2026年08月04,17日

8月4日・火曜日。晴れ。この2日、有難いことに、涼しい日を持てた。深く息をし、休息する。だが、新聞は2頭のライオンの死を告げ、熱中症だと言う。アフリカ生まれの百獣の王もこれには敵わなかった。故郷のサバンナであれば、広大な大地の風と水辺と木陰に逃れられたものをと、無念であっただろう。欧州を襲った熱波は仏、スペインの山火事をよび、その激しさはまるで「世界の終わり」を告げるようだ(朝日8/2)。それでも、世界の指導者らは今なお、自身の領土的野心に執着し、この現実を見ない。ただ、欧州はさすがに目の色が変わった。ニューヨークタイムズ(7/31)には「欧州、気候変動により、切羽詰まる」の見出しが躍る。

8月17日・月曜日。曇り。本日は、過日頂戴した、江戸期のキリシタン弾圧を主題とした論文への礼状である。本文を直接読まなければ理解しがたいと思うが、それでも本文から、当時の弾圧の凄まじさは窺われるのではないかと思う。

残暑お見舞い申し上げます。過日(7/18)、社会環境学会会合の折、柳田さんより、キリシタン関係について、上智大学で先生が研究報告をなされると知らされ、ああ、お元気なのだとホッとしておりましたところ、ほどなく「元和9年(1623)江戸芝のキリシタン大殉教をめぐって」のご論考掲載の会報誌『キリシタン文化』(キリシタン文化研究会2025/5)を頂戴し、まずご厚志に御礼申し上げます。どうも有り難うございました。

早速一読に及び、あれこれ考えさせられました。と言っても、私には当問題についての素養はまるでなく、知っていることと言えば、吉村昭のキリシタン弾圧の幾つかの作品や、遠藤周作『沈黙』他ほんの僅かなことでしかありません。よってその限りでの感想に過ぎぬことを、初めに申し上げておきます。

豊臣から徳川に続く政治権力がキリシタンを禁教と定め、常軌を逸したともいうべき苛烈で陰惨な弾圧政策を推し進めます。御稿の「江戸キリシタン教会の崩れ」の一節にはこうあります。刑場に引出された幼子たちは、訳も分からず、玩具をいじりながら、むしろ楽し気に歩を進める中、事は始まる。「処刑次第 子ども惨殺に始まり、成人の火刑、斬首、磔刑執行。/最初に子ども、信徒女性の目の前で惨殺。18人の子どもたち 順次、上下左右に切り裂く、横に上下二つに切る、両足を切り刻む…処刑後、子どもの頭を彼らの手に結び付けた。/ついで、成人を磔刑、火刑、斬首刑に処した」(82頁)。

不思議なのはなぜこれほどまでに、時の権力が執拗を極めた弾圧を明治まで続けたのか。ひとまずそれを、鎖国を国策とした政権が、国家制度の維持のために耶蘇教を禁じたものと解しますが、他方で西欧の文物への欲求は断ちがたく、出島を存在させます。その限り、その政策は、一貫しません。たしかにキリスト教はローマ帝国の国教とされる直前までは、大弾圧を受けますが、その後は時の政治権力の宗教的、理論的な支柱として体制を支え、中世において神政政治を確立します。つまり、カソリック教会は政治権力に対し必ずしも反権力なのではなく、むしろ親和的な教義を持っていた。秀吉、家康らがその教理を理解しえないはずもなく、事実、信長は当時の仏教勢力の対抗として、キリスト教の布教を許したと教えられております。この問題については、とうに解決済みのことかもしれませんが、私には不明のままいまだ燻っておりまして、その事が、御稿によって蘇った次第です。

それにしても、キリスト教を受容したキリシタンの信仰も強靭です。ある信徒にとっては、生命以上の守るべき至上のものとなり、男女を問いません。棄教を迫り、惨殺、焚刑、磔刑の恐怖をものともせず、「聖母マリアの名を呼び残酷な苦痛に毅然として耐え、天を仰ぎ、途切れることなくイエズスとマリアの聖なる名をよびながら、霊魂を主に捧げ渡すまでこの残酷な苦痛を甘受し」、従容として死地に赴くさまは、神よ彼らを許したまえ、彼らは何をしているのか分からないのですから、と執り成しの祈りを唱えつつ逝ったという、シェンキビッチ『クウォ・ヴァディス』(1896)(ノーベル文学賞・1905)の一節を想起させます。そして、彼の本作品は国教となる直前のキリスト教受難史を主題としたものですから、こうした信仰の強さは、時代や国境を超えた、普遍的なものの様にも思われます。ただ、このことはキリスト教徒のみのことではなく、権力に反抗して焼身自殺を図るタイの僧侶、わが国では封建領主をとことん苦しめた、多くは農民である一向宗の戦闘のように、揺るぎない信仰を根付かせた信者にとって固有の心情ではあるまいか。であればここに私は、人間という存在の一つの特性―これを偉大と言うか、痛ましいと言うかはともあれ―を見る思いがいたします。

しかしこうした境地に達した信仰心は、勿論、誰にも持てるものではありません。ある種の選ばれし者たちであり、しかもここでは身分や男女の別は問わない。たしかヴェーバーは、そんな彼らを称して、宗教的達人と言ったように記憶しますが、それは宗教的試練、困難に直面したその折に初めて判明する、そうした類のことでありましょう。多くはそれ以前に、早々と棄教し、体制に従う。と言って、私はそうした彼らを非難しようとは思いません。私自ら顧みても、それほど強固な信念の保持者でないことはともあれ、その場に置かれた人の立場、状況その他止むにやまれぬ事情のもとに転向、棄教の他はないからで、これもまた人間の姿だと思うからです。

そしてここに、ユダ以来の裏切り者の出現するのも、人間という生き物の性でありましょうか。御稿では「気鋭の活動」家として布教に尽力した原主水の事例が報告されています。事が露見し、やがて捕縛された彼は額に烙印の上、「手足の指を切り落とされ」て追放。その後江戸浅草に居を移します。が、それもむなしく「元和9年下僕の密告により捕縛され、10月13日芝で殉教」、「火刑」の刑を受けました。ここで、興味深いのは、主水を裏切った下僕は、少年の頃から育てた「非常に信頼していた従者」であったことです。それが「遊蕩にふけり密告による懸賞金」「金貨三十枚」(刑死したキリシタンの立派な屋敷を含む)に目がくらみ、「第二のうらぎり者のユダ」となった。主水の無念もさることながら、人に対する信頼のはかなさを改めて思い知らされたことでしょう。

以上、取り留めのない駄文を連ねてまいりました。まだ、書くべきことは残っているようですが、限がありません。申し上げたいことは、御稿にふれ、触発された点が多々あったと言うことです。 このところ、涼しい日々が続いておりますが、まだ暑さがぶり返すとの事、ご自愛の上お過ごしください。


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