6月2日・水曜日。晴れ。早や、芒種、すなわち稲、麦等の穀物の種をまく時期と言う。だが、春日部のわが家の周辺ですら、今やそんな風景はほとんど見られない。緑がはぎ取られた土地は宅地化され、駐車場ばかりが目に付く。と言って、人口が増えた分けではなく、活気のない街の寒々しい空間は、最近の地方都市の何処でも見られる侘しさがある。
5月の総歩数・285857歩、1日平均歩数・9221歩、最高・14231歩、最低・3960歩であった。
6月4日・金曜日。雨。
本日から再び本題に戻り、5/21・(金)の論題を引継ぎたい(それはまた、はるかに今年2/26(金)を承けている)。そこでは、ベトナム人実習生の惨状を紹介した。そもそも実習生制度は国家的な政策プロジェクトでありながら、国による指導や監督があるのかないのか、彼らが事業者と交わした契約上の賃金、休暇、待遇その他の取り決めが、遵守されていない。そればかりか、負い切れない過酷な労働を課され、暴力まで振るわれ、ついには受け入れ先の事業所から逃亡村に逃げ込むほかはなかったという話である。
結局それは、彼らを同じ人間としてではなく、単に不足する労働力の穴埋めとしか見ず、ロボットか何かで代替できれば、いつでも放り出せるとでも言わんばかりの、わが国の人権意識の欠如に行きつくのであろう(その事はまた、現在見られる、エッセンシャルワーカーと言われる人たちへの差別意識や待遇の冷酷さにも繋がるのだ)。それとは別に、途上国の人びとに対する、我われ日本人の謂われなき優越意識もまた作用しているのではないか。つまり、日本で働けると言えば、そうした国々から群がるようにやって来るという、自惚れか誤解がある、これが筆者の問題提起であった。
これらの悲惨は様々指摘され、改めるべき方向性も、隣国である韓国の事例を引きながらすでに示された事だが、政治も行政も動こうとはしない。しかも今や、実習生を欠いては、各地域は立ち行かなくなる、と言われるほどに重要な存在になっているもかかわらずにである。
上で、我われには自惚れや誤解がある、と言ったが、実習生の逃亡村を生みだすほどに劣悪な制度であることが露呈され、また彼らの1人が、次回は韓国に行きたいと言った言葉を思い起こしたい。つまり、わが国の制度は彼らにとって、魅力は失せ、選ばれる対象ではもはや無いことを、我われは分かっていないのではないか。
そして、誤解の一つに、世界人口は過剰であり、今後ともそれは続いて、わが国は門戸を開けば、常に必要な労働力は確保できるという点を挙げてみたい。それは長期的には、見込みのない楽観論であろう。まず『2050年 世界人口 大減少』(ブリッカー/イビットソン共著・倉田幸信訳・文芸春秋・2020)が予告している。つまり、2050年には世界人口は80億人の峠を越えて、その後は人類史上初の人口減少が始まるというのである。国連推計では、その後も増進し、今世紀末には100億人を超えるとの数値もあるが、本書はそうは見ない。ごく大雑把に言えば、経済的に発展した国民は、自身の生活水準を維持するために多産を望まず、女性の高学歴がそれに拍車をかけるからである。こうして、いずれ「移民を奪い合う日」(8章)がくるという。残念ながら、ここでその論旨を追うわけにはいかないが、結論的にはそういうことになる(以下次回)。
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