2021年4月2日

4月2日・金曜日。曇り。

 

本日も引き続き、脱線させて頂く。前回ふれた、ミャンマー軍の兵士たちに惨殺された市民たちの無念は、どう晴らされると言うのか。彼らは、敵軍にではなく、よりによって自国軍隊に分けもなく銃撃されたのである。しかもそこには、彼らへの憎しみも持てない幼児まで含まれていた。そして、このような残虐をなし得た兵士たちは、今後、どう生き抜いていくのであろう。かつて「731部隊」に参画し、おぞましい人体実験を繰り返した医官が、迫り来る自らの死を前にして、「死ぬのが怖い」と涙ながらに語った事を、ここでもだいぶ以前に触れたが、ことはこれに連なる。

これは、死後の世界をどう考えるかという問題である。神なくば、全ては正しい、と言ったのはドストエフスキーであった。つまり、死後が全くの無であるとすれば、地獄も裁きも無い。この限り、今生での生き様は、善行も悪逆非道も無い。ただそういう事があったと言うだけの話で終わる。だが、あの世があるとすれば、話は全く別物になる。悪行には、閻魔が現れ、恐ろしい裁きが下る。しかもそれは永遠に終わる事がない。源信はそう伝えている。

では、あの世はあるのか、無いのか。以下の物語から、読者はご自由に判断されたい。奥野修司『魂でもいいから、そばにいて  3・11後の霊体験を聞く』(新潮社文庫、令和2年刊)が、その題材である。本書は、2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災者たちが語る、自分たちが失った最も愛する者たちの霊との邂逅、交流を記した書である。筆者が本書を挙げるのは、ここで記された内容がごく最近の、しかも体験者自身の口から語られた話であり、その読後感には否定しようのない圧倒的なリアリティを感じたからである。我われはすでに、東北地方の幽霊譚に類する物語として柳田国男『遠野物語』(1910)を持っているが、筆者がかつて本書を通読したとき、これは当時の民間伝承の一つであろうとの読後感しか持てなかったのに対して、この度はそれとはまったく対照的な印象を刻み込まれたのである(以下次回)。


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