2020年1月14,21日

1月14日・火曜日。晴れ。年改まり、早や半月。

1月21日・火曜日。晴れ。寒風やや強し。

 

前便では、山梨県の山中で目の当たりにする、無惨に抉り取られた「山川」の「真に荒涼とした」姿にたじろぐ一読者が、これは都会の建築資材用の土砂を採取するためだと、瞬時に了解された体験談を紹介したが、こうした事はなにも千葉や山梨に限ったことでは無いだろう。骨材として良質な土砂や砕石に恵まれ、都市への運搬が可能であれば、日本中どこでも起こり得るし、事実、それは発生していたのである。その詳細は佐久間前掲書にゆずるが、ここではその一例として京都府城陽市の場合を示しておきたい。荒れ果てた自然破壊に対して住民、市行政が一体となって挑戦し、何とか事態の改善に取り組む姿が、人をして勇気づけるからである。

当市は「京阪神という大都会に山砂を二十年間にわたって供給してきた、いわば関西における君津市である」。市の後背地に当たる丘陵地帯の山砂は格好の獲物であった。その果てはどうなったか。「沿道には廃屋があり、小川の川底が上がり、赤く変色しているのは君津と同じであった。採取跡地やヘドロ池が至る所にあり、吹き荒れた開発の嵐の結末を見せつけていた。深さが百メートルもありそうな採掘穴には驚いた。その穴は山イモを掘った跡のように深く抉られており、穴の底でパワー・シャベルを動かした作業員の身の上があわれであった。どこかが崩落すれば生き埋めになるのは、誰が見ても明らかで、現に崩落の跡があちこちに見られた。地獄を覗き込むようなおそろしさであった。

「その穴の傍らには百メートルはあるヘドロ池の堰堤が続いており、その中間あたりから下は、水位を示すように水が滲み出しており、堰堤の色が変わっていた。いつ決壊してもおかしくはない、と市職員は言う。市では、あちこちにあるこの採掘穴の処分に頭を痛めている」(前掲書、179-80頁)。

採掘の最盛期には一日6千台ものダンプが細い山道を疾駆し、道路を抉り、晴れれば砂塵、降れば泥道の中、小中学生の通学は常に危険と背中合わせであった。四六時中の地響きと砂ぼこりは安眠障害を来たし、入院を余儀なくされる住民たちが出てくる。行商人や新聞配達から見放され、タクシーは寄り付かず、日用品の購入はもちろん、急患の搬送もままならない。

かくて当市の住民たちは、こうした「人権侵害」、生活破壊の惨状を京都法務局に訴え出るのである(昭和42年)。また、同年、4月、7月には採取場からの泥水が70戸の住宅を襲って、被害総額推定13億円の損害を与えたとして、大阪通産局に対し、砂利採取法第九条にある「公益の保護」を業者に遵守させるよう要請したが、通産局は「法に違反しないので命令はできないし、罰することもできない」とニベもない回答である。当時、30社に及ぶ採取業者が勝手気ままな採掘に専心できたのも、こうした無規制、無統制な背景があったからこそであろう。

だがこれを黙過すれば、住民の生命・財産は破壊されるばかりである。かくて住民、町が一体となった一大住民運動が展開され、「山砂利公害絶滅町民会議」として結実する。町会議員は街頭に飛び出し危機を訴え、一戸百円のカンパは総額52万円の資金を生み、1万4千名の署名が集まった。これを基に、百名の陳情団が結成され、「10月11日、76歳を筆頭に老若男女100名が、タスキ、ハチマキ姿で夜行バス2台に分乗し、東京に向かった」。要求項目は砂利採取法改正、13億円の国による損害賠償、ダンプカー規制強化などを中心に、通産省他7箇所を陳情し、実情を訴える。この運動は全国的に報道され、各自治体にも大きな影響を与えた。さらには、衆参両院議員などが次々現地調査に入ることになり、陳情は成功した。

当時の町長であった島利一氏は述懐する。「こうした山砂利の闘いの経験によって、町民自身が自分たちの団結の偉大さを学び、自分たちの暮らしは自分たちで守るのだという自治意識を持つようになったのです。そして、政治の不合理さは、住民運動の力で変えさせていくことに確信を深めたのです。それ以後、住民要求は非常に多く出されるようになった…」(182頁)。

まさに試練が人を、組織を鍛え上げると言う見本ともいうべき事例であろう。またそれ以後、各市町村、警察は条例、法令を見直し、生活権の保全、保護の対策を強化しつつあるようであるが、しかし他方で少しでも油断し、気を抜けば常に法の盲点をついた脱法行為は復活し、一つの決着は決して最終的な解決に至らないことを本書は教えているのである(この項、終わり)。

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