2014年7月2日

前回は、教師の資質の話であった。私の教師像とは、概ね真面目、義務感は強く、それだけに他者に対しては厳しい。そんなところだ。これは決して非難されるばかりのものでもなかろう。いな、むしろ褒められてしかるべき長所である。生徒には、時に厳しく接し、彼のうちにある人間的な弱さ、あるいは不正に気付かせ、これを矯正する事は、教科の指導以上に大切だ。ただ、ここにはある抑制と相手に対する配慮がなければなるまい。

ここで思い出すのは道元のことである。彼は修行を怠けている弟子を、拳も欠けナンほどに打ち据え「只管打坐」(しかんたざ)を教え諭した。『正法眼蔵随聞記』での彼の指導は苛烈を極める。今、こんなことを実践しようものなら、それこそ暴力教師としての懲戒処分は免れまい。しかし、道元には、何としても弟子には真の悟りを開かせたい、という止むにやまれぬ祈りがあった。地獄に落としてはならぬという、心底からの愛があった。だから、彼の打擲は涙にまみれていたに違いない。ここには、現在の教育現場にはない、弟子と向き合う真剣さ、命がけの直向さがあるようにおもうが、どうか。そして、私の読んだ岩波文庫版では、和辻哲郎が解説を付していたが、それは西洋哲学を基礎に、だがわが国の宗教や文化をも素養として独自の倫理学を打ち立てた和辻の教育観の故であったのかもしれない。

さきに私は、相手に対する配慮と抑制、と言った。道元に打たれる弟子には、師の思いと愛情とが痛いほど分かっていた。むしろ、かかる打擲をさせる己が不明、不甲斐なさを師に詫び、かつは涙したに違いない。これをも、ひとは暴力と言うのであろうか。いや、そうではあるまい。暴力とは、これを振るうものがわれを忘れ、怒りに任せ、ただ打擲する、あるいは何かの復讐として相手を殴る。これではないか。ここでは互いの信頼は消滅し、ただ憎しみのみが募るばかりだ。そして、それはたんに腕力だけのことではない。言葉であれ、態度であれ、おなじことだ。しかも、この種の暴力は、とくに教育の場でのそれは、生徒への指導、躾に名を借りてなされるだけに、しばしば巧妙かつ陰湿な形になりかねない。これを受ける被害者の精神的な苦痛、打撃は計り知れない。なんかエライ話しになってきた。道元ナンゾをだしたから、こんなことになったのだろう。疲れても来たし、今日も十分働いたので(?)、この辺にしよう。あとは次回につづく。7月2日・水曜日・久しぶりの晴れ。暑し。


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