2016年10月11日

10月11日・火曜日。相変わらずの曇天。

領地の蹂躙と簒奪はかくのごとし。だがそれで終わったのではなかった。いや、徹底的な略奪の序章でしかなかった。その後の4年の間に、ヨーロッパ中から投機家の群れがやってきた。敷設された鉄道は、黄金狂にうなされた大軍を次々送り付け、会社が勝手に設立された。そうして、ズーターの領地をてんでに掘り返していた。待ってくれ。この土地は「政府の印鑑が押されている書類」によって、ズーターの所有地であることに、間違いはないのである。

にも拘らず、この土地は見知らぬ他人たちの所有物となり、売買され、いつの間にか都市の風貌を整え、それはエルドラード・カリフォルニアという魔力的な名で呼ばれるようになった。ここに、彼が名付けた新ヘルヴェチア(新スイス)王国は消失する。同時に、ズーター一家は王国の外れにある金とは無縁な農園地に隠棲する。妻を亡くした彼は、三人の息子たちと共に農業経営者として立つことを決意した。

彼らはこの決意の通り、農業事業者として暮らせば、幸福に過ごすことができたであろう。彼はこの土地の地味と豊饒性を良く承知しており、そこから豊かな生産性を引き出していたからである。しかし、容赦ない運命は、彼をソットはしておかなかった。こうして、彼の人生の最終幕が開く。

1850年、カリフォルニアは合衆国に組み込まれる。と共に、国家による法律の執行力が息を吹き返した。規律が遵守され、秩序は回復した。ならば、とズーターは立ち上がる。サン・フランシスコ市が建つ土地は、法律上すべて自分の所有地である、と司法に提訴し、棄損した彼の権利の回復を求めたのである。それは人類が初めて知った「大がかりな訴訟事件」になった、とツヴァイクは言う。まず、領国内に住む17,220人の農夫の告訴と土地の返還に始まり、カリフォルニア政府に対しては、領土内の彼の所有に帰する「道路、運河、橋、堰、製粉場」の代償として2500万ドル及び採取された黄金の分け前等である。この訴訟のために、長男はワシントンで法律を学び、訴訟費用は莫大な農業利益から賄われた。つまり、彼は全てをここに注ぎ込んだのである。1855年3月15日、判決は下った。それは望外の成果であった。「カリフォルニアの最高官吏である公正な判事トンプソンは地所に対するヨーハン・アウグスト・ズーターの権利をそっくりそのまま認めた。」

悪魔の狡知、とはこれを言うのであろうか。ニッコリ笑って、希望を持たせながら、一気に地獄に突き落とす。ほんの数年前、彼は「世界最高の富者」の夢を掴みかけた。今再び、そして、今度こそ確実にこれを手にし得たと、確信し喜びに浸ったことだろう。だが、幸福の絶頂から奈落の底に叩き落とされるのは、一夜で足りた。再び、ツヴァイクに語らせよう。

「判決が世に知られたのち、サン・フランシスコとそして全地方とに騒動が勃発した。一万人の人間が暴動を起こして、地主たちをおびやかし、ますます掠奪をほしいままにする浮浪人暴徒が裁判所を襲ってその建物を焼き、裁判官を私刑にしようとし、それからものすごい人数の彼らは、ヨーハン・アウグスト・ズーターの全財産を掠奪しに出向いた。彼の長男は暴徒たちに脅迫されてついにピストル自殺を遂げ、次男は殺害され、三男はスイスに帰る旅の途中で溺死した。新ヘルヴェチアは火の海になり、ズーターの農園は焼かれ、葡萄の株は踏みつぶされ、彼の動産、蒐集品は奪い取られ、莫大な持ちものは残酷な狂暴さによって荒らしつくされた。ズーターはかろうじて自分の命だけを救うことができた」。

強靭な精神力を持つズーターも、この狂猛な嵐にあって、ついに破綻をきたす。頭の中にはただ失った家族への思いと権利や訴訟がちらつくばかりであった。そんな彼に言い寄る者達はまだあって、裁判を唆し、カツカツの金を巻き上げてしまった。もはやカネが問題ではない。失われた権利の回復、これが偏執狂的に彼を苛み、乞食のようななりも構わず、その後の20年間を裁判所や議会の周りをうろつき、誰からも相手にされず、1880年7月10日、卒中が襲って国会議事堂の階段の上で息を引き取ったという。「死んだ乞食」として処理されたばかりであるが、それにも拘らず動かせない事実がある。「依然としてサン・フランシスコとその一帯の土地は、他人の所有地の上に立っている。これについての権利のことが問題とされたことはまだない」。

私はこんな長話をする心算はなかった。興味のある方は、本書を読めば分かることだからだ。ここで私が言いたかったことは、正義や秩序、あるいは法といっても、それが守られるのは社会の大勢、趨勢に影響しない範囲内でのことでしか無さそうだ、ということである。法の執行、秩序維持といっても、その実行が社会体制の根幹に触れ、深刻な変革を迫ろうとするとき、とりわけその被害者が少数者、マイノリティーに留まる限り、国家は彼ら被害者の方を抹殺し、問題自体を無い事にしてしまうのではないのか。そんな事例は、この四五十年の間でもいくらもあった。水俣病や血液製剤の患者たち、今でいえば、福島原発の被害者たちもそうだろう。

そして、本当に恐ろしいのは、大衆として集団となった怒りの連鎖である。いかに強大な国家権力といえども、一度火のついた盲目の暴動は止めることはできない。それは行き着くところまで行くほかはない。であれば、権力は常にこれを監視し、抑圧して防遏する。それがまた、強権的政治の出現となろう。そうした悪循環を止めるのは、何か。教育だろうか。だがしかし、私自身を見詰めるとき、わが身内にそのような自己抑制の力を見出すことはできない。私もまた先の大衆の一人となって、盲目の暴動の中にマッシグラニ突き進みそうな気がするのである。つまり私も、ズーターを打ち据える一人になるのではないかと、恐れるのである。


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