4月26日・月曜日。晴れ。
前回の話を補足するような文章を、昨日の朝日新聞朝刊で読み、わが意を強くし、同時に大いに励まされた。ここではこれを取り上げ、もう一話寄り道を重ねることにした。まずは、当該文章を引用しよう。
「新型コロナウイルスにより昨年は涙の一年となった。パンデミックで、私たちが分かち難くつながっていることを改めて感じた。人も動物も植物も、海も、そして涙も。しばしばウイルスは動物から発生し、種の壁を超えて人間に感染する。パンデミックはこの結びつきを忘れ、自然を支配しようとする人間の傲慢の結果ではないか。/パンデミックを回避するのにワクチン接種だけでは十分ではない。これからは生き方や自然界との向き合い方を根本から変えていく必要がある。その第一歩として、自らが地球の支配者であるかのような振る舞いを改め、私たちが特別な存在ではなく、自然界の一部に過ぎないことを肝に銘じるべきではないだろうか。人と自然とが深く融けあっている和歌を翻訳するとき、こう感じないことはない」。
こう書くのは、アイルランド人、ピーター・J・マクミラン氏である。氏はわが国の古典を含めた、多くの文学作品や短歌、俳句を英訳し、その精髄を世界に発信されている、詩人・翻訳家である(現杏林大学教授)。今日に至るまで、我われは多くの優れた外国の日本文学研究者を持ち、彼らの活躍によって日本文学は、優に世界文学の重要な一角を占めるまでに高められたが、同氏もまたそうした我われの恩人の1人であるに違いない。
しばしばドナルド・キーンの業績に触れていることからも察せられるように、氏はキーンの衣鉢を継ぐ研究者なのであろう。日本での在住は20年以上に及び、その間、ドナルド・キーン日本文化センター日本文学翻訳特別賞ほか重要な幾つかの日本文学翻訳賞を受賞されている。
朝日紙上では「星の林に 詩歌翻遊」欄を担当し、筆者はここで同氏を知った。和歌、俳句の精妙な英訳と共に、それに添えられた日本語の文章力には、わが身を恥じ入る他はない。もっとも、日本文学研究者の日本語を褒めることは、褒めたことにはならないかもしれない。こんな事を言えば、キーン氏からこう嗤われるだろう。「日本人は今でもそうですが、日本人は外国語を知っていても、外国人は絶対に日本語を覚えられないという自信があるんですが」(『黄犬交遊抄』138頁・岩波書店・2020)。さらには、詩歌の解釈の分かりやすさ、深さにも感嘆させられ、そうかこの歌はこう読むのかと、毎回教えられているところである。
上記の文章は、「なみだは 人間の作る一ばん小さな海です」(詩「わたしのイソップ」から 寺山修司)を掲げ、そしてこれを以下のように英訳して、それに付された解説文の一節である。
A tear―
the smallest sea that a human makes.
文中の「涙」とはこれを承けている。これ以外に、この文章に対する解釈、注記は必要あるまい。我われ人間は、自然界の超越者でも支配者でもない。それどころか、「自然と融け合った」存在であり、だからそれを破壊する事は、己れ自らを滅ぼすことであると知るべきであろう(終わり)。
コメントを残す