2021年3月1,3,5日

3月1日・月曜日。晴れ。本日は予定を変更し、先月献本された書籍の読後感を兼ねた礼状に代えさせて頂く。長文の上、専門書の読後感であり、分かり辛いに違いないが、興味があれば、挑戦されたい。

3月3日・水曜日。晴れ。

3月5日・金曜日。曇り。

 

前略、いつまでも鬱陶しく、心配の多い日が続いておりますが、お変わり無きことと存じます。当方は、日々、未明の4時頃の就寝、起床は13時前後と、相変わらずの自堕落な生活ぶりで、旧同僚からは、よくそんな事が出来るものだと呆れられる始末です。そして、この3年間ほど、ハリ治療のため、有明の鍼灸大学に月1,2回、時に仲町経由で出向いております。そんな折には、この辺りに先生がお住まいではと推測し、あるいは東雲、月島界隈の様変わりに驚愕しております。元は江戸湾の直中に、かようなタワーマンション群を湧き上がらせ、先行き大事ないのか。かほどに技術を信頼してもよいものか、と。それ以外には、週2,3日、役員を勤める中央クリエイト社の早稲田本社に出かけては、「金子光男の手紙」なる怪しげなブログを書くなどして、まずは息災にしております。

さて、過日は御著『転換期ドイツの経済思想 経済史の観点から』(日本経済評論社)ご恵贈賜り、誠に有難うございました。丁度その頃、翻訳モノの大冊『ダーク・マネー』(東洋経済)に取り付いておりましたが、ようやく手離れ、御著を読了した次第です。久しぶりの学術書との格闘に、ヤワになった頭で太刀打ちできるものやら危ぶみましたが、時間を要したものの、充実した読書となりました。以下、簡単な読後感を記し、遅ればせながらの御礼とさせて頂きます。

従来、わが国の経済学史の教科書では、ドイツ経済学と言えば、イギリス古典学派の一般理論に対抗したF・リストの説く発展段階説とそれに基づく保護主義的な経済政策を出発点に定め、その後新旧の歴史学派の、これも反古典派的な歴史主義にたつ方法論的解説(その典型はシュモラー対メンガーの方法論争でしょう)が主であり、ドイツには独自の経済理論は無きかの如き印象でした。とは言えここでは、大河内一男『独逸社会政策思想史』(上・下、日本評論社)の記念碑的な大作は、わが国の歴史学派研究の一頂点として、是非挙げておかなければならないでしょう。

そうした傾向に対し、最近、八木、原田両氏等のご努力によって、ようやく未開の地にも石斧が打ち込まれ、新生面が開かれようとしてきたようですが、それでも古典学派の研究に比すれば、いかにもその手薄さは覆うべくもありません。そうした状況での、御著の刊行は、この分野における今後の研究の指針として多大なる貢献を果たされるのではないかと拝察いたします。この事を私は、特に「経済史の観点から」との副題を添えられた本書の方法論的な意味に留意して、申し上げたいと存じます。

御著3章以後で展開される、L・H・ヤーコプ、G・フーフェラント以下のドイツ古典派経済学者の解析は、実に興味深く拝読しました。彼らは、スミス由来の労働価値説―生産費説=価格論―分配論―蓄積論の線上で、再生産過程を過たずに理解し、その理論を歴史的に規定され、それ故英国とは異なるドイツ固有の社会・政治・経済構造の分析に応用しつつ、イギリス古典学派のいたらぬ論点を補正し、またドイツの現状に即して理論的な改良がなされる。こうして、自国が置かれた現状の政治・経済的な改変、政策提言へといたる過程が、手に取るように解明される様は、誠にスリリングなものでした。

この限り、経済学は単なる知的遊戯などでは断じてありません。「国民経済学」として国家制度の改造の学となり、それはさながら、医学が人体を腑分けし、病巣の摘出とその病理の解明、そして治療に向かう過程と同断です。翻って、分業化の極まった現代経済学の場合はどうか。ここにもそれほどの力があるのだろうか。そんな印象を持たざるを得ません。何しろ、この10年来2%のインフレ達成を目指して、ゼロ金利どころか、マイナス金利にまで落としながら、目標は達せられないばかりか、過剰流動性から株価上昇、格差の拡大を招来するばかりの経済学なのですから。

