2022年06月22,24日

6月22日・水曜日。曇り。本日は6/17の話に戻る。

6月24日・金曜日。晴れ。今後、熱暑が続くとの予報に、すでに滅入る。前回の文章にやや手を入れた。なお、先に紹介した『一九三九 誰も望まなかった戦争』、―ようやく7割方進み、今月中には読了したい―、本書は、現在、ロシア政府がウクライナ侵攻にとっている国内プロパガンダ、ウクライナ周辺域での内乱工作、国外への言い訳、外交攻勢などその全てを先取りしたかのようで、まるでプーチンの教科書かと思うほどである。実に面白い。

 

世界を震撼させた、ウクライナ市民に対する露軍の無慈悲な凶行、破壊行動は、一部は政府と軍とが一体となった洗脳的なプロパガンダの結果であり、そうした負の教育の成果なのだと言えそうである。これはまた、一面的な情報を一方的に、大量に流しながら、それをチェックする対抗機関を許さない、ロシア社会に根ざす政治・社会的な構造問題の一つである。そうした行為は犯罪であるとの教育も無ければ、それを犯罪だと検証する独立の機関が不在であるという指摘が、それを裏付ける。先のニューヨークタイムズの記事を読む限り、そうした結論にならざるを得ない。

だが問題は、そのように言って片付けられるような簡単な話ではなさそうであり、この点が深刻である。社会の仕組みが悪ければ、それを正せばよいはずで、ここには取るべき対策があるという意味で救いがあろう。だが、事はそうはならないらしい。振り返ってみれば、露軍が行う、敵兵にではなく、丸腰の市民への残虐は、ウクライナ侵攻で初めて出てきた分けではない。すでにチェチェン紛争(1999-2000)やアサド政権を支援したシリア内戦(2011-現在に至る)に介入した露軍の市民攻撃は、「何ともおぞましい理屈を弄ぶ残忍な実践的な戦闘方法」にのっとり、無差別な空爆、病院破壊、至近距離からの銃殺やら強姦がなされ、それらはさながら、現在のウクライナで見られている獰猛な攻撃の「先ぶれ」(prelude)であった。「ある程度、市民に対する露軍の暴虐は欠陥(bug)ではなく、一つの特徴(feature)なのである」と、記事は書く(以下次回)。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です