思うが、それもまた見果てぬユートピアなのであろうか(おわり)。
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