2020年4月30日

4月30日・木曜日。晴れ。明日より皐月。ほぼ3週間ぶりの出社である。コロナ感染を恐れ、春日部に蟄居。日々、近くの喫茶店通いと22時以降から1時間ほどの散歩で、8千歩以上を踏破し、免疫力向上に努める。と言って、就寝4時から5時、起床13時以降の体たらくである。養生しているのやら、いないのやら。本日、大学理事会のため7時半起床のため朦朧なり。

 

前回の話をその後の帝都東京に引き継いで言えば、感染症が細菌によって発症し、薬によって治癒できるとなれば、その対策が医薬を中心とする対応に向かうのは当然であった。事実、ベルリン市の下水道建設に尽力し、市の環境整備に成果を上げたホープレヒトは、その功績の故に各国諸都市から招待され、東京も彼を招聘しているが、招かれた彼は1年ほどの滞在の後、上水道の建設を推奨しながら、下水道は建言しなかった。巨額の経費を要するからである。こうした経緯もあってか、東京はじめ諸都市の下水道普及は大戦以降に大幅に遅れることになる。ここで言いたいことは、人とは必要なことを知りさえすれば、今度は逆に、長期的な視点よりも目先の損得を優先し(そしてこれを、経済合理性なるもっともらしい言葉に言い換えるのだが)、結局は根本的、本質的な対応を怠るか、取り逃がす存在らしいという事である。

この問題は筆者には実に面白い、考えてみたい論題である。我われは、今向き合っている対象を知り尽くすことは出来ない。ましてやその後の経過がどうなるか、という点になれば、全くのお手上げである。その後の最善を願っての対策に完全を期することはまず不可能である。たまたま上手くいった対応が、成功体験となってこれに執着し、自由になれずにのっぴきならない苦境へと追い込まれる場合は、私生活でも、国家の歩みでも変わりはない。つまり、思索においても、行動においても、この不完全さこそ人間なのであろう。しかし、またもや私は横道にそれてしまった様だ。事は現在のコロナ禍の問題であった(以下次回)。


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