2021年10月13,15日

10月13日・水曜日。雨。岸田首相、本会議において、当初の政策目標の目玉であった「金融所得課税の見直し」他で修正・後退答弁。吉となるか、凶と出るか。解散迫る。

本日は、前回のメルケル考の補足としたい。

10月15日・金曜日。晴れ。

 

先に、政治家の能力の一つに、説得力つまり言葉があると言った。だがそれは、どんな意味で言われているのだろう。セールス・トークのような、立て板に水の、能弁でないことは、確かであろう。ここには、買い手をけむに巻きながら、丸めこんで買わせる、そんな雰囲気がある。政治の場において、しかも国民の生活や命が関わる事柄に対し、そうした言葉がそう簡単に通用するとは思えない。

上の問題は、弁論術という言葉を思い起こさせる。筆者には、この言葉が相手からの攻撃をかわし、その弱点を突いて、言い負かす言論上の技法、そんなイメージが付きまとうからである。その限り、何かいかがわしい面もあるが、しかしこれをきちんと習得するには、百般の知識を収め、事態に対する分析力、論理性や総合的な認識能力を鍛えるなど、なまなかの事では無かろう。何しろ、ギリシャ時代のソクラテス、キケロに連なる、壮大な歴史を持ち、現在の政治討議でも必須の素養であることは間違いない。

だが以上は、ここで言う国民への説得力の問題とは、重なるとは言え、少々、違うような気がする。確かに、国民に語り、理解を得るのは、言葉を介してのことであるから、事柄に対する説明、その分析、そこから引き出される結論は、論理的であり、それゆえ理性的でなければならない。にもかかわらず、ここではそれだけでは尽くせない、さらに大きな訴求力、インパクト、国民からの共感が得られなければならない。メルケルの言葉にはそれがあった。前回、その点を落としてしまった。

彼女は旧東独の出身である。東ベルリンに住まうに彼女は、勤務先の科学アカデミーからは、毎晩、東西を分断する壁に沿って帰宅するのが常であった。壁の向こう側には大きな自由、どこに行き、誰と会い、気ままな仲間たちとの会食の折々には、何を語ろうと構わない、そんな遠慮のない自由、のあることを痛切に思わない日々はなかった。研究の自由の拘束、また生活全般を覆う言いようのない閉塞感は、もはや「堪えがたい」受忍の限度をこえていた。

つまり、日々の生活の制限、拘束は、それがいかに些細なことであっても、それを課される者たちにとっては、多大な負担であり、許しがたい犠牲や侵略であることを、メルケルは十分以上に知っていたのである。にもかかわらず、今回のコロナ禍での外出禁止は、社会に対し、制限以上の意味、重要性を見たからこその訴えであった。そのことを、彼女は己の人生と重ね合わせ、苦衷と共に、腹の底から絞り出すようにして、議会にはかり、国民に提示したのであった。はたして議会は、そして国民も、事態の緊急性と、深刻さを過たずに了解した。しかもそれは単に頭によってばかりか、心で受け止められ、了解されたのであろう。これはロゴス(理屈)ではなく、パトス(情念)の勝利であったともいえようか。

いよいよ総選挙の時である。選挙戦で、国民はこのような心に響く言葉をどれほど聞くことができるであろう。政治は期待できる、ならば選挙に行こう、と国民を奮い立たせる声が、どれほど聴けようか。


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