2014年7月9日

7月9日・水曜日・雨のち曇り。台風による沖縄の惨害を思う。
倫理学の課題は、人と人の関りのあり方、その規範、規則とはいかなるものかを検討、考究することにある、といはれる。こうして、人の振る舞い、挙動挙措、さらには生き方までもが示される。著しくその規範から外れたものは、ウマクいけば豪傑、偉人になりうるが、たいていは、ヘンジン扱いならまだしも、バアカと相手にされないか、アタマがチョッと?となる。教育現場での師弟関係は、普通、生徒への愛情と師への尊敬が基礎にあるべきなのであろう。私がここで、わざわざ『べき』と言ったことに、ご注意あれ。それが普通ではないからだ。ともあれ、そのような関係が築かれていれば、教師の厳しい指導も意図のとうりに受け止められる。そこでは、生徒自信が教師に謝し、身を改めるに手間は要らない。だが、生徒の目はゴマカセナイ。「私には、こうで。あのひとには、アアだった。」

そんな追及を受けた教師こそ哀れ。これまでの言動の全てが明るみにだされ、矛盾を突かれ、その説明は支離滅裂となり、ついに陥落。あげくは、ダマレ!、の一喝のほかなくなるのだ。素直に謝ればイイモノヲ。あるいは、こうだ。生徒の不備、失敗、過誤を、これまた鬼の首を取ったごとく、「ヤッタ」と心に快哉を叫んで己が秘密とする。かくてそれを針小棒大にまで押し広げ、これをネタに彼を呼び出し、事情聴取がはじまる。それはさながら、わが年来の仇敵をようようの態で打ちとめるが思いに満ち、怪しげな喜びすら胸に秘め、勇躍、欣然、だがその顔貌には限りない憂愁を漂わせて彼・彼女に襲い掛かるというしだい。そのさまは猫が仕留めた獲物をネブルが様に時間をかけ、執拗だ。そのくせ、普段は時間がない、忙しいが口癖の御仁の指導だ。私は、少々、戯画が過ぎただろうか。だが、明瞭なイメイジを結ぶためには、このくらいがちょうど良い。しかし、当たらずとも遠からずのこのような絵図が描かれ、恐らくある人々からは、「ウン、そうだ」とも言われかねない、教育の現場がそんな事態にあるとしたら、それはどうしてだろう。これは、次回にて!と、少し、モッタイヲつける(前回の文章を、チョイと直した)。


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