2019年5月24,31日

5月24日・金曜日。晴れ。はや夏日、所によっては猛暑日の街もあるとか。今年の夏が思いやられる。一昨日、地下鉄の冷房にやられたか、風邪をひき、昨日、終日臥せる。抵抗力の減退覆い難し。

5月31日・金曜日。曇り。明日より水無月。梅雨の時期に「水の無い月」とは妙な事と思いつつ、今日まで打ち捨てにしてきたが、本来、「無」は「の」の意味で「水の月」、すなわち「田に水を引く月」という事であるらしい(『日本語大辞典』より)。

 

前書は決して読みやすい本ではない。マニフェスト、すなわち宣言書であるが、そこにいたる説明が主題によっては十分でないまま、断定的に宣言されているためであろう。もっとも、宣言は膨大な文献に裏付けられており、根拠がない訳ではない。ともあれ、それを押して読み進めれば、非常に啓発的であることは間違いない。

以下では、著者のいう「防御的経済成長」の主張についてのみ紹介するにとどめたい。これはわれわれの問題にも深く関わり、また現在の経済発展のメカニズムに潜む負の部分を鮮やかに浮き上がらせているからである。

この「防御的」と形容される経済成長は、殊に合衆国で典型的であるが、今や欧州(そして日本)をも覆う経済活動の在り方である。これを一言でいえば、こう要約されよう。経済発展がもたらす豊かさは、その反面、様々な物、或いは事を犠牲にして来た。

例えば、自然環境の劣化、家族や社会的な人間関係の希薄化、むしろ断裂はその最たるものであろう。それらによって、人々は相互の信頼や恩恵と言った、貨幣価値には還元されない有形・無形の慰安や安心を受けることが出来た(これらを著者は「社会関係資本」という)。資本主義社会以前の農業を中心とする社会(村落共同体)ではどこでも見られた、当たり前のことであったが、経済発展や都市化と共に住民は都市へと吸引され、血縁・地縁関係は消滅すると同時に、都市住民となった彼らは孤立し、生活の多くは自身の責任で維持していかなけれならなくなった。

もっとも村落共同体にはそれ特有の閉鎖性と共同性が強固であり、それが個人の自立・自由を拘束する。また、共同体からはみ出す住民を厳しく罰し、排除する面のあることをみれば、共同体生活を手放しで賛美することは出来ない。こうした社会からの脱出こそ、経済的な理由とは別に、若者たちが持つ都市への羨望の一つであったであろう。

だが、元に戻ろう。都市住民となった人々は、かつては当てにできた社会関係資本を失い、いまやそれに代わる代替物を自ら獲得しなければならなくなった。屋内には、人間関係を埋め合わせ、孤独と無聊を慰めるテレビ・スマホ他数々の電化製品、荒涼とした住宅街では細やかながら庭木を設え、あるいはいつでも自然に帰れるような別荘や自由な移動を保証する自家用車等々と、獲得すべき財貨やサービスが無限に迫ってくる。かくて人々はそのための所得をめざして、ただ勤労に駆り立てられる他はない。「防衛的」経済活動とは、そのように失われた生活の回復を図ろうとするものである。そして、GDP(国内総生産)で示される経済成長はそのような消費欲に支えられた経済活動の結果だと言う訳である(以下次回)。


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