2017年1月16日

1月16日・月曜日。快晴なるも寒し。本日、日本将棋連盟より五段位の免状を授与される。谷川会長が直々に手渡ししてくださった。我が実力、段位に及ばぬ事遥かなり。

新年を寿ぎ、それに相応しく少々高雅な題材と話しを、と妙に背伸びしたのがまずかった。またもや迷路へと踏み迷う。はたしてこの出口はありやナシや。

さて、前回の私の結論としては、散文と散文詩との境界は、詰まるところ読み手の感性に帰するのではないか、ということであった。もっとも、その当否は読者にお任せする他はないのだが、仮にそうだとすれば、この度(正確には、昨年11月末)、散文詩とはまさにこのような作品を言うのではないか、と思われる著書を頂戴した。『美はそこに在り』(文芸春秋、2016)、柴田裕巳氏がその著者である。

本書を一読して、やはり文芸書の文体は違う。自分にはこのように清冽な文章は書けない。これが読後感であった。私がこれまで慣れ親しんできた文章世界は、複雑に絡む社会事象の因果連鎖を解きほぐし、その生起の骨格と特徴、あるいはその歴史的意味の理解を得ようとする、そうした文章であり、それに特化し、鋭くはあっても、無味乾燥であり、言葉の彩、丸味や奥行きなどは望むべくもない。そして、それはやむを得ないことなのである。学術的な文章は、無限に多様な内容を持つ対象から知ろうとする要素のみを引き出し、他を全て切り捨ててしまう操作(これを概念化という)を通じて、定義や概念を明確に構成し、そうした専門用語群と厳密な論理に支えられているからである。

こうした世界の住人としては、本書もまた、他の文芸書と同様、我が目を洗い清めるにたる清新さを湛え、これに深く打たれた。著者がここで差し出す世界は、多くは氏の住まう関東北部の山間、渓谷で日々繰り広げられる多様な生命の営みである。しかし同時に、都心の人知れず置き去りにされた開花の宴、あるいは落花の桜樹にも眼は注がれ、「そこに在」る「美」を掬い取るのである。

このように、氏は視覚的に捉えられる自然界の織り成す美の乱舞を捉えて離さない。だがそれは、単に形状、景観の美を讃えるわけではない。優れた肖像画はその人物の内面にまで迫る、と聞いたことがある(残念ながら、私にはそんな鑑識眼は無いのだが)。「オフィーリアよ、永遠に憩え」(132頁以下)はそんな感懐を呼び覚ます一文である。ここで著者は、ミレイの傑作『オフィーリア』の絵の魅力に引き寄せられて、水中に漂う死せる彼女と清流、そしてそれを包む水草の状景を求めて、裏磐梯の五色沼の水辺に足を運び、あるいは摩周湖から湧き上がるシュワンベツ川にさく水藻の白い花に出会って、ついに彼女の死の安らぎとそこに湛えられた美の深さを得心するのである(本日はここまで)。

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