古典派のドイツ移入の問題は、比較史的な方法を必然的に内包します。そして、それもまた本書の魅力の一つです。比較史研究に精通された先生を前にして、これを申し上げるのは面映ゆい限りですが、ヴェーバー比較論に興味を持つものとして、敢えて一言いたします。ドイツに移植された古典派は、上記のように、ドイツの政治経済的な基礎課程に規制されて、当然のことながら改変されます。しかし、それは英国古典派理論の有効性と限界を照射することになりましょう。例えば、リストによる生産力概念の精緻化、スミスでは分断されていた使用価値と交換価値(水とダイアモンドの事例)の問題については、主観価値が重視され、J・B・セーと共に後の経済学の発展に寄与いたしました(ここでは、C・メンガーが想起されます)。にも拘らず、労働価値論に立脚する古典派再生産論は、ドイツでも揺るぎなき妥当性を証明しました。御著の後半での論述が、その証です。

しかし、本書の表題に掲げられた、転換期の経済思想が孕む変革力の問題は、俄然、リスト考においていよいよ明らかにされます。理論が理論に止まらず、人々を糾合し、一つの運動体となって、社会・政治・経済機構を揺るがし、ついにドイツ領邦的絶対主義の体制が、「ドイツ三月革命」の到来によって、一時、確かに瓦解したのです。それを可能にしたのは、まずは体制の根幹を抉ったリストの理論的な解明にありますが、彼のこの理論を受容したばかりか、政治化し、それをドイツ全土にまで拡大した、思想の共鳴盤とも言うべき社会層との邂逅が無ければなりませんでした。

この社会層とは、ここでは経済活動の中核を担う企業家達、中小の農業家や商人層であります。彼らは、日々の経済活動で直面する数々の制度的な掣肘、領主的人格支配の理不尽さ、過酷な納税・賦役や不自由に困窮し、それゆえこれらの桎梏からの解放を真に切望する人々でした。しかし彼らの多くは、いまだそれらの困苦と窮状、そしてその背後にある真の原因を明確な言葉で、捉えきることは出来ません。リストはそんな彼らに明確な理論とヴィジョンを示したのですから、彼の主張は寒天の慈雨とも受け止められたことでしょう。その様は、旧約の予言者たちが、ユダヤの民の堕落と悔い改めを迫り、救済の方途を指示した道筋に重なります。

リストは先ず、故郷のヴュルテンブルグの社会層を捉え、そこから立ち上がった改革のうねりは燎原の火となってドイツ全土へと波及してまいります。その過程は、本書中の白眉であり、リスト思想の現実変革力をまざまざと見た思いでした。この時、理論は確かに、政治経済的な基礎と結んで、思想へと転換されたのです。

とは言え、本書の興味は以上に尽きません。私と飯田の各古希記念論集に寄せられた、二本のルター論考がそれです。マルクスが認めたとされる、ドイツ初の経済学者ルターの再評価とその彫琢は、実に鮮やかです。当時のドイツ経済の基礎課程を背景に、彼の経済学が徐々に浮かび上がる場面は、かつての内田義彦『経済学の生誕』のドイツ版を見る思いでした。

そして、最後に申し上げるべきは、「言葉」のもつ力です。40年前、小林昇氏の一言が、この度の新著に生かされたとの由。常々思うのですが、言葉は多くは「事の端」として消え去るものでありながら、ある決定的な一言は「言霊」となって、心に根付き、影響し続けるものである、と。私が付属校長の折(5年間を努めました)、毎回小分けにして、その年次の高校3年生の全員を校長室に招き入れ、各3~40分の懇談を持ちました(総じて一千名近くになったでしょうか)。その折は、決まってそんな話を繰り返したものです。御著を読み、久しぶりにその事を思い出した次第です。と言って、わが言が何人の生徒たちの心に落ち、言霊になり得たかとなると、とても小林先生のようには行かなかったと存じます。

本書については、なお語るべき論点は多々ありましょうが、それらを汲みつくすことなど、私には及ぶべくもありません。以上をわが読後感として、ここらあたりで一先ず擱筆させて頂きます。コロナ疫病の消長はいまだ定かではありません。どうぞご自愛の上、お過ごしください。


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