10月28日・水曜日。曇り。
10月30日・金曜日。薄曇り。昨日(10/29・木)のジャパンタイムズの記事「ウイルスとの戦闘では、免疫体系が身体を攻撃しうる」を読み、前回の我が主張を補強するものとして、ここに一点だけ引用しておく。なお、同記事は、COVID-19の実態、今だ不明なり、とするこれまでの同紙の論説の延長線上にある、と見てよい。新たな研究によれば、本病の回復者の中には、「免疫系が身体に向かい、それは狼瘡(ろうそう)のような潜在的な衰弱性疾患」を想起させる徴候を抱えた患者が出てきた。「ある時点になると、これらの患者の身体の防御システムは、ウイルスに向かうよりも、むしろ自分自身への攻撃に転換したのである」。なお、狼瘡とは、体内に自己抗体を産生する自己免疫疾患で、難病で知られる膠原病の一種であると言う。
11月4日・水曜日。晴れ。前回の文章に3段落追加し、文章に手を入れる。
これまで数回にわたり、インカ帝国滅亡の物語を素材にしながら、実はその影の主役は天然痘であり、痘瘡ウイルスであることを示してみた。元より医学者でもなく、その素養も無い筆者が、誠に大それた、無謀の挙に出たわけだが、それでも挑戦し続けたのは、マクニール他の労作を当てに出来たからであった。そうしてここで言いたかったことは、何世紀もの蓄積をえた歴史的知見は、事柄に対する浸透力のある認識や理解をもたらして呉れるものだと言うことである。病原菌、ウイルスの生体に対する侵襲や破壊の病理的、生理的なメカニズム・機序についての知識がなくとも、長期的なスパンで病理現象を眺めてみれば、そこからある纏まった、理屈に見合った理解が得られ、それはある場合には医学者の見落とした、或いは気づかない視点を教え得るかも知れないのである。
これについては、分野は違うが、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震が、直ちに思い起こされる。これによって、東京電力福島第一原子力発電所が破壊され、原子炉の損壊から炉心溶解を来たして大惨事を引き起こし、その窮状は10年後の今も続くことは、周知のところである。
だが、この地震は突如襲ったものでは無い。こうした大震災の可能性は、すでにそれ以前から十分に知られており、とても「想定外」の事ではなかったのである。例えば1986年には箕浦幸治氏(東北大学理学部教授)による貞観地震(869)以前の仙台平野の古津波堆積層の研究があり、また1990年東北電力女川原発建設に際し、貞観地震の影響についての研究もなされ(『地震』2輯・43巻1990)甚大な被害のあった事が確認されるなど、それ以外にも少なからぬ研究報告等により、この地方に激甚な災害の起こり得ることは、地質学者、地震学者、歴史家によって認知されていたからである。
東電はこれらの指摘を真摯に受け止め、然るべき対策を取っていれば今次の災害の多くは免れ得たと思うと、被害者にとっては断じて容認しえぬところであろう。そして、これらの知見が葬り去られたのは、千年以上前の地震に関する不確かな論説に過ぎず、しかも彼らは原子力発電には素人であるという、電力会社・原子力ムラ・行政と言った鉄のトライアングルの利害からであった(上川龍之進『電力と政治』上・下。勁草書房、2018)(なお、当地方の大地災の読み物として、吉村昭『三陸海岸大津波』・文春文庫を挙げておく)。
だが、専門家たるもの、傲慢になってはならない。専門外から決定的な示唆、発想を得ることは、歴史の内には幾らでも見られるからである。あのチャールズ・ダーウィンは、主著『種の起源』(1859)の「適者生存」の着想は経済学者であるT・マルサス『人口の原理』(1798)から得たと明言しているし、ルイ十五世の愛妾・ポンパドール婦人の主治医、F・ケネーは「経済表」(1758)において、社会経済現象を人体に見立て、血液を貨幣に置き換え、これを媒介として「生産」と「消費」の循環の仕組みを明らかにし、その後の経済学の発展に計り知れない貢献を果たしたのである。つまり、その分野の専門家だけがそれについて発言しうる資格がある分けではなく、それとは無縁のいわば素人の知見、認識が大きな意味を持ちうる、と言っておきたい。
たしかに、専門外から提示された認識の当否、その意味等は、最終的には専門家によって検証され、確定される他はない。これは疑いようもない。ただ、事柄についての物の見方、認識を持つことは、専門家の専売ではない。それは全ての人に許され、開かれたことである。この一線を堅持しなければ、我われは専門家の言いなりになりかねない。しかも、専門家の間でも見解が分かれる場合には、尋ねる相手によって、右に左に行方知らずとなる他はなかろう。ましてや、専門家の知見なるものも、実に怪しげ、と言うより御用学者の弁になるに及んでは、そうそう安心して聞いてもいられない。殊に、不確かなネット情報の氾濫する時代、また権力が問題を巧みに逸らし、すり替えて恥じることも無い時代には、この一事は特に重要である。
では、そのためには、どうすれば良いのか。先ずは、自分が大事とする事柄・問題について、シカと見詰め、考えてみることだ。これまでの己が人生に照らし、ここで言われていることは、理屈に合うのか否かを、自分なりに点検してみることだ。それは当然、自分自身の知識を深め、思考力を鍛えて、専門家から独立した自分なりの足場を築くことにもなるだろう。見識とはそこに成り立つ。それが誰にもおもねる事の無い「一身独立」の意味ではないのか。そのように独立し、かつ互いに連帯した個々人に支えられてこその「一国独立」であろうと思う(この項終わり)。
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