2016年4月8日

4月8日・金曜日、うす曇り、桜花乱舞。

ここで、本書の全体的な俯瞰、紹介をやらかそうなどという大それた野望は、筆者にはカケラもない。自分の分かりそうな所を都合よく摘まんで、我が気休めになればそれで良いのである。だから、読者はこの一文に接して興味を持たれたなら、是非、本書を読まれる事をお願いしておこう。

唐突だが、本書を離れて、先ずアナタ方お一人お一人に尋ねてみたい。先の見込みの無い業病に冒され、いまわの際まで、ただその苦しみに呻吟しなければならぬとしたら、どうされるか。今でこそわが国でも「尊厳死」が認知されつつあるものの、しかし医師は積極的にそのための措置を取りたがらない、とも聞く。それは「幇助」であれ殺人的行為を含意し、いまだそのための法的整備が十分でなく、医師は常に遺族や国家からの訴追を恐れるからというのだ。そこにはまず、倫理的、宗教的な思索、基盤が整えられておらず、それゆえ我々はこの種の問題をドウ受け入れ、考えたらよいか、といった諸問題が未整理だからなのであろう。しかし、快癒までは行かなくとも、延命的な治療はどこまでも可能な現代医学の孕む問題はあまりに広大であり、このまま放置するには深刻にすぎる。

こうした終末医療の問題は、詰まる所、医療倫理の問題に行き着く。「生と死」は個人の逃れられない人生問題であると同時に、社会や国家の問題でもあり、だからそこには自然環境をはじめ、文化や歴史、そこに育まれた死生観、宗教意識等あらゆる問題が胚胎されることになる。医療倫理とはこれらの問題を受け入れ、飲み込んで確立される医療における規範的な思考・行動原理を含意するように思う。こう理解すれば、著者がわざわざ「まえがき」において、北欧の地における強烈なまでの「個の尊厳と自由」の誕生を熱く強調し、その出生の淵源であるゲルマン的神話や宗教意識にふれながら、これを正統キリスト教から見れば「異教」とも言うべき「彼らだけの新たな宗教」として指摘しなければならなかった経緯も了解されるのである。

つまり、本書が扱う終末医療に関わる医療倫理学は、北欧という環境的にも文化的にも類のない地域から立ち上がった思想圏を背景に誕生したが、しかしそれを基礎に開花した一連の終末医療の思想と行動(ここには法整備、施設、制度、介護等を含む)は、断じて北欧という地域に跼蹐されるものではなく、そのように独特であるが故に、返って世界に開かれ、先導する役割を担えたのである。たかだか6ページの「まえがき」はこの間の事情を簡潔に記した、おろそかにしてはならぬ文章である(著者のここでの意図は、これに尽きない。本書は「北欧的なるもの」の本質を捉える一環として著されたのであり、故に本書は著者の神話学、哲学書等と共に読まれるべきなのである)(以下、次回)。


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